第三話 母の声
「高山さん、ちょっと座って休みませんか?」
「いえ、いいんです。もう帰らないと。子供が帰る時間だから……」
その表情は切実だった。作り話でも、演技でもない。彼女の中では、それがまっすぐな『今』なのだ。
はぐらかし作戦、失敗か……。
「母もひとりにしてきちゃったの。早く戻ってあげないと。寂しがり屋だから……」
言いながらまた荷物を抱え直す。高山さんの身体は華奢で、八十九歳とは思えないくらいに背筋が伸びていた。歩くスピードも早い。
けれど、心の中の『時間』は、ずいぶん昔のままだ。
私は、また母を思い出した。
ホスピスの白い天井。鼻にチューブをつけた母が、ふいに上体を起こした。
「美加ちゃん、そこの鍋取って。あれで煮物しようか」
「……煮物?」
思わず聞き返すと母は当たり前のように頷いた。
「お父さん、そろそろ帰ってくるから。ご飯の支度しておかないと」
その時の母の声が今の高山さんと重なる。
時間の感覚がどこか別の場所に飛んでいても、生活のリズムはずっと身体に染みついている。
あの時私は、鍋なんてここにはないじゃない、なんて言えなかった。──ただ「うん」とだけ、返した。
「高山さん」
私は、そっと前に立った。
「今日は、ご飯は私たちが準備しますから。子どもさんのことも、大丈夫ですよ」
「でも……」
「ええ。あとで様子を見に行きましょう。お母さんにも声をかけておきますね」
私の言葉が届いたのか、高山さんは一瞬、不安そうに眉を寄せた。それでも、頷いてくれた。
ちょうどその時、歩行器の音が廊下の向こうからコトコトと近づいてくる。
「あらー、なに話してるの?」
永田佐登子さん。九十歳。背中は曲がっていても声は元気。夕食の時間が近づいたので、フロアへ出てきたところだった。
「母が待ってるから帰ろうかと……」
「あー、もう。何言ってるの、高山さん。あなた自分が何歳だと思ってるの。あなたのお母さんなんか生きてるわけないでしょう」
いつもの調子だった。特に悪意があるわけではない。むしろ、「また始まったわねぇ、高山さん」くらいの軽さ。永田さんは、そういう人だ。周りも大抵は「はいはい」と受け流している。
でも、今回は──
高山さんの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「あの……でも……母は……」
小さな声だった。狼狽というより、ふと何かを思い出したような、足元が一瞬ぐらつくような、そんな沈黙。私は、すぐに間に入った。
「永田さん、もうすぐご飯ですから、お先にフロアにどうぞ」
「あらそう? じゃあ、お先に」
永田さんは歩行器を押しながらゆっくりと廊下を進んだ。そして角に差しかかる手前で足を止め、わずかに息を整えるようにしてから、こちらを振り返った。
「まったく……わたしなんか、自分で家をたたんで、ここに入ったのよ。誰かに言われたわけじゃないのにね」
誰にともなく、けれど確実に『誰か』に聞かせる口調だった。
「主人が亡くなってから七年経って、ひと区切りだと思って自分で腹くくったの。子どもたちも遠いし、迷惑なんてかけたくないじゃない」
一拍おいて、私の目を一瞬捉えた。
「いつまでも『帰る、帰る』って……そういうの、みっともないわ。そう思わない?」
そう言ってゆっくりと去っていった。私はその背中を見送りながら小さく息をついた。
帰りたいと訴える人もいれば、帰らないと決めている人もいる。どちらが正しいでも、間違いでもない。ただ、そういう『違い』があるだけだ。
高山さんがまだ立ち尽くしていた。永田さんの言葉を理解したのか、していないのか、それはわからない。ただ、ほんの少し肩が沈んで見えた。
私はもう一度、高山さんに向き直る。
「大丈夫ですか?」
高山さんは目を伏せたまま何も言わない──その瞬間、『ピンポーン』という音が廊下に響いた。どこかの部屋からナースコール。
その音に反応するように、高山さんが顔を上げ、キョロキョロとあたりを見回した。
「……母が、来たのかも……」
つぶやいたその声に、私が口を開こうとした時だった。廊下の少し先、こちらからも見える位置にあるエレベーターのドアが開いた。
誰かの面会に来たらしい家族がゆっくりと降りてくる。私のすぐ隣にいた高山さんの目が、その先を捉える。
走り出した。私の声より早く。




