第九話 寄り添う心
「今日は……土曜日」
更衣室で制服に着替えながら、口にする。
「何かあるの?」
横で着替えていた橋本さんが聞いてきた。
「いえ、たまに口にしないと今日が何曜日かわからなくなっちゃって」
「あー、わかるわかる」
基本、介護スタッフは暦どおりの休みではないから時々確認する必要がある。私の場合、だけど。
このあいだ銀行に行ったら、その日は祝日で無駄足を踏んでしまったし。
「今日は土曜日、土曜日、土曜日……」
呪文のように唱える私を見て笑う橋本さん。
土曜日も日曜日同様、面会の家族さんが多い。その上、入浴介助も平日どおりにあるから、フロアは朝から少しせわしない。
恒例の、腕をブンブンと振る儀式を終えたあと、気合を入れてフロアへ向かった。
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申し送りを終え、訪問予定リストに目を通す。
南部さんの名前は——ない。
少しホッとしたのも束の間、橋本さんが困った表情でやってきた。
「あのね、南部さん、またお風呂入らないって。ゴンちゃん、説得してくれない? ダメなら清拭にするわ」
また拒否か……。最近の南部さんは、特に手強い。
ノックをして部屋に入ると、南部さんは車椅子のままテレビを観ていた。
ちらっと私を見て、すぐに画面に視線を戻す。
「南部さん、お風呂に入りましょう」
なるべく優しく声をかけたけど、返ってきた言葉は、
「イヤ。入りたくない」
──でしょうね。
このところずっと拒否が続く。理由を聞いても「面倒くさい」「そんな気分じゃない」の繰り返し。
私は息を整えて言った。
「入らないと、息子さん、心配されますよ」
南部さんの肩が、わずかに動いた。
息子さん──銀縁メガネは、口調はキツイけど、お母さんを気にかけていることはわかる。
“元気でいてほしい”という思いは、きっと強い。
「安心させてあげられるのは、お母さんだけですよ」
南部さんはテレビから目を離し、小さくため息をつく。
「……あなたが手伝ってくれるの?」
「はい!」
迷わず答えると、南部さんは静かにポツリと呟いた。
「しょうがないわね……」
よっしゃーーー!
気が変わらないうちに、そのまま南部さんを連れて浴室へ。
「ちょっとだけ待ってくださいね」
そう伝えて橋本さんのもとへ急ぐ。
「ごめん、南部さんOKだけど、私が入れるって言ったから、ちょっとフロア見ててくれる?」
橋本さんは驚いた顔を見せて言った。
「おお、やったね! いいよ、ここは任せて」
手早く風呂着に着替えて浴室に向かった。
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南部さんの入浴を介助しながら、ふと思う。
あの銀縁メガネも、お母さんを施設に入れるか、在宅で見るか、きっと迷っただろう。
でも結局、施設に入れると決めた。その判断の先に、ここで穏やかに過ごしてほしいという期待があったのだろう。
思えば、彼が面会に来ても、文句を言われるのではと身構え、面と向かって話をすることを避けていた。
話しかけられても、いつも言い訳めいた答えばかり返していた気がする。
──きちんと説明したことなかったな。プロとして。
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南部さんの入浴介助を終えたあと、私はまたフロア業務に戻った。
面会に来た家族さんの対応をしたり、ナースコールに駆けつけたり──気づけば午前中はあっという間に過ぎていた。
昼休憩でようやく一息つき、コーヒーを飲んで気持ちを切り替える。
気合を入れ直し、仕事再開。
「排泄、まわるね」
カウンター脇にいた舞ちゃんに声をかけると、
「はーい」
と、いつもの明るい声。
私は排泄介助のため、利用者さんの部屋へ向かおうと廊下を歩き出す。
フロアから少し離れたその時──。
「あ……」
背後から、舞ちゃんのトーンが落ちた小さな声が聞こえた。
振り向くと、エレベーターから降りてきた銀縁メガネの姿。
南部さんの名前は訪問予定リストに載っていなかったし、いつもなら事務所から内線で一報が入るのに、それもなかった。
舞ちゃんは、すっかり油断していたようだ。
しかも、運悪く真正面に立っていたから、逃げ場がなくフリーズしている。
「こ、こんにちは……」
蚊の鳴く声って、こんなのだろうな、というくらいの小さな声。
かわいそうな舞ちゃん。銀縁メガネの攻撃を受けるのか?
