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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第五章 そこにいるじゃない

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第一話 「そこにいるじゃない」

1月──新しい年が始まり、もう月半ば。


お正月気分が抜けるのが年々早くなる気がする。歳のせいかな?


いや、年末年始も普通に出勤していたから、最初から正月らしさを味わえてなかっただけかもしれない。


ここ、有料老人ホームブルースターはもちろん24時間365日営業中。……営業中って言い方も妙だけど。


ともあれ、今日もいつも通りの1日が始まる。何事もなく無事でありますように──。



「チョコちゃん!」


2階詰所にいちばん近いテーブル席で座っている伸江さんが、いきなり叫んだ。


カウンターで、ファイルに目を通していた私は顔を上げる。


……えっ?


伸江さんは椅子に座ったまま背を丸め、テーブルの下に頭を突っ込んでいる。まるで落とした財布でも探しているみたいだ。


「あらあら! 危ないですよ、何してるんですか?」


慌ててそばへ駆け寄る。


「チョコちゃん! チョコ!」


……チョコちゃん?


伸江さんは手招きをしながら、誰か──いや、“何か”を呼んでいる。


「チョコちゃん! チョコちゃん! こっち、こっち!」


「とりあえず、ちゃんと座りましょうね」


背後から脇に手を入れて、軽く持ち上げるようにして座位を整える。


それでも伸江さんは前方を指差して、“チョコちゃん”を呼び続ける。


「チョコちゃんて?」


と私が聞くと、顔をこちらに向けずに答えた。


「ワンちゃん、うちのワンちゃん」


犬……?


「んー、いませんねぇ」


「ほらほら! そこにいるじゃない!」


やっぱりいない。あたりまえだけど──。


226号室の新庄伸江さん、82歳。私は“伸江さん”と下の名前で呼んでいる。


“ちゃん”付けは不適切ケアとして施設ではNG。私が滝川キクエさんのことを“キクちゃん”と呼んでいるのも、2人きりの時だけだ。


伸江さんとは会話はできるけれど、話がかみ合わないことが多い。特に最近は認知症の進み具合もあって、少し気になる言動が増えてきた。


さらにパーキンソン病もあり、歩行はおぼつかない。車椅子も試したが、ブレーキをかけずに立ち上がろうとするので、かえって危ない。


今は歩行器を使い、歩く時は必ず職員が付き添っている。


詰所カウンターの前に置かれたテーブルは、伸江さんを含め“目を離せない人たち”の定位置になっている。


「あんた、あれ取って」


伸江さん、さっきまでチョコちゃんを呼んでいたかと思えば、今度はカウンター上のカゴを指さす。中にはバイタルセット──体温計や血圧計などの健康チェックに使う道具が入っている。


「これ?」


私がカゴを持ち上げると、伸江さんはうなずいた。


「そう。それ昨日買ったやつでしょ? 一緒に食べようか」


中を見せると、途端に怪訝そうな顔をする。


「あれ? どこいった?」


「何がですか?」


「いなり寿司」


──そうきたか。


伸江さんは時々、“ないもの”が見える。この前も、宙に浮いた“何か”をつかもうとして、手を何度も伸ばしては、開いたり握ったりしていた。


“ないもの”が見えるのは、伸江さんだけではない。向かいに座っている207号室の磯野崇子さんも、そのひとりだ。


84歳の磯野さんは、タオルを手にして、その先端をしきりに擦っている。


「だめねぇ…取れないわねぇ…」


タオルは真っ白で、先端が汚れているわけでも、何かが付着しているわけでもない。


そして、車椅子から急に立ち上がり、向かいに座っている伸江さんの方向に手を伸ばす。


「危ない、危ない、座りましょう」


「いやいや、信号が変わるからダメなのよ」


何が取れないのか、信号がどうしたのか、まったく意味はわからない。でも、こういう発言は今に始まったことではないから、とりあえず今は突っ込まない。


心配なのは転倒だ。2人とも、これまでに何度も転倒している。


穏やかな時はまだいいが、特に磯野さんは、立ち上がりを止めると激昂して手がつけられないことがあるので大変だ。


伸江さんはというと、一言でいうとお茶目。愛嬌があって、“ないもの”が見える時もどこかしら微笑ましい。


そんな伸江さんを見ていると、ホスピスでの母を思い出す。



ホスピスに入ってからの母は、認知機能が少しずつ落ちていった。


それでも基本穏やかで、起き上がろうとすることはあっても、立ち上がることはない。転ぶ心配がなかったぶん、私は少し安心して見守っていられた。


その一方、時々“ないもの”が見えるようになっていった──それは不思議と微笑ましいものばかりだったけど。


最初のうちは、“ティッシュの箱に魚がいる”とか、“そこの鍋、取って”とか、そんな調子。


けれど、次第に“ないもの”たちは、動き出した。


ある午後、母のベッド脇で座って、スマホを眺めていた時のこと。


ふいに母の笑い声がした。顔を上げると、私の後ろを見つめて、目を細めている。


「どうしたの?」


「タヌキがね……」


「タヌキ?」


「タヌキが大根を切ってるの。ほら、あそこ。上手だなぁって思って」


振り返ると、開け放したドアのカーテンが風に揺れているだけ。


──夢でも見ていたのだろう。その時は、そう思った。


けれど、その日を境に、母のまわりには、いろんな動物たちが集まり始めた。


「こらこら、ケンカしちゃだめ。仲良く分けないと」


「どうしたの?」


「サルとウサギさん。ほら、そこにいるじゃないの」


──サルは呼び捨てなのに、ウサギは“さん”付け。


「ケンカしてるの?」


と聞くと、母は笑って頷く。


「うん。でももう大丈夫みたい」


仲良く分けないと、って、何を取り合っていたのかな? よくわからないけど、母の笑顔を見ていると、余計なことは言わない方がいい気がした。


「そう。よかったね」


その後も、キツネやイヌ、カエルまで──餅つきをしていたり、母に郵便物を届けに来たり。


母のまわりは、いつもにぎやかだった。


不思議なことに、幻を語る母を見ても、私はうろたえなかった──むしろ、そんな母を見て安心していた気がする。


それはきっと、母が穏やかで、楽しそうに話していたからだと思う。



「あ、チョコちゃん帰ってきた!」


視線を遠くから足元に移し、嬉しそうに笑う伸江さん。


あの時笑っていた母の姿と静かに重なった。

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