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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第五章 そこにいるじゃない

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第二話 現実と幻

そろそろ昼食の準備を始める時間になった。


伸江さんと磯野さん──転倒リスクの高い2人のそばを離れるのは少し不安だけれど、そうも言っていられない。


視線だけは二人に向けながら、フロアの一角で昼食用のお茶を入れる。


と、そこへ永田さんが歩行器の音をコトコトと立てて近づいてきた。


210号室の永田佐登子さん。認知症状はほとんどなく、いたって元気。特に……お口が。


「あなたにちょっと言っておくわ」


……なになに? 説教かな?


「石嶺さん、いるでしょ? あの人、最近おかしいわよ」


そう言って、さらに私にぐっと近づき、小声で続ける。


「今朝、廊下で話してたんだけどね、男の人が毎晩部屋に入って来て、椅子に座ってしばらくじっと見てるから怖いって言ってたのよ。このあいだなんて、トイレに入っていたら男の人が3人で覗いてたって」


……3人も。


「そんなことあるわけないって言ったんだけどね。そしたら黙って暗い顔して、そのまま部屋に入っていったの。でもね、あの人、前からちょっと変なこと言う人だったけど、最近は特におかしいわよ」


うん、情報ありがとうございます。だいぶ濃いめのやつ。


そして最後に、念押しのように、


「私が言ったってこと、言わないでよ。今聞いたこと、忘れて」


……いや、忘れられるわけないじゃない。


「わかりました。さりげなく様子見るようにしますね」


そう答えると、永田さんは、


「忘れてよ」


と、わざわざもう一度念を押してから、コトコトと自分の席へ戻っていった。


確かに、最近の石嶺さんは様子がおかしい。フロアに出てくることが少なくなり、食事も部屋で食べたいと言ってくることもある。


ちょっと様子を見にいくか。


フロアの見守りを橋本さんにお願いして石嶺さんの部屋へ向かう。



215号室の石嶺初子さん。88歳。入居してそろそろ1年。ADL──日常生活の基本動作──はしっかりしている。食事も歩行も自立していて、見た目だけなら介護が必要には見えない。


身なりもきっちりしていて、言葉遣いも丁寧。もの静か──というより、上品な奥様という表現がいちばんしっくりくる。


会話もきちんと成り立つし、記憶の混乱もほとんどない。


ただ、入居当初からずっと、「ここは面白くないのよ」とこぼしていた。話し相手がいないとか、気が合う人がいないとか。


どこかいつも不満を抱えているような口ぶりで、同じテーブルの人が無愛想だと、「きっと私のことが嫌いなのね」と気にしてしまう。


認知症の強い人が苦手で、吉井さんや高山さんが何度も同じ話をするのも、どうにも我慢ならないらしい。


「ここは私の居場所じゃないのよ。でも行くところもないから、仕方ないわね」


そんなふうにため息まじりに言う姿を、私は何度も見てきた。


ネガティブな発言は多かったけれど、ありえない話をし出したということは、何かあるのかもしれない。


そう考えながら、石嶺さんの部屋のドアをノックする。



「石嶺さーん、入りますよー」


中に入ると、いつものように整頓された部屋。石嶺さんは机に向かって椅子に座っていた。


机の上には、亡くなったご主人の写真と、ドライフラワーの入った小さな花瓶、そしてペン立てがきれいに並べられている。


「はい。どうしました?」


そう聞く石嶺さんは、いつもと変わらないように見える。


「ちょっと最近、元気がないような気がして。何か困ったことでもあるのかな、と思って」


すると石嶺さんは目を大きく見開き、視線を落としたあと、また顔を上げて私をまっすぐ見た。


「そう。実は、そうなの。……最近夜に人が入って来てね」


──永田さんが話していた通りだ。


「男の人と、女の人なんだけど」


あれ?


「それで、タンスの中のもの全部床に広げて、また元に戻すの」


違う展開だ。


「うちの職員じゃなくて?」


基本、夜間は2時間おきに巡視のため夜勤者が訪室する。


「違う。知らない人」


でも、夜中だと部屋は暗いし、夢とごちゃ混ぜになって勘違いしているのかもしれない。


「夜だけですか?」


「いいえ。昼間も来る時あるけど、昼は廊下に人がいるせいか、サッと入って来て、サッと出ていくの」


んー、それはますます職員と勘違いしているんじゃないかな。洗濯物を渡しに来たり、ゴミの回収をしたりするし。


と、突然、私の後ろに視線を向け、


「ああっ!」


と、顔をこわばらせて叫び声をあげた。


ドアを背に立っていた私はすぐに振り向くが、誰もいない。


「ほら、あの人よ!」


「え? 誰もいませんよ」


「そこにいるじゃない!」


えっ? え〜っ?


ドアはしっかり閉まっている。私はドアを開けて左右を確認するが、廊下には誰もいない。誰かが開けて覗いていたわけでもなさそうだ。


「今もいます? その人」


振り向きながら尋ねると、


「サッと出ていったわ、今」


真顔で話す石嶺さん。


これはこれは……いやいやいや、ちょっと困った状況だぞ──さて、どうしたものか。


……現実と幻の境目に、足を踏み入れた気がした。

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