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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第八章 ほっとけなくて

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第二話 距離感

相手のことを“ほっとけない”気持ち──それが長年連れ添った夫婦なら、なおさら強いのだろう。


私の母もそうだった。ホスピスに入ってからも、いつも父のことを気にかけていた。


「お父さん、そろそろ帰ってくるから、ごはんの用意しなくちゃ……」


そう言って、ベッドから何度も起き上がろうとする母を見て、胸が痛んだ。


一方で、母は父を気にかけながらも、寂しさを何度も口にしていた。


「お父さん、なんで来てくれないのかな。いつ会いに来てくれるのかな」


“ほっとけない”思いと、“ほっとかれたくない”思い──その両方が入り混じっていたのだろう。


けれど当時は、認知症で混乱していた父を母に合わせることができない現実があった。


そのもどかしさに、私は何度も胸が締めつけられたのだった。 



夫婦って、仲がよくても悪くても、結局は“ほっとけない”存在なのかなぁ。


そんなことをぼんやり考えていた時、背後から控えめな声が聞こえた。


「あのぉ……」


振り返ると、佐野登志子さんがシルバーカーを握ったまま、所在なげに立っていた。


「どうしました?」


「……お父さん、どこに行ったかしら?」


「弘さんなら、今お風呂ですよ」


「あ、そうなの。部屋にいないから心配で……。じゃあ、ここで待ってるわね」


そう言って、登志子さんはいつもの席ではなく、廊下に面した椅子へ腰を下ろし、浴室の方向をじっと見つめた。まるで視線だけでも夫を追いかけ続けているかのようだった。


佐野登志子さんは85歳、夫の弘さんは87歳。ふたり揃ってここに入居している。


「あの……」


また呼ぶ声。


「お父さん、着替え持って行ってる?」


「大丈夫ですよ。スタッフで確認しています」


弘さんにはほとんど認知症状がなく、入浴も自立している。それでも念のため、私たちは着替えを一緒に確認し、脱衣所まで運ぶ。


「あの……」


「はい、どうしました?」


「お父さん、腕が上がらないでしょ。頭……ちゃんと洗えてるかしら? 私、見に行っていい?」


「スタッフがそばにいますから大丈夫ですよ。今、様子を見るよう伝えてきますね」


そう言って浴室へ向かおうとした私に、彼女は重ねるように声をかけた。


「あの……私は行ったらダメなの?」


登志子さんは立ち上がり、訴えるような目でこちらを見つめる。


「そうですね……。そこは、私たちに任せていただけたら」


「……そう」


小さくうなずき、そっと座り直す。その眉は八の字のまま、心配が途切れる気配はなかった。


この施設には、夫婦で入居している利用者さんがもう2組いる。とはいえ2人部屋はなく、すべて個室。空き状況が合えば隣同士や向かい合わせにできるけれど、いつも都合よくはいかない。


佐野さん夫婦の部屋も、5部屋ほど離れている。その距離が、彼女にとっては“離れ離れ”そのものなのだろう。


「なんで離れ離れなの? こんなに離れていたら、お父さんに何かあった時どうするの?」


入居したばかりの頃、彼女は何度もそう訴えていた。


今ではほとんどの時間を弘さんの部屋で過ごし、夜になってようやく自分の部屋へ戻る。弘さんがそれをどう思っているのかは、正直わからない。


ただ、時々、横であれこれ世話を焼く登志子さんに、少しうんざりしている気配はある。


──夫婦って、ほんといろいろだ。


近くにいれば気になるし、離れればやっぱり心配になる。


結局、お互いを“ほっとけない”のは、長く一緒に生きてきた証なのかもしれない。



午後になり、昼食を終えた利用者さんたちのほとんどは部屋に戻って休んでいる。


安藤さんも部屋で過ごしている。あれから特に訴えはなく、今は落ち着いているようだ。


さっきまでのにぎわいがゆっくりと引き、フロアの空気が落ち着き始めた頃、内線が鳴った。受話器を取ると、事務所スタッフの梶さんだった。


「北原さんの家族様、来られましたー。今向かってます」


返事をして受話器を置いたちょうどその時、エレベーターが開いて、見慣れない男女4人が降りてきた。扉が開く瞬間、わずかにひんやりした空気が足元に流れた。


全員、どこか険しい表情をしている。その中で、ひときわ気が強そうな女性が声をかけてきた。


「北原です。父の部屋はどこだったかしら?」


娘さんかな? 初めて会う人だ。


「こんにちは。どうぞ、こちらです」


と笑顔で答えたけれど、4人の表情は固いままだった。


部屋に案内し、ドアを閉めてその場を離れようとした時、部屋の中から大声が飛び出した。廊下にまで届いた声が、静けさを一瞬だけ震わせた。


「どういうことなのよ! 結婚なんて!」


……ああ、はいはい。そういうことですか。


北原さんは携帯電話を持っていて、家族とも電話ではよく話しているようだ。でも、面会に来ることは滅多になかった。


久しぶりに会いに来たと思ったら、途端にこれか……。


なんだか複雑な気持ちを抱えながら、廊下を歩いていると、森田さんが声をかけてきた。


「北原さんの家族さん、来てるの?」


「ああ、はい。私、初めて会いました。4人も来てましたよ」


「多分、娘さん夫婦と息子さん夫婦かな。私は入居の時に会ったきりだわ」


「北原さんって、いつからここにいるんですか?」


「3、4年前じゃないかな?」


私が勤め始めた時点で、北原さんはもうここにいた。ということは、少なくとも4年は経っていることになる。


「それからずっと来てないんですかね?」


「……さあねぇ。私がたまたま会わなかっただけかもしれないけど、滅多に来てないのは間違いないわね。娘さんも息子さんも市内に住んでるのにね」


「え! そうなんですか! てっきり遠くだから来れないのかと思ってました」


「まあ……いろいろあるんでしょうね」


確かに。南部さんの息子さんのように、親が気になってしょっちゅう来る人もいれば、近くに住んでいても来ない人もいる。それぞれ事情があるのだろう。


でも、北原さんが結婚の話を娘さんや息子さんに伝えた途端、慌てて駆けつけてきたのだろうと思うと──なんだか、ますます複雑な気持ちになってしまう。


冷静に考えれば、北原さんと吉井さんの結婚は現実的には難しいだろう。だから、真剣に受け取らなくても……と思ってしまう。でも、それは部外者だからそう思うのかもしれないな。


“結婚します”なんて、親の方から言い出されたら、子どもにとっては大ごとだろう。普通なら、子どもが親に結婚を報告して、親が喜んだり驚いたり、時には反対したり……。


──まあ、私の場合は、そのどれにも当てはまらなかったけれど。


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