第二話 現実と幻
そろそろ昼食の準備を始める時間になった。
伸江さんと磯野さん──転倒リスクの高い2人のそばを離れるのは少し不安だけれど、そうも言っていられない。
視線だけは二人に向けながら、フロアの一角で昼食用のお茶を入れる。
と、そこへ永田さんが歩行器の音をコトコトと立てて近づいてきた。
210号室の永田佐登子さん。認知症状はほとんどなく、いたって元気。特に……お口が。
「あなたにちょっと言っておくわ」
……なになに? 説教かな?
「石嶺さん、いるでしょ? あの人、最近おかしいわよ」
そう言って、さらに私にぐっと近づき、小声で続ける。
「今朝、廊下で話してたんだけどね、男の人が毎晩部屋に入って来て、椅子に座ってしばらくじっと見てるから怖いって言ってたのよ。このあいだなんて、トイレに入っていたら男の人が3人で覗いてたって」
……3人も。
「そんなことあるわけないって言ったんだけどね。そしたら黙って暗い顔して、そのまま部屋に入っていったの。でもね、あの人、前からちょっと変なこと言う人だったけど、最近は特におかしいわよ」
うん、情報ありがとうございます。だいぶ濃いめのやつ。
そして最後に、念押しのように、
「私が言ったってこと、言わないでよ。今聞いたこと、忘れて」
……いや、忘れられるわけないじゃない。
「わかりました。さりげなく様子見るようにしますね」
そう答えると、永田さんは、
「忘れてよ」
と、わざわざもう一度念を押してから、コトコトと自分の席へ戻っていった。
確かに、最近の石嶺さんは様子がおかしい。フロアに出てくることが少なくなり、食事も部屋で食べたいと言ってくることもある。
ちょっと様子を見にいくか。
フロアの見守りを橋本さんにお願いして石嶺さんの部屋へ向かう。
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215号室の石嶺初子さん。88歳。入居してそろそろ1年。ADL──日常生活の基本動作──はしっかりしている。食事も歩行も自立していて、見た目だけなら介護が必要には見えない。
身なりもきっちりしていて、言葉遣いも丁寧。もの静か──というより、上品な奥様という表現がいちばんしっくりくる。
会話もきちんと成り立つし、記憶の混乱もほとんどない。
ただ、入居当初からずっと、「ここは面白くないのよ」とこぼしていた。話し相手がいないとか、気が合う人がいないとか。
どこかいつも不満を抱えているような口ぶりで、同じテーブルの人が無愛想だと、「きっと私のことが嫌いなのね」と気にしてしまう。
認知症の強い人が苦手で、吉井さんや高山さんが何度も同じ話をするのも、どうにも我慢ならないらしい。
「ここは私の居場所じゃないのよ。でも行くところもないから、仕方ないわね」
そんなふうにため息まじりに言う姿を、私は何度も見てきた。
ネガティブな発言は多かったけれど、ありえない話をし出したということは、何かあるのかもしれない。
そう考えながら、石嶺さんの部屋のドアをノックする。
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「石嶺さーん、入りますよー」
中に入ると、いつものように整頓された部屋。石嶺さんは机に向かって椅子に座っていた。
机の上には、亡くなったご主人の写真と、ドライフラワーの入った小さな花瓶、そしてペン立てがきれいに並べられている。
「はい。どうしました?」
そう聞く石嶺さんは、いつもと変わらないように見える。
「ちょっと最近、元気がないような気がして。何か困ったことでもあるのかな、と思って」
すると石嶺さんは目を大きく見開き、視線を落としたあと、また顔を上げて私をまっすぐ見た。
「そう。実は、そうなの。……最近夜に人が入って来てね」
──永田さんが話していた通りだ。
「男の人と、女の人なんだけど」
あれ?
「それで、タンスの中のもの全部床に広げて、また元に戻すの」
違う展開だ。
「うちの職員じゃなくて?」
基本、夜間は2時間おきに巡視のため夜勤者が訪室する。
「違う。知らない人」
でも、夜中だと部屋は暗いし、夢とごちゃ混ぜになって勘違いしているのかもしれない。
「夜だけですか?」
「いいえ。昼間も来る時あるけど、昼は廊下に人がいるせいか、サッと入って来て、サッと出ていくの」
んー、それはますます職員と勘違いしているんじゃないかな。洗濯物を渡しに来たり、ゴミの回収をしたりするし。
と、突然、私の後ろに視線を向け、
「ああっ!」
と、顔をこわばらせて叫び声をあげた。
ドアを背に立っていた私はすぐに振り向くが、誰もいない。
「ほら、あの人よ!」
「え? 誰もいませんよ」
「そこにいるじゃない!」
えっ? え〜っ?
ドアはしっかり閉まっている。私はドアを開けて左右を確認するが、廊下には誰もいない。誰かが開けて覗いていたわけでもなさそうだ。
「今もいます? その人」
振り向きながら尋ねると、
「サッと出ていったわ、今」
真顔で話す石嶺さん。
これはこれは……いやいやいや、ちょっと困った状況だぞ──さて、どうしたものか。
……現実と幻の境目に、足を踏み入れた気がした。




