第七話 正体みたり
風間くんの言動を目の当たりにした瞬間、心の中にあった違和感や疑念がひとつに繋がった。
爽やかな笑顔の裏側──見てはいけないものを見てしまった気がした。
「こわい! 助けてー!」
興奮している磯野さんに、
「もう大丈夫。大丈夫だから」
そう声をかけ、手を握って安心させる。それから風間くんの方を見て言った。
「とりあえず、事務所に行こう」
このままフロア業務に戻すわけにはいかない。そう思った。
「あの……今のは咄嗟に反応してしまって……急に叩くから……」
申し訳なさそうに言う風間くん。
「限度があるよ」
私は静かに言った──その瞬間、彼の表情が一変した。
「施設長に言うんすか?」
さっきまでの丁寧な口調が嘘のようだ。
私は、変わらず静かに答えた。
「そのつもり。これはちょっと……ほっとけない」
すると風間くんは私を睨みつけ、
「チッ」
と舌打ちし、ドアをバンッと閉めて出て行った。
磯野さんが、ひとりごとのように言った。
「あの人、こわい……」
私はそっと返す。
「……ほんと、こわいね」
そして私は、目の前で起こった出来事を、ありのまま施設長へ話したのだった──。
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あれから1週間──。
「まだ、春は来ませんね……」
休憩時間のスタッフルームで、理沙ちゃんがぽつりとつぶやいた。
「もうすぐじゃない? 桜も、もう少ししたら咲き始めそうだし」
そう返したものの、理沙ちゃんの表情はどこか冴えない。
無理もない。ここしばらく、風間くんの一件で、施設全体に重たい空気が漂っていた。
あの日、私が施設長に報告してから風間くんへの聴き取りが行われ、その上で出された処分は、“厳重注意”と“虐待防止研修の受講”──それだけだった。
その結果に腑に落ちず、私はこれから彼とどう接したらいいのかわからなかったし、正直、怖かった。
だけど、風間くんは……あれから施設に来ていない──。
「お疲れさま!」
私と理沙ちゃんがしんみりしているところへ山野さんが現れた。
「あ、山野さん。お疲れさまです」
山野さんは明るく声をかけてきたけど、どこか深妙な空気をまとっていた。
聞いていいのかな……。そう迷いながらも、私は口を開いた。
「風間くん、どうなった?」
山野さんは私と理沙ちゃんを交互に見てからゆっくりと答えた。
「ああ、彼ね……退職するってさ」
その言葉を聞いても、私も理沙ちゃんもあまり驚かなかった。
理沙ちゃんが静かに山野さんに尋ねた。
「彼からですか? 理由は?」
「そう、自分から辞めるって。“思っていた職場と違う”だって。……なんか変だよね」
その言葉を聞いた途端、理沙ちゃんが少しだけ表情を変えた。その一瞬の“ハッとした”ような顔つきが、私は気になった。
「それとね……彼、磯野さんの聴き取りのときに、ゴンちゃんの話をほとんど否定したらしいよ」
私が施設長に話をした時は、部屋には私と施設長の2人だけだった。
そして、私が話し終えると、入れ替わるようにして風間くんの聴き取りが行われた。
だから私は、彼と施設長の話の内容はよく知らない。
「ゴンちゃんね、風間くんが暴言吐いて、磯野さんの肩を掴んだって説明したんでしょ?」
「うん。事実だし」
「彼によると──“急に叩かれてびっくりした。これ以上叩かれたら困ると思って、咄嗟に腕を軽く押さえただけ” って」
え? 思わず言葉を失った。
「それと、暴言は吐いてない、“痛い”とは言ったかもしれないけど……とも言ってたらしいよ」
「ウソ! 私、大げさに言ってないよ! 見たままのことを──」
反論しかけたところで、山野さんが手を軽く上げて静かに制した。
「わかってるよ。僕だけじゃない。みんなわかってる」
え? みんな……?
「ゴンちゃんの言葉を疑う人なんていないよ。それにね、彼には以前から気になることがあったから」
「そうなの……?」
爽やかでいい人だと、私を含め、みんな思っていたはずだけど。
私と理沙ちゃんは思わず顔を見合わせた。
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「僕ね、彼が来てからしばらく同行したじゃない?」
そうだ。山野さんは、仕事を教える係として1か月間、彼と行動を共にしていた。
「彼、介護職の経験者だったし、本来なら2週間の同行で十分なんだよね」
そうなんだ。なのに、どうして1か月も?
