第四話 チョコちゃん
椅子ごと床に倒れた伸江さん──。
橋本さんは迷わずナースに連絡、私は伸江さんの様子を確認した。
頭を打っていたら、むやみに動かすのは危険だ。脳に内出血や損傷があっても、外見ではわからないことがある。
だから、まずはそのままの状態で声をかける。
「伸江さーん、大丈夫ですかー?」
倒れたまま立ち上がろうとする伸江さん。なおも、大原さんに向かって怒声をあげた。
「ちょっと! 離しなさいよ!」
大原さんは、持っていた巾着を胸にギュッと抱え、オドオドと立ちすくむ。
私は必死で伸江さんをなだめ、動かないよう声をかける。
そして、舞ちゃんが持ってきてくれたバイタルセットで、血圧と体温、血中酸素濃度を測る。
その時、看護用のワゴンをガラガラと押しながら、大森ナースが到着した。
三上ナースでなくてよかった。あの怒声を聞かずに済む。
女帝三上なら、事故のたびに「なんでちゃんと見てなかったのよ! 誰がそばにいてたの!?」と“犯人探し”を始めるに違いない。
大森ナースはひと通り伸江さんの状態を確認すると、静かに車椅子に乗せた。
「やっぱり頭打っているみたいね。少しコブができてるから病院で診てもらった方がいいわね。家族さんに連絡とってみる」
「そうですか。よろしくお願いします」
⸻
とりあえず安静に休んでもらうため、伸江さんを部屋に送り、ベッドに横にした。
伸江さんに怒鳴られた大原さんも動揺していないか気になったが、そこは、橋本さんと舞ちゃんがケアしてくれているだろう。
「伸江さん、少し休んでてくださいね」
そう声をかけると、伸江さんは顔を上げて、
「チョコは? チョコちゃん」
と、犬のことを気にしている。
「チョコちゃん? ワンちゃん?」
「あの人、チョコの足持って振り回してたじゃない!」
え? 大原さんが……?
もちろんそんなことはないけど──大原さん、何も持っていなかったよな。いや、巾着袋を持っていたっけ。たしか、茶色の……。
あ! ……チョコ!
そうか!
伸江さんには、大原さんがチョコちゃんの足を持って振り回しているところを見たんだ──いや、振り回しているように見えたんだ!
「チョコちゃん、大丈夫ですよ。あとで見に行きましょう」
「今連れてきて!」
「じゃあ、ちょっと待っててくださいね」
一旦そばを離れて落ち着くのを待とう。
念のため、足元にセンサーマットを敷いて部屋を出た。踏むと反応してナースコールにつながるので伸江さんがベッドから降りたらすぐわかる。
10分ほど経って見に行くと、目を閉じて静かに横になっていた。病院に行くまで、何も起きずにいてくれたらいいんだけど。
⸻
1時間後、伸江さんを病院に連れて行くために、娘さんが迎えに来た。
「ご迷惑をかけてすみません」
と、頭を下げる娘さん。
「いえいえ、こちらこそご心配をおかけしてすみませんでした」
私は、事故を防げなかったことを詫び、大森ナースからも聞いているだろうけど──と前置きして、あらためて経緯を説明した。
ほかの利用者さんのもとへ行こうとして、急に立ち上がり、バランスを崩して倒れてしまったこと。
そして、私の“推理”を披露する。
「お母様、チョコちゃんというワンちゃん、飼っていませんでした?」
「……ああ、ずいぶん前ですけど」
「その利用者さんが持っていた茶色の巾着袋が、チョコちゃんに見えて、慌てて近寄ろうとしたんだと思うんです」
すると娘さん、不思議そうな顔をして、
「……はあ」
と、一言。
あれ? 手応えゼロ。
“ああ、なるほど!”って返ってくるはずだったのに。
「まあ、巾着袋だからワンちゃんにしては小さいとは思いますけど、色とか、ふわふわした感じでそう見えたのかなと」
と説明を足すと、娘さんがぽつり。
「チョコは白かったんですよ」
えっ!!
「あ、私……チョコって、チョコレートのチョコかと……」
娘さんの表情がふっと緩む。
「いえ、チョコチョコ歩くからチョコにしようって、母が名付けたんです」
「そうなんですか……」
白くてチョコチョコ歩く……マルチーズか、トイプードルかな。
「秋田犬だったんです」
でかっ!!
「白い秋田犬って珍しいんですけどね。親戚が飼えなくなって、うちで引き取ったんです。もう成犬だったので、うちに来たときはかなり大きくて」
と言いながら、娘さんは腕を軽く広げてみせた。
──1メートルはあるな、これ。
「もともとは“太郎”って平凡な名前だったんですけど、うちに来てから“チョコ”に変えたんです」
成犬になってから名前変えても、ちゃんと馴れるんだ……犬ってえらいな。
「私が子どもの頃だから、もう40年以上前の話なんですけどね」
古っ!!
ここに入居する前まで飼っていたのかと思ってたから、びっくりした。
……えーと、まとめますと──チョコちゃんは茶色じゃなく白。小型犬じゃなく大型犬。しかも40年前。
「でも、チョコの名前を口にしたってことは、たしかに思い出したんでしょうね。可愛がっていましたから」
と娘さん。
……なんか、逆に慰められた気分。
犯人は言い当てたけど、動機が違ってた──そんな中途半端な謎解きをしてしまった気がする……。
まあ、巾着袋を持った大原さんを見て、チョコちゃんを振り回していたと勘違いしたのは、間違いないと思う。
──さすがに秋田犬の足を持って振り回すことはできないけれどね。




