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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第七章 あの人、こわい

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第九話 すごい人

食事に誘うなんて、それはもう、そういうことよね? 理沙ちゃん可愛いし。


理沙ちゃんは下を向いたまま話し始めた。


「先月の終わり頃ですかね……あの出来事の10日ほど前だったと思うんですけど」


「で、行ったの?」


私が身を乗り出して聞くと、理沙ちゃんは小さく首を振った。


「いえ。その時は、とりあえずはっきり返事はしなかったんです。でも、私……言いにくいんですけど、その頃、彼のことをいいなと思っていたので、受けようと思ってたんです」


うん、わかるよ。あの爽やかさに、私もすっかり騙されてたもん。


「で、その人に相談したんです」


「その人、“やめとけ”って?」


「はい。そりゃあもう、バッサリと」


理沙ちゃんはクスクスと笑いながら言った。今だから笑って言えるのだろうな。


「その人、彼には私はもったいないって言ってくれたんです。それでも気になるなら、もっと時間をかけて、彼のことがちゃんとわかってからにしたらいいって」


そして理沙ちゃんは顔を上げて言った。


「今思えば、その人の言うとおりにしてよかったなって思います。私は浮かれてて、彼の表面しか見えてなかったんですね。それをちゃんとわかって言ってくれたその人には、本当に感謝してます」


ホント、その人はすごい人だなぁ。人を見る目がある。


私はその“すごい人”に心当たりがある。理沙ちゃんに聞いてみた。


「その人って森田さんじゃない?」


すると理沙ちゃん、あっさりと言った。


「いえ、違います」


あれ? ハズレ……。でも、もう1人心当たりが。


「前田さん?」


「いえいえ、高木さんです」


え? 高木? だれ?


