第八話 表と裏
「表向きは……って?」
聞き返すと、山野さんが少し身を乗り出して話し始めた。
「彼ね、介護の仕事始めて3年くらい経つらしいんだけど、その間に5回転職してるんだ」
3年で5回……ちょっと多いな。
「どうもね、どこも半年もたずに辞めてるみたいなんだよ。空白期間もあるから、履歴書に書いてない職歴もあるんじゃないかな。実際はもっと多いと思うよ。今回みたいに1か月で辞めちゃうってのもあるだろうし」
「施設長、履歴書を見て怪しいと思わなかったんですかね?」
理沙ちゃんが聞くと、山野さんはゆっくり頷いた。
「まあ、この業界は転職が多いからね。短期間の勤務だけで“怪しい”とは言い切れない。でもね──」
少し間を置いて、山野さんは続けた。
「さすがに今回の件で、施設長もこの経歴に疑問を持ったみたいだよ。処分を“厳重注意と研修”にしたのも、どうせ辞めるだろうって思ったからじゃないかな」
「そんなの、アリなんですか……」
私も理沙ちゃんも、思わず眉が寄った。
「だから表向きは厳重注意だけど、実際は“辞めてもらう”方向だったんだと思う。結果的にも、そうなったしね」
そう言われても、釈然としない。私だけじゃないはず。山野さんも理沙ちゃんも、きっと同じ気持ち。
何も解決できていない──。
風間くんはまた別の施設で、同じことを繰り返すかもしれない。
これで終わったことにしていいのだろうか──何も終わっていない気がする。
山野さんはふと時計を見て言った。
「あ、そろそろ行くわ」
私と理沙ちゃんも、そろそろフロアに戻らないといけない。
立ち上がった山野さんが、私たちに向き直った。
「……全部が解決したわけじゃないのは、もちろんわかってるよ。風間くんみたいな人が、別の場所で同じことをしないとは言えないしね」
そこまで言って、少しだけ表情をゆるめた。
「でもさ、今回のことは、本来なら起きちゃいけないことだったと思うけど、ただ……これでみんなの意識が変わって、同じことが起きにくくなるなら、それはすごく大事な変化だよ。」
ニコッと微笑みながら、山野さんは続けた。
「施設って一気に良くなるもんじゃないけど……こうやって一つずつやってくしかないんじゃない?」
その言い方で、少しずつ心の中が落ち着いていくのを感じた。
「沈んだままだと、利用者さんに伝わっちゃうしね」
その山野さんの言葉に、
「確かにそうね。沈んでいる暇なんかないよね」
と、返した。
「そうそう。仕事は山ほどあるよ」
笑顔の山野さんに私も自然に笑みを返す。理沙ちゃんの表情も少しずつ明るくなった。
いつまでも気持ちを引きずっているわけにはいかない。あの出来事を教訓に変えて、これからの時間に向かって進んでいかなくちゃ──そう思いながら、私たちはフロアへ歩き出した。
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フロアに戻ると、永田さんがコトコトと歩行器の音を鳴らしながら近づいてきた。
「風間さん、最近見ないけど休んでるの?」
風間くんの名前を聞いて、思わずビクッとしてしまった。まだ気持ちは引きずってるな。無理もないか。
「風間さんね……ちょっと都合でしばらく来れないみたいなんですよ」
まったくのウソってわけじゃない。ちょっと苦しい言い方だけど……。
退職というのは山野さんから聞いた話で、まだ正式に伝達があったわけではないから、はっきりとは言えない。
「あら、病気?」
と、心配そうに聞く永田さんに、
「んー、詳しいことはわからなくてごめんなさい」
そう言うと、スッとその場を離れた──正確に言えば、逃げた。
正式に発表されたら、ちゃんと退職したって言おう。もちろん退職理由は言わない。というか、言えない。
風間くんのファンは多いから、きっとみんなロスになるんだろうな。すぐに忘れる人もいるけど……。
なんて、また余計なことを考えてしまった。だめだな。仕事、仕事。
⸻
さてと、そろそろ排泄介助に回ろう。そう思ってまずはキクちゃんの部屋へ。ノックをして入ると、先客がいた──理沙ちゃんだ。
「あ、権田さん」
理沙ちゃんはキクちゃんのオムツ交換を終えたばかりのようだ。
私がしてあげたかったな……ちょっとジェラシー。
左腕のギプスが痛々しいキクちゃん。それでも声をかけると、いつもの優しい笑顔を返してくれる。
そんなキクちゃんを見つめながら、私は理沙ちゃんに、気になっていたことを尋ねてみた。
「理沙ちゃん、さっき山野さんとの話しの途中でさ、何か気づいたような顔してたよね?」
突然の問いに、キクちゃんの衣服を整えていた理沙ちゃんは、手を止めて不思議そうな顔を私に向けた。
「え? 何のことですか?」
「えっとね、山野さんが風間くんの退職理由を言った時、何か思い出したような感じだったけど」
山野さんから、風間くんの退職理由が“思っていた職場と違う”と聞いた時、理沙ちゃんがハッとした表情になったのを私は気にしていた。
すると、理沙ちゃんは思い出したように大きく頷いた。
「あー、あれですか! 権田さん、よく見てましたね」
そう言って、少し間を置いてから話し始めた。
「風間さんって、利用者さんからもスタッフからも人気があったじゃないですか?」
「うん。私も、いい人が入ってくれたと思ってたもん」
「私もです。それがね、そう思っていないスタッフもいたんですよ。風間さんが来てまだ間もない頃から、“なんだか裏表ありそう”って」
ほう。男性スタッフかな? 風間くんに嫉妬とか。
「でね、私、言ったんです。風間さんに介護の仕事を選んだきっかけを聞いた時に、“僕はおじいさんやおばあさんが大好きで。世話をして喜んでくれるのを見るのが嬉しくて”って言ってたから、素直にこの仕事が好きって感じがしますけど? って」
「そしたら?」
「その人、それを聞いて、はっきりと、“彼の思っている場所と違うと思うよ、ここは”って」
「え? それって、彼が言った退職理由と一緒よね?」
「そうなんです。だから、私、山野さんから聞いた時に驚いて」
すごいな、その人。でも、なんでそう思ったんだろう。
「その人ね、風間さんは“自分に好意を持ってくれる人には優しく対応するけど、そうでない人には雑に扱ってる”って言うんです。でも、私には風間さんは平等に接しているように見えていたので、“そうですかね?”って返したんです」
そうか。風間くんはフロアとか、ほかのスタッフの目がある時は、磯野さんや伸江さんにも優しい声かけをしていた。
でも、今思えば、それもどこかぎこちなかった気がする。
磯野さんの入浴の声かけの時も、拒否されたら表情が一瞬変わったことを思い出した。
「その人が言うには、“彼の言うおじいさんやおばあさんは、優しくて、弱々しくて、守ってあげたい人たちのことだと思う。でも、ここではそんな人たちばかりでなくて頑固だったり、意思疎通ができなかったり、暴れたりする人もいる。彼はそういう人たちを相手にするのは苦手だと思う”って」
すごい! 短期間でそこまで見抜くとは、その人の洞察力はかなりのもんだ。
理沙ちゃんは、そこまで話してから、少し言いにくそうに下を向いて言った。
「実は──私、風間さんに食事に誘われてて……」
──あらま!