「なんていうか、表向きは丁寧にやってる風なんだけど、見えないところが雑だったんだよね」
「雑って?」
「例えばさ、オムツ替え。僕がそばにいる時は、利用者さんに声をかけながら丁寧に替えるんだよ。でも、彼ひとりでお願いした時は、部屋に入ったと思ったらすぐ出てきたことがあってね」
「ちゃんと見ていないってことですか?」
理沙ちゃんが聞いた。
「そう思って、“替えた?”って聞いたら、“汚れていませんでした”って。でもその利用者さん、長い時間尿が出ていなかったから気になって、すぐ戻って確認したのよ。そしたら、ちゃんと出ていた。どういうこと?って聞いたら、“さっきはなかった”って」
「それは……」
「うん、1、2分後のことだよ。おかしいよね」
うん、手抜きにも程がある。
「それとね、磯野さんや新庄さんみたいに、意思の疎通が難しい利用者さんが苦手みたいで」
新庄さん──チョコちゃんが見える伸江さんだ。
「彼、普段は笑顔なのに、介護拒否があると動きが止まるんだ。表情もね」
「あ、磯野さんが入浴拒否した時、そんな感じだった」
私が言うと、山野さんは頷いた。
「どう対処したらいいか、わからなくなるんだろうね。丁寧な声かけや待つことを教えたんだけど、ぎこちなくて」
山野さんは少し上を向き、言葉を続けた。
「だからね、もうちょっと時間をかけたほうがいいと思って。で、同行の期間を延ばしてもらえるように、リーダーの森田さんから施設長にお願いしてもらったってわけ」
なるほど。
「結果的に延長したからどうって話ではなかったみたいだけど」
ほんと、そのとおり。
「彼は僕がそばにいる時は、相手に介護拒否があっても辛抱強く待って対応してたんだけどね。彼1人の時はできなかったんだろうね」
「あ、じゃあ磯野さんが、“あの人、こわい”と言ってたのは……」
「むりやり移乗したり、無表情で対応したりしてたんだろうね」
山野さんは、自分の責任だと言わんばかりに、申し訳なさそうな顔をした。山野さんのせいじゃないのに……。
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少しの沈黙のあと、山野さんが思い出したように言った。
「あ、あと、ゴンちゃんも施設長に言ったらしいけど……“お姫様抱っこ”のこと」
あ……山野さんも知っていて施設長に話したんだ。
「彼が来た初日、滝川さんを移乗する時に抱き上げようとしたんだよね。前の施設ではそうしていたからって」
キクちゃん……やっぱり、キクちゃんにもお姫様抱っこをしていたんだ。
「前はどうだか知らないけど、ここでは禁止だから、って注意したんだよ。そしたら2度と僕の前ではしなかったけどね」
「でも、伸江さんにもしていたらしいから、きっと滝川さんにも、1人の時はしていて……それで落としちゃって肘を──」
「それね、僕も可能性としてあると思ってね。滝川さんの骨折がわかった日に施設長に話したのよ」
「じゃあ──」
と言いかけると、山野さんは少し残念そうな顔をした。
「施設長によると、骨折後の聴き取りで彼に尋ねたら、“決してしていません!”ってキッパリ言ったらしいよ」
嘘だ。心の中でそう思った。
「証拠も証人もないしね。でも、“誰か”はわからなくても、介助中の出来事には間違いないだろうから、該当者不明として、滝川さんの骨折の原因はこっちのミスとして対応することにしたらしいよ」
……なんだかモヤモヤするけれど、どうにもできないことなのかな。
すると、しばらく黙っていた理沙ちゃんが口を開いた。
「それでも、磯野さんのことは権田さんが目撃しているし、もう少し厳しい処分でもよかったんじゃないですか?」
私も同感だ。
すると山野さんが、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「それね……今回は“虐待”とまではいかないケースで、“不適切ケア”として扱われるからね」
私と理沙ちゃんは、納得のいかない表情で顔を見合わせた。
山野さんは続ける。
「施設長いわく、“誰でもカッとなることはある。今回は磯野さんに外傷がなかったこともあり、風間くんが今後同じことをしないように、感情をコントロールする教育が必要だ”って。──そういう理由で、この処分になったらしいよ」
そう言うと、山野さんはチラッと私たちを見て、声を落とした。
「……表向きはね」
え? どういうこと……?




