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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第五章 そこにいるじゃない

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第三話 母の微笑み、私の隣

私はできるだけ穏やかに声をかけながら、石嶺さんの肩にそっと手を添える。


「もう大丈夫ですよ。誰もいませんからね」


「そう……? でも、確かにいたのよ」


まだ不安そうな表情のまま、ドアの方を見つめている。


「そうですよね。びっくりしますよね」


否定せず、受け止めるように相づちを打つ。


「知らない人が入ってこないように、ほかのスタッフにも気をつけてもらいますね」


「……あなたも信じてないんでしょう?」


「そんなことないですよ。石嶺さんが怖い思いをしてる、それがいちばん大事ですから」


できるだけ柔らかく答えると、石嶺さんはしばらく私を見つめてから、ふっと目を伏せた。


ようやく落ち着いたようで、石嶺さんは小さく頷いた。


その姿を見届けて、私はそっと部屋を出た。


ドアを閉めると同時に、ようやく息をつく。なんだか私まで鼓動が速くなっている。


──まるで、私まで幻を見ていたような気がした。



フロアに戻ると昼食が始まる前で、ほとんどの利用者さんが集まっている。


石嶺さん、あの様子だと今日もフロアに出てこないかもしれないな。


「チョコちゃん!」


伸江さんが遠くを見ながらまた呼んでいる。


同じ幻視でも、“動物”と“人”では、感じ方がずいぶん違う気がする。


人だと、それが幻だとわかっていても、つい幽霊を連想して少し身構えてしまう。


でも──見えない動物に囲まれていた母の世界にも、やがて人が現れるようになった時は、なぜかあまり怖いとは思わなかったな。



母がホスピスに入ってから、1か月ほど経った頃。


ほとんど毎日様子を見に行っていたけど、片道に1時間近くかかることもあり、さすがに疲れた私は、泊まりで訪れることが増えていた。


昼過ぎに着き、そのまま泊まり、次の日の夕方に家に戻る──そして1日空けてまた泊まる。そんな繰り返し。


その方が、訪れた時にそばにいられる時間も長く、体力的にもずっと楽に感じられた。


ホスピスでは、家族がそばで見守れるよう、病室のソファがベッドにもなっていて、快適に眠れる。


シャワーも使わせてもらえるし、本当にありがたく思いながら母のそばで夜を過ごしていた。


ある夜、そろそろ寝ようかと思い、ソファをパタンと倒してベッドにして、寝る準備を整えていた。


ふと視線を感じて振り返ると、眠っていたはずの母が目を開け、静かにこちらを見ていた。


「お母さん、まだ起きてたの?」


そう声をかけると、母は穏やかな微笑みを浮かべて──私を……いや、私の“隣”を見ながら言った。


「美加ちゃん、そのお嬢さん、どなた?」


ぎゃーーーーーーっ!!


心の中で叫んだ。


ちょっと! お母さん! 今から私、ここで寝るんだよ? 怖すぎるんですけど!


「え? い、いないよ。誰も」


そう答える私に母は何も言わず、私の“隣の人”に軽く会釈をした。


どうしたもんかと思いながらも、母は怖がっても不安がってもいないようだったので、私は普通に声をかけた。


「そろそろ私も寝るね」


そう言うと、小さく頷き、母も目を閉じた。


怖かったなー。でも、ここはホスピス。ここで亡くなる人がほとんどだ。出てきても不思議ではないのかな──そう思うと、ますます怖くなり、その日の夜はあまり眠れなかった。


だけど、慣れって不思議なもんで、こういう発言が続くと、あまり気にならなくなってきた。


別の夜、夜中に目を覚ますと、母の小さな笑い声がした。


母は顔だけ横に向けて、“誰か”に話しかけている。


「そうそう、おにいちゃんは上手ねー。おねえちゃんも──そうそう、できたできた」


「誰と話してるの?」


「ふふ。おはじきしてるの」


「……そうなんだ」


また別の日には、


「あー、今日はやめておきますね。また誘ってくれますか?」


「どしたー?」


「この方が一緒に音楽会に行こうって。でもちょっとしんどいからやめておこうと思ってね。美加ちゃん、行ってきたら?」


「あー、私ももう寝ようと思っているから今日はいいかな」


「そう」


母は私の隣に視線を向けて、


「じゃあ、今度娘も一緒に行きますね」


と会釈をした──私もつられて頭を下げる。


──こういう出来事が重なるうちに、いつの間にか動じず、あたかも本当に人がいるみたいに接するようになっていた。


そして、“今日は誰が来るのかな”なんて思う余裕も、少しずつ生まれてきた気がする。


今思えば、母の場合は、動物だろうと人だろうと、見えても怖がらず、むしろ楽しんでいるように見えた。だから、私も恐怖を感じることはなかったのかもしれない。


でも、石嶺さんの場合は──。


恐怖や不安を強く抱いている分、それがこちらにも伝わってくるようで、なんとなく私まで怖さを感じてしまうのだろう。



フロアでは、昼食を終えた人たちがそれぞれの部屋に戻り始めていた。


伸江さんはいつも食べるのが遅いので、まだ食事を続けている。


──やはり、石嶺さんは部屋から出てこなかった。


部屋にいれば、知らない人が入ってきて怖い。フロアに来れば来たで、現実の人間が自分の噂話をしていると感じて嫌な思いをする……。


どちらにしても、苦痛な状況に置かれているのだろうな──。


と、考えていると、食事中の伸江さんが急に立ち上がった。


「ちょっと!あんた!」


と、部屋に戻ろうと伸江さんの横を通り過ぎた大原敬子さんに向かって大声で叫び、駆け寄ろうとした瞬間──


ガタン!


椅子ごと床に倒れた──フロアに一瞬の静けさが流れた。


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