第一話 「あの人、こわい」
「なんだか寂しいですね……」
「うん。また来年だね」
理沙ちゃんとそんな会話を交わしながら、手にしているのは──雛人形。
ここ、有料老人ホーム「ブルースター」の玄関には、毎年この五段飾りの雛人形を飾っている。
以前働いていたスタッフが寄贈してくれたもので、とても立派だ。
利用者さんたちにも毎年好評だけど、3月3日も過ぎて、今日は仕事終わりに片付けをしているところだ。
段ボールの中に、一つひとつ丁寧にしまいながら、理沙ちゃんが尋ねてきた。
「今日は4日ですけど、私、行き遅れませんかね?」
「理沙ちゃんのじゃないから大丈夫でしょ」
「まあ、そうなんですけど」
理沙ちゃんは22歳。そろそろ結婚を意識し始める年頃なのかな。
私は笑いながら言った。
「それにね、“3日を過ぎたらお嫁に行き遅れる”というのは、本当は、“後回しにせず、きちんと片付けて、身の回りを整えられる大人になってほしい”っていう、しつけの意味なんだって」
「へえ、そうなんですか。初めて知りました」
ちなみに私は──おばあちゃんに買ってもらった、お内裏様とお雛様だけのガラスケース入りの雛人形を、30年間ずっと出しっぱなしで飾っていた。
結婚したのは30代半ばだったけど……もしかして、それが影響してたりして。
多様化の時代だから、“行き遅れる”なんて言葉はもう聞かないと思っていたけれど、若い理沙ちゃんでも気になるんだな。
⸻
「よし、終わったー」
全部で段ボール5箱。台車に載せようとして手をかけたその時──。
「手伝いましょう」
背後から声がして振り向くと、風間爽太くんが立っていた。
先月入社したばかりの23歳。名前も爽やかだけど、見た目もまさにその通りだ。
身長は170センチに届くかどうか。髪は柔らかそうな茶色がかった黒。前髪が軽く額にかかり、清潔感がある。声は少し高めで、話すたびに空気がふっと和らぐ──そんな青年だ。
「女の人だけで運ぶの大変でしょう? しまう場所を教えてもらえたら僕がやりますよ」
気が利くなあ。いつも笑顔で感じがいいし。
「ありがとう、助かる」
風間くんはひょいひょいと段ボールを台車に載せ、倉庫まで運んでくれて、ほんの数分で片付けはすっかり終わってしまった。
「ありがとうございました。やっぱり男性は頼りになりますね」
理沙ちゃんが声をかけると、
「こういう時はいつでも呼んでくださいね」
と、爽やかな笑顔を残して去っていった。
「イケメンで優しくて、いい人が入ってくれたね」
私の言葉に、理沙ちゃんも頷く。
「そうですね。利用者さんにも人気がありますしね」
男性スタッフが少ないこの職場では貴重な逸材。
まだここに来て1か月だけど、早く仕事を覚えて定着してくれたらいいな。
さて、お雛様も片付けたし、今日のミッション終了。
いつもより帰る時間は少し遅くなってしまったけれど、大切な仕事を終えた充実感を胸に、施設をあとにした。
⸻
「おはようございます! 権田さん!」
朝の申し送りを終えてフロアに上がると、風間くんが元気に声をかけてきた。
入社して1か月は、ほとんど山野さんと同行で仕事を覚えてもらい、今月からいわゆる独り立ちだ。
今日もよく通る、はっきりした声。その爽やかさに、思わずこっちも笑顔になる。
その時、突然──
「ちょっと! 何してんの! もう!」
大きな声が響き、肩がびくっとした。
「あかんて! そんなことしたら!」
久世ちゃんだ。
声のする方向を見ると、伸江さんがテーブルにこぼしたお茶を、手のひらでペタペタと広げている。
伸江さんは久世ちゃんの声にも手を止めず、つぶやくように言った。
「もー、こわいなぁ……。これしないとダメでしょ?」
言っている意味がわからない。また自分の世界に入っているようだ。
「ハイハイ、歯磨き行くで」
食べるのが遅い伸江さん。ようやく朝食が終わったところで、久世ちゃんは口腔ケアのため部屋へ連れて行こうとしている。
テーブルに手を伸ばしたままの伸江さんの車椅子をグイッと引いて、テーブルから引き離すと、そのまま部屋へ向かっていった。
それを見ていた風間くんが、ぽそっと言った。
「強引ですね」
確かに。そこは直さないとね、と私も常々思っている。
「言葉も悪いし。悪いけど、苦手だなぁ、ああいう人」
と、顔を曇らせて言う風間くん。
「でもね、ああ見えて真面目で、結構利用者さん想いなのよ」
私がフォローすると、
「そうは思えませんけどね」
低くつぶやく声。その響きにいつもの爽やかさはなく、ほんの少し冷たい空気が混じっていた。
⸻
「あの……」
と、声がして振り向くと石嶺さんが立っていた。
少し前には、“知らない人が夜中に部屋に入ってくる”と訴え、幻を見ていたこともあった。
けれど、専門医にしっかり診てもらい、薬を変更してからは、以前のように食事もフロアでとるようになり、最近はすっかり落ち着いてきたようだ。
でも、今日の石嶺さんは、また不安そうな表情で私を見ている。
「どうしました?」
と、優しく声をかけると、聞こえないくらいの小さな声で、
「……さっきの人、いるでしょ?」
と、聞いてきた。
さっきの人──久世ちゃんかな?
「あの人、こわいのよ。昨晩、寝ながらテレビ観ていたんだけど、腰が痛くて立てなくて。消してもらおうとコールして呼んだら、“リモコンをそばに置いておけ”って、ベッドに放り投げて」
ああ、やっぱり久世ちゃんだ。昨日夜勤だったし。
「もう、私こわくて。今度から何かあっても呼べないと思うの」
「ごめんなさいね。悪気はなかったと思うんですけど、ちゃんと言っておきますね」
と言うと、石嶺さんは全力で首を振った。
「いやいや、言わないで。逆恨みされそうでこわくて」
落ち着いてきたとはいえ、神経質なところは変わらない。
「……わかりました。石嶺さんが言ったってわからないようにして、今度からそういうことのないよう、みんなが気をつけるようにしますね」
と、安心させるような言葉をかける。
「私が我慢したらいいだけのことなのに、ごめんなさいね」
以前から散々不満を訴えては、最後にこのセリフで締めくくる人だ。
それでも気持ちはわからないでもないし、こちらの対応に不備があるなら、改善していかなくてはいけない。
「こちらこそ、嫌な思いをさせてごめんなさいね」
と声をかけると、石嶺さんは一礼して部屋へ戻っていった。
その背中を見送りながら、そばにいた風間くんが口を開く。
「乱暴だな。リモコン投げるなんて」
「いや、ちょっと大げさに言ってると思うけどね。実際は枕元に置いただけだと思う」
と、また久世ちゃんをフォローすると、
「あの人なら、やりかねませんよ」
と、言い残してその場を離れた。
──その声に、やっぱりいつもの爽やかさはなかった。




