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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第五章 そこにいるじゃない

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第六話 微笑み返し

夕食の準備が始まる前に、伸江さんが娘さんと戻ってきた。


検査の結果、脳に異常はなく、腕には打撲痕があるものの、骨折はしていないとのことだった。


あんなに派手に倒れたから心配したけれど、とりあえず安心だ。


伸江さんは、いつもと変わらない笑顔で娘さんに何か話しかけている。


その穏やかな表情を見て、あらためてほっとした。


「病院でも落ち着かれていました?」


私がたずねると、娘さんは苦笑まじりにうなずいた。


「はい。おとなしく検査も受けてくれました。順番待ちの時に、私から“チョコがいたの?”って聞いたんですけどね、“何が?”って。もう、転んだことも忘れちゃったみたいで」


そうなんだ……。ほんと、波があるよね。


娘さんが帰って、伸江さんはしばらく部屋で休んだあと、夕食時にいつもの席へ。


テーブルの上にある“何か”をつまんでは、そっと床へ落とす動きを繰り返している。


向かいの席の磯野さんは、誰もいない“隣の人”に一生懸命話しかけている。


石嶺さんは、やはり不安そうな表情のまま、声をかけても部屋から出てこない──。


みんな、それぞれに“自分の世界”がある。


母のように、穏やかで楽しそうな世界ばかりじゃなくて、時には、不安や混乱の中に閉じ込められている人もいる。


一人ひとりに合わせた対応って、難しいようでいて、私たちも日常の中で、人に合わせた話し方や接し方をしている。


だから、きっとできないわけじゃないよね──フロアを見渡しながら、そう思った。



夕食の下膳が済んで、フロアでの仕事もひと通り終えた私は、舞ちゃんの事故報告書を手伝おうと、1階の事務所へ向かった。


事務所では、舞ちゃんがパソコンに向かってすでに入力を始めていた。


いつもより──というか、いつもと違う真剣な表情をしている。私はその横に座り、今後の防止策や対応について一緒に考えた。


「お疲れ様でーす」


前田さんが事務所に入ってきて、私に気づくとそばに寄って声をかけてきた。


「新庄さん、転倒したって?」


──伸江さんのことだ。


「そうなの。でも幸い、どこも異常なくて」


「よかったですね。急に立ち上がったの?」


「そうなのよ。実はね──」


舞ちゃんの邪魔にならないよう、私は少し席をずらして前田さんに説明した。


伸江さんのことだけでなく、石嶺さんのこと、そして母が見た幻の話も──。


「最初は幽霊だと思って、怖かったな」


そう言うと、前田さんは少し真顔になり、低い声で言った。


「……いるかもですよ」


「そうね、いるかもね」


私があっさり答えると、前田さんは少し拍子抜けしたような顔をした。


「やっぱり、ホスピスだしね。そういうこともあるかもって思って。で、母のおかげで慣れちゃって。昔は怖かった幽霊も、あまり怖くなくなっちゃったの」


「そうなんですね。実は俺もね、最近ドキッとしたことがあって」


前田さんは少し身を乗り出した。


「このあいだ亡くなった305号室の利用者さんの部屋を整理してたら、トイレの水が流れる音がして。奥にいたから気がつかなかっただけで、掃除の業者でも入ったのかと思ったんですよ。でも覗いたら、誰もいないんです」


「ああ、それは……その人、帰ってきたのかもね」


私は半分冗談で、半分本気で言った。


「その時は、“うわ、やばっ!”って思ったんですけど、病院とか施設って、こういう現象多いって聞きますよね。だから、そういうこともあり得るのかもな、って思って。まあ、怖いっちゃ怖いですけど」


……まあ、前田さんの思い込みという可能性もなくはない。


部屋のドアを開けたままだったとしたら、向かいの部屋のトイレの音が聞こえたかもしれないし、認知症で自分の部屋がわからなくなった人が、サッと入ってきてサッと出たのかもしれない。


──前田さんみたいな、いつも冷静で強そうな男の人でも、やっぱり怖いものは怖いんだな。


「権田さんみたいに幽霊に慣れるのは、少し時間がかかるかもしれませんね。……って、あまり経験したくはないですけど」


すると、急に別の方向から声がした。


「わかります! その気持ち!」


舞ちゃん──真剣に入力していたと思っていたのに、聞いてたんかい……。


「私もね、同じような経験したんですよ!」


舞ちゃんはくるっと椅子の向きを変え、話に混ざってきた。


「前ね、髪の毛カットしに行ったんですけど、初めて行ったお店だったんですね。で、そこのトイレに入った途端に──」


──途端に?


「カパッてトイレのフタが開いたんです! 勝手に!」


──あるよね。センサー付きの。


「知ってます? そういうのあるって」


──知ってるよ。


「私、初めて見たからそりゃあもう、びっくりして! ほら、“トイレの花子さん”とかあるじゃないですか。便器の中に引きずり込まれるかと思って、しばらく固まっちゃいましたよ! 結局、恐る恐る座りましたけど」


──それはよかった。間に合って。


「で、それ以降そういうトイレにたまに出会うようになって、だんだん慣れてはきたんですけど、やっぱりカパッと開く瞬間はドキッとしてしまうんですよ。完全に慣れるまでは時間がかかりそうですね」


「そうね。さ、続きしようか」


興奮して話す舞ちゃんに、私は優しく声をかけた。



夕方6時が過ぎ、事務所には私と舞ちゃん、前田さんの3人になった。


真剣モードに戻った舞ちゃんの横で、私はふと思い返す。


伸江さんや石嶺さん、磯野さん、ほかの利用者さんたちにも、それぞれの小さな世界があるんだよな。


母も──あの穏やかな笑顔の向こうには、やはり誰にも届かない時間が流れていたのだろう。


幽霊は──本当にいるのかどうかはわからない。でも、怖いことも、不思議なことも、日常の中で混ざり合いながら、それでも目の前の人に寄り添うことだけは変わらない。


こうして私は、今ここで起きていることに向き合いながら、一歩ずつ日常を重ねていくんだな、と思った。



「あーーーー、終わったぁ! 権田さん、ありがとうございました!」


「お疲れ様! こちらこそありがとうね」


進んで事故報告書を作ってくれた舞ちゃんに礼を言う。


そばで事務処理をしていた前田さんも顔を上げて、


「俺もそろそろ帰ろうかな。あ、外扉のロック、かけとかないとね」


施設の中の内扉は、部外者が勝手に入ってきたり、利用者さんがうっかり外に出てしまわないように、いつもロックをかけているけれど、外扉は人の出入りが多い日中はロックを外している。


前田さんがロックをかけようと立ち上がったその時──。


ピンポーン──玄関先で人の出入りを知らせるセンサーが反応して音がした。


事務所の受付用の窓から見ると、外扉がゆっくり開くのが見えた。


内扉は開いた形跡はない。つまり、誰かが外から入ってきた……?


けれど、そこには誰もいない──。


私たちは顔を見合わせて、しばらく黙っていた。


前田さんが口を開く。


「風で時々開きますよね? 扉……」


「そうね」


と、私。


「そうなんですか?」


と、ほっとした表情になる舞ちゃん。


……扉の向こうに見える木は揺れていないから、風じゃないと思うけど──ま、いいか。


視線を落とし、もう一度顔を上げた時、ふと、母の笑顔が浮かんだ。


──そこに、いるじゃない。


そう思いながら、私はそっと微笑み返した。



第五章 完


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