高木──高木舞ちゃん──。


「え!? ま、舞ちゃん!?」


「そうですよ。高木さん、さすがですよね」


言葉を一瞬失った……。あの、おっちょこちょいで空気を読まない天然舞ちゃんが、そんな洞察力を持っていたなんて……。


私は人を見る目がないんだな、と驚きと落ち込みを感じながら、なんとか言葉を選んで理沙ちゃんに言った。


「……舞ちゃんに感謝しないとね」


すると、理沙ちゃんは明るく、


「はい! 高木さんみたいにもっと人を見る目を養いたいと思います!」


と答えたあとに、


「……私にまだ春は来ないけど、いつかいい人を見つけようと思います」


と、少し恥ずかしそうに言った。


そうか。昼休憩に理沙ちゃんがぽつりと言った“まだ春は来ませんね”っていうのは、季節の春のことじゃなかったんだ。


「大丈夫。理沙ちゃんなら、すぐに春は訪れるよ」


互いに顔を見合わせてから、ふたりでキクちゃんの方を見る。


キクちゃんは、にっこりといつもの優しい笑顔を返してくれた。



キクちゃんの部屋を出て、ほかの利用者さんの排泄介助をひと通り終わらせた。


フロアを見守りつつ、片隅で洗濯物をたたんでいると、テーブル席に座っていた伸江さんがお茶の入ったコップを倒し、床が水浸しに。


「あらあら、大丈夫? 濡れなかった?」


そう声をかけて床を拭きながら、ふとある場面を思い出した。


──父が老人ホームに入って3年ほど経った頃のこと。


入所当時は暴言や強い抵抗があってスタッフさんを手こずらせた父も、その頃にはすっかり落ち着き、表情も穏やかになっていた。


その日、少し早い時間に面会に行くと、父はまだ昼食の最中でフロアにいた。


早く来すぎたかなと思いつつ、食事中の父の横に座ってよいか、その場にいたスタッフさんに尋ねると、


「いいですよ! 大丈夫!」


と明るく答えてくれた。そのスタッフさんは50代くらいの、少しふくよかな女性。いつも笑顔で、父にも優しく接してくれていた。


しばらくすると周りの利用者さんたちは食事を終え、フロアが次第に慌ただしくなっていった。


食べ終えて自分で部屋に戻る人。介助が必要で、ひとりでは戻れないのに立とうとする人。その人たちに向けて、さっきのスタッフさんが、


「ちょっと待って! 薬があるから!」


「立たないで! 危ないから!」


と大きな声で呼びかけている。


そんな中で父は、まだゆっくりと食べていた。認知症が進んで手の動きも悪くなっていたが、それでも自力で、少しずつ口に運んでいた。


私はそんな父を応援するように見守り、父は時々、私を見て微笑んでいた。


と、その時──父の指からコップが離れ、床に落ちた。


その瞬間、いつも明るく優しいと思っていたスタッフさんが、


「あー! もう!」


と叫んだ。


思わず驚いた私のそばに、別のスタッフさんが慌てておしぼりを持って駆け寄ってくる。


「大丈夫ですか?」


と声をかけてくれたその人の後ろで、さっきのスタッフさんは、


「田島さん、今日2回目よ! こぼすの!」


と、父を叱った──。


明るく優しいと思っていた人からのその言葉に、私は強いショックを受けた。


家族の私が目の前にいるにもかかわらず、あんなふうに言うなんて……。


そして、ひと月ほど経った頃だろうか、あのスタッフさんは退職したと聞いた。


辞めたのか、辞めさせられたのか──それはわからない。


きっと、あの人は、穏やかな時と、忙しくて手が回らない時とで、態度がまったく変わってしまうのだろう。


そして今、濡れた床を拭きながら私は思う──風間くんと似ていたな、あの人。



穏やかな顔の裏側に、状況次第で別の表情がのぞく。優しい声と、そうでない声。


私はいつも、状況がはっきり見えてからようやく気づく。今回の風間くんの時も、あのスタッフさんの時も。


……やっぱり、洞察力が足りないんだろう。


でも、そう簡単に人の本質なんて見抜けるものじゃない。時間がかかるのが普通だ──そう思いたい気持ちもあった。


だけど……舞ちゃんは違う。早い段階で風間くんの“裏の顔”に気づいていた。


舞ちゃんは、きっと人のちょっとした違和感に気づく力があるのだろう。


私はその舞ちゃんの本質も見抜けていなかった。


……だからといって、“だめだ”とまではいかないけれど、もっと磨かなきゃいけないとは思う。


洞察力──介護の仕事でも大切な力だ。


利用者さんの小さな変化に気づき、体や心の状態を想像する。体調の変化を早く察知できたり、言葉では伝えにくい気持ちを汲み取れたりすることで、信頼関係を築く助けにもなる。


これからは、ちゃんと意識して洞察力を磨いていこう。舞ちゃんみたいに──。


「ちょっとぉ! 権田さん、聞いてくださいよー!」


わっ! びっくりした!


振り向くと、夜勤で出勤してきた舞ちゃんが、いつの間にかそこにいた。


「あ、理沙ちゃんも、ちょっと聞いて聞いて!」


カウンター内で記録を入力していた理沙ちゃんも、慌ててやって来た。


「彼氏、二股かけてたんですよー!」


え?


思わず理沙ちゃんと顔を見合わせた。


「昨日ね、偶然、彼氏のスマホ見ちゃって、わかったんです!」


……“偶然”? ちょっと怪しいけど。


「もう、これで前の彼氏に続いて2回目ですよー! 二股かけられたの!」


「……」


私も理沙ちゃんも、言葉が出なかった。


──洞察力、どこ行ったの? 舞ちゃん。


「あんまり腹が立ったから彼氏のスマホ、床に叩きつけて壊してやりましたよ!」


……それは器物破損だよ。


「あー……私ってホント、男の人を見る目なくていやんなっちゃいますよー」


私の中の舞ちゃんから “洞察力” という言葉が、すーっと消えていく……。


「あれだけ私のこと好きだって言ってたのに、ホント、男の人ってこわいですねー」


舞ちゃん、あなたも十分こわいよ。


「その人、高木さんにはもったいないですよ!」


理沙ちゃんが励ましの言葉をかけるけれど、それって自分が舞ちゃんにかけられた言葉だよね?


私は心の中で苦笑いしながら、一緒になって、さっき理沙ちゃんに言った言葉で励ます。


「そうそう。大丈夫、舞ちゃんならすぐにまた春は訪れるよ」


「……そうですよね。今度こそいい人、見つけます!」


さっきと打って変わって明るい表情の舞ちゃん。立ち直り早いな、さすがだ。


舞ちゃんは、ある意味すごい人に違いない……洞察力があるのかないのかは、よくわからなくなったけど。


──人にはそれぞれ、形は違えど“こわい一面”がある。


その一面も含めて相手と向き合うこと──難しいけれど、そうしていきたい。


すでに笑顔を取り戻した舞ちゃんと理沙ちゃん、そして利用者さんたちを見渡しながら、私はそう思った。


フロアには笑い声や話し声が優しく交じり合っている。


今日も、そしてこれからも、別の顔を持つ人たちの間で、日常は静かに、でも確かに続いていく──。



第七章 完


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