第六話 父の娘
「ゴンちゃん、明日は出勤?」
仕事を終えて帰り支度をしていると、広瀬さんが聞いてきた。
「ううん。明日は休み」
「そうか、ゆっくり休んでね」
「ありがとう」
と言ったものの、明日は色々と予定があって忙しい。
明日に備えて、今日は早く寝よう。そう思いながら、寒空の下で自転車のペダルを強く踏み、家路を急いだ。
⸻
今日は仕事は休みだけど、ゆっくり寝てはいられない。
いつもの時間に起きてお弁当を作り、夫を送り出したあと、洗濯と掃除を済ませる。
9時か──そろそろ家を出なきゃ。私は電車に乗るために駅に向かった。
電車に揺られ、駅を降りて10分ほど歩く。
淡いクリーム色の、一見マンションのような建物に着くと、入り口横のチャイムを鳴らした。
名前を告げると自動ドアが開き、中に入る。
内扉の向こうから黄色いポロシャツを着た女性が会釈し、解錠された扉が静かに開いた。
「田島さんの家族様、来られました」
入ってすぐの事務所から、家族の来訪を伝える声が聞こえる。
ここは、老人ホーム──もちろん、私の職場ではない。
ここは──父の家だ。
⸻
建物の中は、ほんのりとした暖かさに包まれていた。
廊下の壁際には季節の花が飾られ、大きな水槽の中で熱帯魚がゆらゆらと泳いでいる。
ほのかに漂う消毒液の匂いが鼻をかすめた。
ああ、この感じ。どこも同じなんだな──そう思う。
「田島さん、今日も穏やかですよ」
エレベーター横の暗証コードを押しながら、スタッフさんが笑顔で声をかけてくれた。
エレベーターが降りてくる前に、
「あ、もう大丈夫です」
と伝えると、スタッフさんは一礼してその場を離れた。
3階で降りると、別のスタッフさんが笑顔で挨拶をして、一言。
「田島さん、今日も穏やかですよ」
──同じ言葉をかけられた。
穏やか……。
ここに入所した頃は、聞かれなかった言葉だ。
暴力こそ振るわなかったものの、エレベーター前で暴れたり、スタッフさんに暴言を吐いたり──。
かなり手こずらせてしまい、退去させられるのではとビクビクしていたこともあった。
面会に来た時も、罵声を浴びせられて、帰り道で涙が止まらなかったこともある。
そんな父も、時間とともに少しずつ落ち着きを見せ始めた。
とはいえ、その後は転倒を繰り返し、体調を崩して入院することもあり、体はどんどん弱っていった。
認知症も進み、今ではほとんどの時間をベッドの上で過ごしている。
廊下を進み、“田島耕一”と書かれた表札の前に立つ。
そっと手を伸ばし、ドアをノックした。
⸻
コン、コン──。
静かに中に入ると、眠っているのか、父は目を閉じていた。
「お父さーん。美加だよー」
声をかけると、ゆっくり目を開けて笑みを浮かべた。
私が近づくと、さらに笑顔が広がる。
「お父さん、元気そうね」
そう言うと、父は小さく何度も頷いた。
私はベッド脇に椅子を寄せて腰を下ろす。
「今日はね、悟くん仕事だから、私ひとりで来たよ」
夫の名前を出すと、父はまた笑顔で頷く。
そして、天気の話やテレビの話、父の好きだった食べ物の話など、いつものように何気ない話を続けた。
ふと思い出したように、私は言った。
「そうそう、少し前の話だけどね、職場でおじいさんが杖を振り回して、エレベーターをガンガン叩いて大変だったのよ」
すると、気の毒そうに顔をゆがめて私を見つめる。
「でもね、ここに来たばかりのお父さんも似たようなものだったのよ。覚えてない?」
少し意地悪っぽく言うと、父は目を丸くしてキョトンとした。
その顔を見てクスクス笑うと、父もつられるように笑顔を見せた。
──穏やかだなぁ。
心から思った。
やがて父の瞬きが増え、少し疲れてきたのがわかる。
「今日はそろそろ帰るね」
そう言うと、眠たそうだった目がパッと開いた。
“もう帰るのか”と言いたげな目。
「また来るからね」
声をかけると、再び穏やかな笑みが戻る。
「あ、そうだ。今日ね、ノブくん来るんだよ。うちに」
頷く父。
「じゃあね。今度は悟くんと一緒に来るね」
また頷く。
「バイバイ!またね!」
私が手を振ると、父も布団の中から手をゆっくり上げて小さく振った。
部屋を出て、スタッフさんに声をかけ、エレベーターに乗り込む。
扉が静かに閉まるのを見届けながら、胸の奥に残る父の笑顔を思い返す。
──父は、私が名前を出したノブくんが誰なのかも、悟くんのことも、もうわかっていない。
そして──きっと、私のことも。
それでもいい。
それでも父は、父。
そして私は──父の娘だ。




