第一話 「ほっとけなくて」
「私たち、結婚します」
突然の結婚宣言。
決意を固めた眼差しの男性と、はにかんだ微笑みを浮かべる女性。
4月に入って桜が見頃となり、ここ、有料老人ホーム「ブルースター」でも春の兆しが。
けれど……素直に「おめでとう」とは言えない。
だって、私の目の前にいるのは北原忠雄さんと吉井澄江さん──87歳と88歳の利用者さんだから。
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カラオケ大好き北原さんと、認知症はあるけど穏やかな吉井さん。見た感じ、お似合いといえばお似合いなんだけど。
とりあえず、
「あら、そうなんですか」
とだけ、笑顔で答えた。
「お互いの家族には伝えているんだけどね。なかなか婚姻届を持ってきてくれないんだよ」
北原さんは真剣そのもの。そりゃあ持ってきてくれないでしょう、とは言えない。
「そこで相談なんだけどね。ここではそういう手続きしてくれないのかな?」
いや、ムリムリ。
「ああ、すみません。ここではできないんですよ」
素直に伝えると、
「困るなぁ。早く籍を入れたいのに」
少しイラついた感じの北原さん。その横で、吉井さんはただニコニコ。
北原さんはそんな吉井さんを見ながら言った。
「この人ね、見ていて不安なんだよ。自分のこともちゃんとできないし。ほっとけなくてね。だから早く一緒になりたいのに困るなぁ」
……いや、北原さんは車椅子で、排泄も入浴も介助が必要なんだけど。むしろ吉井さんのほうが自立している。
そう思いながら、
「でもまあ、ご結婚されなくても、ここで一緒に暮らしているようなものですからね」
と軽く言ってみた。すると、
「そういう問題じゃないんだよ! もういいよ! あなたには頼まない」
と、ムッとした表情で車椅子を自走していってしまった。
残された吉井さんは、笑顔のまま私の方を見て聞いてきた。
「あなた、お子さん何人いるの?」
はい、いつもの質問。
「私、いないんですよ」
これもいつもの答え。
「あら、そうなの。これからなのね。ふふ」
いつもの返し。そしてさらに、
「子どもはいいものよ。私は3人いるからもう産むつもりはないんだけどね」
と微笑む。
冗談なのか本気なのか。とりあえず、ぎこちない笑顔で返してその場を離れた。
すると、会話を聞いていたであろう舞ちゃんが寄ってきて、小声で聞いてきた。
「あの2人、結婚するんですか!?」
……いや、しないでしょ。
「うらやましいなぁ。私も理沙ちゃんもまだ春は来ないのに」
……いや、うらやましがるところ?
さっき吉井さんに向けたぎこちない笑顔を、舞ちゃんにもそのまま返して次の仕事に向かった。
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結婚かぁ……。
さっきの北原さんの結婚宣言、真剣そのものだったな。
二人の年齢や、ここが老人ホームだってことを忘れたら、まるで普通の微笑ましい結婚報告みたいにも思える。
ほんの一瞬だけど、私も自分の時のことを思い出した。あの時も、こんな空気だったな──なんて。
と、そんなことを考えていると、
「あの、そろそろ帰りたいんですけど」
と声をかけられ、顔を上げると、安藤さんが少し不安げな顔で立っていた。
夕方になると、高山さんのように帰宅願望が強くなる人もいるけれど、午前中から家に帰りたがる人はあまり多くない。しかし、安藤さんは朝昼晩を通してここを出たがっている。
安藤千代子さん、75歳。ここでは比較的若い方だが、認知症が進んでいる。夫と二人暮らしだったが、夫の負担が大きくなり、先月入居したばかりだ。
入居当初は、自分の立場がある程度わかっていたようで、ここが老人ホームであることや、物忘れがひどくなり日常生活がうまくいかなくなって入居したことも、自分から話していた。
しかし次第に、疑問や不満を口にするようになった。
「なんで夫でなく私がここに」
「なんで私だけがここに」
「なんで夫はここにはいない」
そして少しずつ混乱が増し、
「ここはどこだ……」
と、場所さえもわからなくなっていった。
エレベーターに向かう安藤さんに、優しく声をかける。
「ごめんなさいね。安全のことを考えて、家族さんと一緒でないと外に出てもらえないんですよ」
すると、困った顔をした安藤さんが言った。
「家族って……夫しかいないのよ。子どもたちは離れて住んでいるし。その夫が病気なの。ほっとけないのよ」
「あー、でも、一応確認してからでないと──」
と、止めようとする私の言葉を遮って、
「確認って、家に電話しても夫は出ないわよ。病気なんだから。私がここで仕事をしている間、夫は一度も会いに来てないでしょ? 病気だから来れないのよ」
と、真剣な表情で訴える。
どうやら今の安藤さんの中では、ここは“職場”で、住み込みで働いている──という設定になっているらしい。話すたびにその設定は変わることもあるけれど。
とはいえ、いつも事実と異なることばかり言っているわけでもない。実際、安藤さんの夫は入居時に息子さんたちと一緒に来たきりだから、“夫は一度も会いに来ていない”というのは合っている。
おそらく、姿を見せれば安藤さんが帰りたがることがわかっているのだろう。……そうでなくても常に帰りたがっているのだけれど。
帰りたいと訴える安藤さんに、私は真顔で答えた。
「わかりました。では、一度事務所に確認を取ります。ご心配な気持ちはわかりますが、こちらも手順を踏む必要がありますので」
そう言うと、安藤さんは小さく息をついて、
「……わかったわ。そちらの立場もあるだろうし。でも、早く返事ちょうだいね」
渋々ながら、なんとかエレベーターから遠ざけることができた。歩行は安定している安藤さんだから、扉が開いた瞬間に勢いよく飛び込みそうで目が離せない。
「どこで待っていたらいい?」
「こちらへどうぞ」
私は安藤さんを大原敬子さんの隣に案内した。大原さんは年相応の物忘れはあるものの、比較的しっかりしていて、優しく気さくな人だ。
案の定、大原さんが話しかけると会話はすぐに弾み、安藤さんの表情も少しずつ和らいでいく。笑い声も聞こえる。しばらくは大丈夫そうだ。
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安藤さんとは最近はこういうやり取りの繰り返しだ。騙し騙しみたいだけど、まだここに来て1か月だから、今は仕方ないのかもしれない。
早くここでの生活に慣れて落ち着いてくれたらいいんだけど、安藤さんの場合はそんなに簡単じゃないだろう。
夫と離れて暮らす寂しさはきっとある。それに加えて、認知症の影響で物忘れが激しかったり、話が前後したりする一方で、状況をはっきり理解している場面もある。その両方があるからこそ、なおさら気持ちが揺れやすいのだと思う。
利用者さんの中には、今はもう会えないはずの相手を“まだ元気にしている”と信じ続けている人もいる。でも、安藤さんの場合は、本当に夫が家で暮らしていることをわかっているぶん、“ここにいる理由”と向き合うのは簡単ではない。
自分がここにいる意味が見えないままでは、ここでの生活を受け入れるのは、今はまだ難しいのだろう。
でも、安藤さんが“家に帰らなきゃ”と言う理由は、自分が寂しいからとか、自分が困るから──というよりも、“自分がいないと相手が困る”という思いが強いような気がする。
その“ほっとけない”気持ちが、余計に安藤さんの心を急かしているように見えた。




