第五話 見えている世界
チョコちゃんの正体が判明し、ちょっとスッキリした反面、推理が外れて少しガッカリした──そんな複雑な気持ちの私。
考えたら、それはそんなに重要なことではないんだけどね。まずは伸江さんの状態が第一。
受診の準備が整い、エレベーターで1階へ。大森ナースと玄関先まで行って娘さんと伸江さんを見送った。
見届けたあと、私は気になっていたことを大森ナースに伝えた。
「あの……伸江さんのことも気になるんですけど、実は石嶺さんの様子もおかしくて」
「石嶺さん? 215号室の?」
「はい」
ここでは落ち着いて話せないだろうと、大森ナースは私を健康管理室──ナースルームに連れて行き、私は今朝の石嶺さんの様子を聞いてもらうことにした。
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ナースルームは4畳あるかないかの小さな部屋。壁際には利用者さんごとの薬の引き出しが並び、ハンガーラックには薬カレンダー。細長い机の上にはファイルとパソコンが置かれている。
大森ナースは椅子に腰かけ、薬剤情報のファイルを確認しながら私の話に耳を傾け、やがて口を開いた。
「石嶺さんの場合、数年前にご主人が亡くなってからうつ病になってね。年齢的にも老人性うつだと思うんだけど。それで、入居後も薬で様子を見ていたんだけど、最近、症状に合わせて薬を変更したのよ。その影響で、少し行動や様子が変わったのかもしれないわね」
「うつ病で幻が見えることもあるんですね」
「そうね。見えないものが見えたり、聞こえない声が聞こえたりね。ときには、自分の悪口を言われているように聞こえたり、話しかけられているように感じることもあるのよ」
心当たりはある。「同じテーブルの人に嫌われている」って言っていたし。
「被害妄想とか、体の調子を必要以上に心配する“心気妄想”のような形で現れることもあるの。それに、うつ病のせいで物忘れや判断力が少し落ちたように見える場合もあるのよ。そういう状態を“仮性認知症”って言うんだけど」
うわ……難しい言葉が出てきて、ついていけなくなりそうだ。
「もちろん、私も詳しいことは全部わかるわけじゃないけれど、石嶺さんの様子を見てたり、今の話を聞いて、そうかなって思ってね」
大森ナースは少し黙ってから言葉を続けた。
「薬が変わったから、少し前から私もできるだけ注意して見ていたつもりだったんだけど……こうやって話してもらえて助かったわ。報告してくれてありがとう」
きっかけは永田さんの噂話みたいな情報だったけど──役に立ったな。
「ちゃんと確認した上で、往診医にもつなぐし、ご家族にも報告しておくわね」
「お願いします」
と言って、ナースルームをあとにしようとしたが、ふと気になって振り返った。
「伸江さん、前からいろいろ見えてたみたいだけど、今回みたいに激しい行動を起こしたのって、認知症が進んだからなんですかね」
大森ナースは少し考えるように視線を落とし、首を横に振った。
「ううん、進んだからというより、もともとの“レビー小体型認知症”の特徴が強く出たんだと思うわ」
「レビー……。あ、幻視があるっていうやつ」
「そうそう。レビー小体型は、アルツハイマー型と違って、幻視が出やすいの。しかも、日によって頭の働きが良かったり悪かったり、ムラが出るのも特徴なのよ」
「確かに、穏やかな日と落ち着かない日、かなり差がありますよね」
「うん。それに、パーキンソン病とも関係が深いの。脳の中に異常なたんぱくがたまることで、体の動きが硬くなったり、震えが出たり、歩きにくくなったりね。伸江さんもそのタイプなの。あと、磯野さんもね」
磯野さん──伸江さんの向かいの席に座っている利用者さんだ。今日は、タオルを執拗に擦っていたかと思えば急に立ち上がろうとしていた。
「じゃあ、認知症の進行というより、そういう症状の波があるってことなんですね」
「そう。だから、今日の伸江さんみたいに幻視が強く出る日もあれば、落ち着いて過ごせる日もある。私たちはその波を見ながら、できるだけ穏やかに過ごせるようにサポートしていく感じね」
そう言って大森ナースは、手にしていたファイルを静かに閉じた。
幻が見えるのも、うつのせいだったり、認知症の特徴だったり──。
人の“見えている世界”って、本当にそれぞれ違うんだな、と思いながら、私はフロアへ戻った。
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フロアに戻った私は、ほかに気になっていたことを舞ちゃんに尋ねた。
「大原さん、大丈夫だった?」
伸江さんの世界では、チョコちゃんの足をつかんで振り回した──そんな“冤罪”をかけられた大原さんだ。
「ああ、大原さんですね。しばらくは“自分が何か悪いことしたんじゃないか”ってオドオドしてたんですけど、伸江さんの勘違いだって説明したら、なんとか落ち着いたみたいです」
「そう、よかった」
ほっとしたところで、舞ちゃんが姿勢を正し、口を開いた。
「あの……」
「ん? どうしたの?」
「伸江さんの事故の報告書、私が書きますね」
「え?私でいいよ」
「いえ、私がいちばん近くにいたのに止められなかったから……私がします」
あれは、誰にも止められなかった。舞ちゃんが責任を感じる必要なんてないのに。
それに、事故の報告書なんて、普通はみんな避けたがるものだ。
それを自分からやると言える──そういうところが、本当に彼女らしいと思う。
天然でおっちょこちょいなところもあるけれど、それも含めて、彼女のいいところだ。
「ありがとう。じゃあ、あとで防止策とか一緒に考えよう」
「はい、ありがとうございます」
舞ちゃんはほっとしたように笑顔を見せた。その笑顔につられて私も笑顔を返した。
きっと、いろんな思いを抱えているのは誰も同じだ。
──人は誰も、見えている世界だけで生きているわけじゃないんだな。




