第五話 正解の行方
あれから、もう5年か……。
あの時の決断が正しかったのかどうか──今でも、よくわからない。
でも、あの時はあの時で、精一杯だったんだと思う。
だから──。
「ゴンちゃん、休憩まだでしょ?」
広瀬さんの声でハッとして顔を上げる。もう2時前だ。
「いけない、もうこんな時間? じゃ、休憩いただきまーす」
そう言って私は1階へ。
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この時間は中途半端で、スタッフルームに入ると誰もいなかった。
お弁当をレンジで温めているあいだ、椅子に座ってスマホを眺めていると、山野さんが入ってきて隣に腰を下ろした。
「お疲れ様ー。あれ? 山野さん、今日出勤だったの?」
山野さんは私と同じ2階担当だが、シフトによって他の階を受け持つこともある。
「うん。今日は3階。ゴンちゃん日勤でしょ? 休憩遅いね」
「面会の家族さんが多くてねー。対応してたら遅くなっちゃって」
レンジからお弁当を取り出し、箸を手にした。
口に運びながら、山野さんと利用者さんの話をぽつりぽつりと交わす。
言葉は軽く、でも、どこか落ち着いた空気が室内を包んでいた。
少し会話に間が空いたので、私はずっと気になっていたことを口にしてみた。
「山野さんって、親御さんの介護してたのよね」
山野さんは以前、機械メーカーで働いていたけど、親の介護をきっかけに介護職に転職したと聞いている。
「ああ、親父ね。もう亡くなって随分経つけど」
「家で世話してたの?」
「そう。在宅」
在宅介護──住み慣れた家で介護のサポートを受けながら生活をする──。それは、私が取らなかった決断だった。
「お世話、大変だった?」
「んー、そりゃあ、まあね」
と言いながらも、思っていたよりあっさりした口調だ。
「母親も他界してたし、やっぱり1人で置いとくわけにはいかなかったからね」
……そうなるよね。
「でも、もともと穏やかな性格で、認知症になってからも親父はそんなに変わらなかったから、そのへんは助かったかな」
うちの父とは違うな。もともとが頑固だったから。
「それにね、足腰が弱くて立ち上がれなかったから、徘徊もなかったし。半日はリクライニングの椅子でおとなしくテレビを見て過ごすだけでね。排泄も嫌がらずに協力してくれたから、世話としては楽なほうだったかもね」
山野さんはひと息ついてから、続けた。
「ただ、やっぱり誰かはそばについていないといけなかったけどね」
「山野さんがずっとついてたの?」
「いや、はじめは休みの日と夜間だけ様子を見るだけで、ほとんど妻がみてくれたのよ。でもデイサービスも利用していたから、入浴の負担もなかったし、デイに行ってる間は息抜きできたみたいだったしね。妻も2人の子どもを育てながら、なんとかやってくれてね」
そう言ってから、少し顔を曇らせた。
「ちょっと大変になったのは寝たきりになってからかな。親父は、ほとんど言葉を話さなくなったから、体調が悪くなっても異変に気づきにくくなってね。そりゃあ、妻も心配になるよね。デイにも行けなくなって、ヘルパーさんに来てもらったり、僕も介護休暇とか有給を取って、なるべく見るようにしたのよ」
私の箸の動きが、自然と止まって山野さんの話に耳を傾ける。
「で、結局、誤嚥性肺炎で亡くなっちゃったんだけど」
介護は楽なほうだった、と言いながらも、やっぱり大変だっただろうな、と私は思った。
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「……えらいね、山野さんは」
山野さんが、ん? と不思議そうな顔をして私を見る。
「私は──父を施設に入れたから」
すると、山野さん、ますます不思議そうな顔をして言った。
「それが、えらくないの?」
え?
「誰かのためにやることに、“えらい”も“えらくない”もないよ。ただ、“その人のことを考えて行動するかしないか”じゃない? 正解なんてないんだから──言い方を変えれば、施設に入れることも、在宅で支えることも、どっちも正しいんじゃない?」
言葉が詰まった。スタッフルームの時計の針が、カチ、カチ、と音を立てるのが聞こえた。
「ゴンちゃんさ、ここで利用者さんの世話をする時って、自分の給料のことだけ考えて仕事してる? 違うでしょ。利用者さんのことを思って接してるでしょ。それと一緒じゃないの?」
「……そうかもしれないね」
そう口にしたものの、胸の奥にはまだ少しモヤモヤが残っていた。
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父を施設に入れると決めた時、私は“逃げた”と思われるんじゃないかと、ずっと怖かった。
誰に、というわけでもない。たぶん、“自分自身”に対して、だ。
在宅で最後まで支えきった人たちを見るたびに、“あのまま家で見ていれば、何か違っていたんじゃないか”と考えてしまった。
あの時の選択が本当に正しかったのか──その答えは、今も出ていない。
けれど──。
「正解なんてないんだから」という山野さんの言葉が、ゆっくりと心の中に沈んでいく。
その人のことを思って行動するかどうか──それがいちばん大事なんだ。
私は、父を施設に入れると決断したのは、「母さんのことはもういい」と言った父の一言がきっかけだったと今でも思っている。
あの時は、その言葉に腹を立て、感情的に決めたような気がしていた。
でも──今になって思う。
本当に感情に流されていたのは、「かわいそうだから家で面倒をみよう」と考えていた私の思い込みのほうだったのかもしれない。
父はすでに冷静に物事を判断できる状態ではなく、あの冷たく聞こえた言葉もその時の状況から出たものだったのだろう。
だから、私は逃げたのではなく、現実を受け止めて、あの時の私にできる最善の方法を選んだんだ。
父のことも、母のことも思って──。
どちらの選択も、正しいとか間違っているとかではなく、それぞれの状況で最善を尽くした結果なんだ。
胸のモヤモヤが少しずつ晴れていく。
「そうか、そうだよね」
私がニコッと笑うと、山野さんもつられるように目を細めた。
「そう。そうだよ」
その穏やかな声に、一瞬だけ、周りの音が消えたように感じた。
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そろそろ休憩時間も終わりだ。
「話聞けてよかった。ありがとう」
と、山野さんに微笑んでスタッフルームを出た。
長年胸の奥に沈んでいたわだかまりが、ようやくほどけはじめた──いや、かなり軽くなった気がする。
そんな心地で歩いていると、事務所の前で施設長に呼び止められた。
「あ、権田さん。今日、南部さんの息子さん来てたでしょ」
あ、銀縁メガネですね。
「色々クレーム言って帰ったけど、権田さんも聞いてます?」
そりゃあもう、存分に。
「リーダーにも伝えますけど、現場でも十分気をつけるようにお願いしますね」
そう言って施設長は眼鏡をクイっと押し上げた。
施設長も銀縁の眼鏡……。
今日は銀縁の眼鏡攻撃が続くな。ま、こっちの攻撃はだいぶ緩いけど。
「わかりました。気をつけます」
まったく……と、つぶやいて事務所の時計を見ると3時少し前。
あ、やばい! 休憩時間過ぎる!
急いで小走りで階段へ──。
「廊下は走らない! 何度言わせるの!」
わー……。
女帝三上が眼鏡のチェーンを揺らして私を睨んで立っている。
銀縁の眼鏡……。
占いでいうところの“今日のラッキーアイテム”ならぬ、“アンラッキーアイテム”だな。
「すみませんでした!」
叫ぶように謝り、逃げるようにその場を去った──慌ただしい足取りとは裏腹に、心はスッと解きほぐされていた。




