第三話 わかりあう心
父に、「結婚します」と告げたあの日のこと──そこに至るまでの昔の日々を思い出す。
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私の両親は、知人の紹介──当時はごく普通だった“お見合い”で知り合い、父が28歳、母が21歳の時に結婚した。
昔ながらの価値観を頑なに守る父は、「男は30まで、女は25までに結婚するのが普通だ」と、よく口にしていた。
そして当然のように、「女は家庭に入るべきだ」とも思い込んでいた。だから、私が大学受験を考え始めた時も、父は一刀両断だった。
「特にしたいことがなければ大学に行く意味がないだろう。遊びを覚えるだけだ。それなら就職しなさい」
確かにあの頃の私は目標もなく、やりたいことも見つけられずにいた。だからこそ進学し、その中で探したい──そんな思いは何度伝えても届かず、結局私は高校卒業後、就職という道を選ばざるを得なかった。
父の頭の中には、きっと“理想の流れ”というものがあったのだ。就職して、数年働いて、ふさわしい人と出会い、結婚する。娘はそのレールを淡々と歩いていくものだ、と。
だが現実の私は、25歳を過ぎても結婚する気配などまったく見せなかった。しびれを切らした父は、叔母のツテを頼りに、見合い話を次々と持ってきた。
「とりあえず会ってみろ」と言われれば、断りきれず会うことは会った。でも、会えば会うほどしっくりこなくて、断りの返事ばかりしていた私に父は苛立ちは募らせていった。
そして極めつけは、私が26歳の時だ。以前からずっと胸の内に抱えていた──“大学に行きたい”という思い。それを告げた瞬間、父は激怒した。
私にはまだ明確な目標はなかった。でも、違う世界を知りたかった。見たことのないものを見て、読んだことのないものを読み、経験の幅を広げたい──ただ、それだけだった。
けれど父は、
「今さら勉強してどうなる? これ以上嫁に行き遅れたらどうするんだ!」
と、声を荒げるばかりだった。
それでも私はもう大人で、自分の人生を自分で動かしたかった。説得は無理でも、準備だけは淡々と進めた。
やがて父も、応援こそしなかったが、反対の言葉は口にしなくなった。なにを考えていたかはわからないけど、父は私に失望している……そう感じていた。
翌年、私は受験し、県内の大学の文学部に合格。文学だけでなく、歴史や哲学、芸術などにも触れた。ほとんどが年下の学生だったけれど、視野はどんどん開けていった。
大学は家から遠かったため、一人暮らしも始めた。初めての生活は不便も多かったが、それすらも新鮮だった。
4年間を終え、31歳で卒業。実家暮らしに戻り、地元の小さな出版社に就職した。在学中に文章や本の世界に惹かれ、文芸部で編集アシスタントとして働き始めた。
父にとって、女性の30歳は“行き遅れ”の象徴のようなものらしい。
卒業した私を見て、彼の中では私の結婚は完全に諦めの領域に放り込まれていた。今の時代では考えにくいことだけれど、父にはそれが“常識”だったのだ。
そんな中、職場で今の夫と出会った。私より5歳年下の、父とはぜんぜん違うイメージの穏やかな人だ。
それまでにも交際した男性はいたが、そのたびに父の“結婚まだか”の圧を想像し、母にだけこっそり伝えて、父には悟られないようにしてきた。
父が私のことを、“恋愛に興味のない娘”と思い込んでいたのも、無理はないのかもしれない。
夫と交際して3年。私が30代半ばに差し掛かる頃、彼はプロポーズをしてくれた。私が年上であることは、彼も、彼の両親もまったく気にしていなかった。
そして、ついに父に話す日がきた。
驚くだろうか。喜ぶだろうか。それとも、5歳年下という理由で反対するだろうか──。
そんなことを考えながら、ある夜、食事を終え、お茶を飲みながらテレビを見ている父に声をかけた。
「お父さん……」
「うん?」
テレビから目を離さないまま返事をする父。
「今、付き合っている人がいてね」
「……うん」
「私ね、結婚しようと思って」
一瞬だけ、父の視線がテレビから私へ動いた。ほんの刹那、驚いたのかどうかも分からないまま、また画面へ戻っていく。
そして短く言った。
「そうか」
……それだけだった。
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「ちょっといいですかっ?」
急に鋭い声がして顔を上げると、北原一族が立っていた。
特に、際立って厳しい表情の娘さんらしき人が、ずいっと私の目の前まで来て言う。
「父がね、結婚するとかいう話、聞いてます?」
「ええ……はい」
「余計なことはしないでいただきたいんですけど」
「……え?」
別に私が取り持ったわけではないんだけど──。
ポカンとしていると、背後から森田さんがスッと前に出てきてくれた。
「あの、どうかされました?」
「父がね、こちらで婚姻届を用意してくれるって言ってるんですよ。そんな勝手なことはしないでほしいんです」
あーらまあ。少し考えたら、そんなことありえないってわかるでしょうに。
森田さんは落ち着いた声で答えた。
「お父様、なにか勘違いされていると思います。私どもで婚姻届をご用意することは決してありませんので、ご安心ください」
それでも娘さんは納得いかないようで、ピシャッと言い放った。
「もしそんなことをしたらこっちもそれなりの対応を考えますから。それと、状況によっては近々こちらを退去する考えですので」
そう一方的に言い捨てると、くるりと背を向けてエレベーターに向かって行った。
「なんなんでしょうね……」
呆れたように私がつぶやくと、森田さんは肩をすくめて言った。
「親子でお互い冷静に話すことを知らないのよ。特に北原さんは認知症があるんだから、そこをわかってあげないとね」
親のことを、わかろうともしないんだな……。でも、私もそうだったかもしれない。
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私が大学に進んだこと。そして三十路を過ぎても結婚せず、好きに生きていたこと──父はそれをずっと不満に思っている、と、当時の私は勝手に思い込んでいた。
だから結婚の報告をしても、父が特に何も言わなかったのを、“好きにしろ”と突き放されたのだと受け取っていた。
けれど、あとから母に教えてもらった。
「お父さんね、あなたが仕事を辞めて大学に行きたいと言った時は反対してたけど……実際に大学に進んで、あなたがイキイキしてるのを見て、心の中では嬉しかったと思うのよ。だから次第に、“結婚だけが娘の幸せじゃない”って思うようになったんだと思うの」
そして母は、少し笑って続けた。
「“好きにしろ”って突き放すのじゃなくて、“好きに生きてほしい”って言う気持ちに変わったんじゃないかな。そのうえであなたが選んだ人と結婚するって聞いて、やっぱり好きにさせてよかったって、ホッとしたと思うわよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
父の気持ちの変化に気づけなかったこと。そして、父を“わかったつもり”でいた自分。
あの時、私は初めて父の本当の気持ちを知ろうとしなかった自分に気づき、父に対して申し訳ないという思いが胸の奥に静かに広がっていった。




