第二話 小さな違和感
「そろそろ帰るわー」
夜勤明けの久世ちゃんの声。
「お疲れさま〜」
そう言いながら、さっきの石嶺さんの件は森田さんに報告しておこう、と心の中で思った。
私が直接久世ちゃんに言ったら角が立つかもしれないし、ここはフロアリーダーに任せた方がよさそうだ。
階段に向かいかけた久世ちゃんが、何かを思い出したようにクルッと振り向いた。
「あ、ゴンちゃん、ごめん。ひとつお願いしていいかな?」
「なーに?」
「キクちゃんな、さっきご飯食べたあと見たら服汚れてたから、着替えさせてあげてほしいねんけど」
利用者さんを“ちゃん”付けで呼ぶのは本来NGだけど、私はキクちゃんと2人きりの時は、ついそう呼んでしまう。
でも、久世ちゃんはおかまいなしで、人前でも平気で“ちゃん”付けだ。
「多分、そのままやと思うから」
「わかった。了解」
久世ちゃんは、片手をヒラヒラと上げて帰っていった。
言動はちょっと乱暴なところあるけれど、そういう細かいところはよく気がつくんだよな、久世ちゃんは。
服や枕カバーが破れていたら自前の裁縫セットで直してあげたり、髪が長い利用者さんには可愛くお団子にまとめてあげたり。
久世ちゃんはああ見えて中身は乙女のところあるから──。
そう思っていたところに、ふいに声がした。
「すみませんでした……。それ、僕です」
風間くん。急にどうしたの?
「え? 何が?」
「滝川さんです。僕が食事介助しましたから。服が汚れていたの、気がつかなくて」
「ああ、そうなの?」
そんなこといいよ、謝らなくて……と、言おうとしたら、先に風間くんが口を開いた。
「久世さんも、僕に直接言ってくれたらいいのに。権田さんに頼むなんて、嫌味ですかね」
私はその言葉に驚きながら、
「え? そんなことないと思うよ! 久世ちゃんあんな感じだから、言おうと思っていたけど忘れていたり、思い出した時にすぐに口にしてしまうタイプだから」
と、彼の思い過ごしであることを伝えたつもりだったけど、
「……そうですかね」
と納得していない様子だった。
「あ、滝川さん、僕が行きますね。責任ありますから」
と、気にしている彼に、
「私が行くよ。風間くんは今からお風呂でしょ? 早く行かなきゃ」
そう言って入浴介助に入るように促すと、
「わかりました。すみません」
と、謝って浴室に向かった。
──そんなに気にする必要ないのにな。久世ちゃんがよほど苦手なのかな。
私は、今まで見たことがなかった彼の態度に、小さな違和感を感じた。
まあ、まだここに来て1か月だし無理もない。そのうち久世ちゃんのキャラがわかって慣れるだろう。
そう楽観的に考えてキクちゃんの部屋に向かった。
⸻
「おはよう、キクちゃん」
声をかけるとニコッと笑う。その笑顔を見て、私も癒される。
布団をめくると、久世ちゃんが言っていたとおり、襟元に食べこぼしの跡があって汚れている。
「キクちゃん、服汚れてるから着替えるね」
キクちゃんは体がこわばっていて、腕が動かしにくい。
上の腕は体の横にぴったりくっついていて、肘から先は少し動かすことはできるけど、曲げたままの状態でいることが多い。
だから服の脱ぎ着は少し難航するけど、そこは慣れ。無理なく脱がせることができた。
「あら。下着も濡れちゃってるね」
キクちゃんの食事はミキサー食なので、こぼすと濡れてしまいやすい。
「気持ち悪かったでしょう。下着も替えるね」
そう言って袖を抜くと──左腕の肘の横、外側に青あざがあるのを見つけた。
「えっ……いつから? キクちゃん、痛くない?」
キクちゃんは首を振る。
けれど、肘をそっと触ると、
「……いたい」
と、小さな声を出して顔をしかめた。
あざはおよそ8センチ×4センチ。かなり大きい。
色は紫がかった青で、少し時間が経っているようだ。
うっすら腫れているようにも見える──骨折かも。
とりあえず、風邪を引かないように下着を替え、袖をまくりやすい服を着せて、
「すぐ戻るからね」
と声をかけて詰め所へ急いだ。
⸻
ナースに連絡を入れ、到着を待ちながらタブレットで記録を確認する。
ここ数日の記録には、内出血のことは書かれていない。
就寝前にパジャマに着替えるけど、下着は着せたままが多い。だから気づかなかったのだろう。
前回の入浴は3日前の午前中。記録にも特記事項はなし。ということは──おそらく、3日前の午後から2日前のあいだにできた可能性が高い。
ほどなくして、エレベーターで大森ナースと──女帝三上が現れた。
大森ナースだけでいいのに……と心の中でつぶやきながら、3人でキクちゃんの部屋へ。
キクちゃんの内出血を見るなり、女帝が大げさな声を上げた。
「あーらまー! なによこれ! ひどいじゃない!」
その横で、大森ナースは落ち着いた声で言う。
「これは折れてるか、ヒビが入ってるかもしれませんね」
「この人、動けないのに、どうやったらこんなケガするのよ!?」
……たしかに、その通り。私も、それが疑問だった。
キクちゃんはまったく動けないわけじゃない。前方の腕を少しだけ伸ばして、ベッドの柵を手でポンポンと叩くことはある。
けれど、内出血ができるほどの力を入れることはできないし、肘を自由に動かすことのできないキクちゃんにとっては、どこかに当ててしまうなんてことは考えにくい。
となると、答えはひとつ──原因はスタッフによる介助中の事故。
「昨日の夜勤、誰よ!」
と女帝。
「久世さんですが──」
「ああ、やっぱり! あの人ならやりかねないわ! 乱暴にベッドに移したんでしょう、きっと!」
いや、違う──と言いかけた私の言葉を、大森ナースが遮った。
「いつ発生したかどうかは何とも言えませんね。原因を調べるのも大事ですけど、まずは医者に診てもらいましょう」
冷静なその言葉に、女帝は黙った。
すぐに病院に連絡し、キクちゃんを車椅子に移す。
家族さんに電話を入れたが来られないとのことで、ケアマネの沢渡さんが付き添って病院へ行くことになった。
玄関先まで一緒に行き、キクちゃんが車に乗るのを見届けた。
キクちゃん、痛かっただろうな……。意思表示が難しいからこっちが早く気がついてあげないといけなかったのに。
──今日は朝からバタバタしてしまったけど、気持ちを落ち着かせて仕事に戻ろう。
そう思った時、ふと風間くんとのやり取りが頭をよぎった。
あの時に感じた小さな違和感──あれは、なんだったんだろう。
まあ、大したことじゃないよね……。
そう思いながら私はフロアへ戻った。