……まぁ、いつも受けるのは私だし、たまにはいいでしょ。
すると、彼はチラッと舞ちゃんを見やっただけで、そのまま南部さんの部屋の方向へと歩いて行った。
攻撃を逃れた舞ちゃん。少し遠目に見ていても、肩の力が抜けていくのがわかる。
私も、南部さんの部屋とは反対方向の廊下にいたから難を逃れた。
逃れたけど──。
自分でもよくわからない。けれど、“伝えなきゃ”と思って行動が先に出た。
「南部様!」
私は小走りで近寄り、声をかけた。
「え!」
と、驚く舞ちゃん。──大きな声、出ちゃってるよ。
彼は無表情のまま振り向いた。
「こんにちは」
と挨拶すると、いつものように、ほんの2センチほど頭を下げた。
「今日、お母様、お風呂に入られました」
私がそう伝えると、彼は表情を変えずに言った。
「今日は入浴日だから、入るのは当然でしょう」
想定内の返事。でも、ひるまない。
「そうなんですけど、前にもお伝えしましたが、最近は特に入浴を嫌がられることが増えていまして」
私は声を落とし、言葉を選びながら続けた。
「以前はお風呂がお好きだったかもしれませんが、やっぱりお年もあって、だんだんと億劫になってきたと思うんです。スタッフが代わる代わる声かけをするとか、色々と工夫しているんですが、気が進まれない日もあって」
彼は黙ったまま、わずかに表情を変えたけれど、不快なのか、戸惑っているのか読めない。
「でも今日は、“息子様が心配されてましたよ”ってお伝えしたら、入ってくださいました。ゆっくりお湯につかって、あがってからも、“気持ちよかった”って笑顔でおっしゃって」
彼の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……まあ、それで入ったなら、いいんじゃないですか。これからも、そうしてください」
「はい。そうさせていただきます」
私は軽く会釈してから、さらに言葉を続けた。
「それと、もしどうしても拒否が強い時は、清拭で対応させてもらうこともありますが、その際もサッと拭くだけではなく、丁寧に拭いて清潔を保つようにしていますので」
彼は一度口を開きかけて、何かを飲み込むようにして、
「……わかりました」
とだけ言った。
私はペコリと頭を下げ、彼が部屋へ向かうのを見送った。
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「もう!びっくりしましたよ! どうしちゃったんですか! 権田さん!」
逃げた舞ちゃんが、いつの間にか戻ってきて、ずいっと寄ってきた。
「息子さん、せっかく何も言わずに通り過ぎたのに、わざわざ地雷踏むようなことして」
「うーん、それはね……」
彼は、大切な母親を私たちに託してくれている。
それは、私たちを信じ、期待しているからだ。
彼の言い方はキツイけれど、それも含めて、その期待に応えようと向き合うのが私たちの役目。
彼だって、母親を施設に入れると決めた時は、私のように罪悪感を感じたかもしれない。
だからこそ、期待に応えなくては……。
そう思って呼び止め、きちんと向き合ったんだ。
──と、舞ちゃんに説明しようとしたけど、やめた。
なんだか照れくさいのもあるけど、第一、舞ちゃんがわかってくれるかどうか怪しい。
なので、
「──いろいろ」
と、だけ答えた。
すると、舞ちゃん、
「そうなんですか」
と、一言。
こんな返事で満足なんだ。説明しなくて正解だったな。
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排泄介助を終え、おやつの用意を始めようとした時、背後から声をかけられた。
「あのー」
振り向くと、銀縁メガネ。
不思議と私はまったく驚かなかったし、逃げる気もしない。
相変わらず、舞ちゃんは気配を察した時点で雲隠れしたけど。
「お帰りですか?」
すると、一瞬下を向いてから、ゆっくりと口を開いた。
「今日の風呂、あなたが入れてくれたのですか?」
クレームかな? でも、口調は柔らかい。
「ええ、そうですけど」
と、答えると、
「とても親切だった、と。気持ちよかったとも言ってました」
彼からクレーム以外の言葉を初めて聞いた。
そして──
「さすが、プロですね」
と、一言。
あれだけ嫌味に聞こえた彼の“プロ”という言葉を今では素直に褒め言葉として受け止められる。
「ありがとうございます」
笑顔で礼を言うと、
「これからもよろしくお願いします」
と、彼は小さく頭を下げた。
いつもの角度より、少し深く──5センチ、いや、それ以上。
銀縁メガネ──いや、息子さんの眼鏡の奥の目が優しく光った気がした。
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「いやー、あんな息子さん、初めて見ましたよ」
息子さんがエレベーターに乗って、扉が閉まった瞬間、シレッと現れた舞ちゃん。予想はしてたけど。
「ほんと、いいもの見せてもらいましたよ」
いや、舞ちゃん、なに目線よ。しかも他人事のように。
おかしくて、思わず吹いてしまった。
──舞ちゃんはともかく、私は一歩前進したかな。
そう考えていると、エレベーターが開き、事務所スタッフの梶さんの声が聞こえた。
「鈴木様の家族様、来られましたー」
それぞれの思いを受け止め、大切な人を思う心に寄り添う──そういう気持ちをこれからも大事にしたい。
そう思いながら、私は笑顔で迎えた。
第六章 完




