第一話 「帰ります」
有料老人ホームブルースターには、毎日ほぼ決まった時間に“風”が吹く。午後4時を過ぎたころ、施設内の空気がふっと変わるのだ。
その“風”の発信源は、たいてい203号室の高山文子さん。今年で89歳。肌も姿勢も年齢以上にしっかりしていて、足取りも自立。入居から3年が経つ。
高山さんは、基本的にはとても穏やかだ。職員への挨拶も欠かさず、排泄や入浴の誘導にも柔らかに応じてくれる。それだけに、午後のその“変化”は際立って見える。
この日も、例外ではなかった。
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「ゴンちゃん、お疲れさま〜」
1階のスタッフ控室を出た私に声をかけてきたのは、同じフロア担当の橋本さん。
ここ、ブルースターは3階建てで、居室は1階に14室、2階と3階にそれぞれ25室ある。時々ほかの階にも応援に行くけど、私は基本的に2階担当。
橋本さんは50代半ばで、私と同年代。気さくな人だ。手に持っている配茶用のカートには、おやつ後の空の湯のみが並んでいる。
「お疲れさまです。高山さん、さっきからちょっとそわそわされてます?」
「ええ、部屋に戻って服を出してたわ。“これ着て行こかな”“でもこっちのがいいかな”って」
私はため息を飲み込んで、自然な声色で答える。
「ちょっと見てきますね」
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2階に上がり、廊下を歩いて203号室の前に着くと、ドアが開いていた。
中を覗くと、高山さんがベッドの上に洋服を広げていた。黄色いカーディガン、スラックス、夏用のブラウス。隅には紙袋がひとつ。中にはタオルやハンドクリームが詰め込まれている。
「あら。ちょうどよかった」
私に気づいて、手を止める。
「ありがとうございました。そろそろ帰りますね」
その言い方があまりに自然で、私は一瞬、本当に“送り出さなければ”と思ってしまう。毎回そうだ。毎回、心が一歩揺れる。
「帰られるんですか?」
私は笑顔で返す。すぐには否定しない。受け止めてから、ゆっくりと。
「ええ、帰ります。今日は水曜日でしょう? 子どもが塾に行ってるから迎えに行かなくちゃ。ご飯の用意もしなくてはいけないし」
──ちなみに今日は金曜日。
「あら、それは大変。でも、お子さんはもうお一人で帰ってこれるんじゃないですか?」
「そうなんだけど……夕方って、やっぱり心細いじゃない?」
高山さんは柔らかく笑いながら、今度は洗面台の上にある小物をバッグに詰め始める。歯ブラシ、櫛、コップ。
そっと声をかける。
「もう少しここで休んでいきませんか? 夕飯まであと一時間ですし」
「うーん……でもね、母が一人なの。あの人、膝が悪いから。あんまり長く一人で置いておけないのよ」
そう言った瞬間、高山さんの顔が少し曇った。遠くを見るような目つき。手の動きも止まる。
私は、ひと呼吸おいて言った。
「お母さん、優しい方なんでしょうね」
「ええ……あの人は、ほんとに……」
それ以上は何も言わなかった。高山さんはカーディガンをたたみ直しながら、小さくうなずいた。
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廊下を誰かが通る気配がした。
「高山さん! また帰る言うてるの? 帰られへんのに、無理やってば」
大声。
久世ちゃんだった。40代後半、関西出身、大柄な女性。働き者だけど、口が悪い。悪気はないんだけれど、それが通じる相手と、そうでない相手がいる。
高山さんの背中がピンと伸びた。
「……なんで? どうして帰れないの?」
静かな声だった。でも、底にある“焦り”が、はっきりと伝わってきた。
久世ちゃんは悪びれず、笑いながら言った。
「だって、家ないやん。ここが家やろ?」
その言葉で、高山さんの目が見開かれる。
私は反射的に口を開いた。
「久世ちゃん、私、ちょっと高山さんと……」
「うん? あー、ごめんごめん、悪気ないで〜」
そう言って久世ちゃんは去っていった。
私は高山さんの前にしゃがみこみ、優しく声をかけた。
「高山さん、私とちょっとだけお話しませんか?」
高山さんは、小さくうなずいた。その手にはまだ、黄色いカーディガンがしっかりと握られていた。