表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第一章 帰ります
2/13

第一話 「帰ります」

有料老人ホームブルースターには、毎日ほぼ決まった時間に“風”が吹く。午後4時を過ぎたころ、施設内の空気がふっと変わるのだ。


その“風”の発信源は、たいてい203号室の高山文子さん。今年で89歳。肌も姿勢も年齢以上にしっかりしていて、足取りも自立。入居から3年が経つ。


高山さんは、基本的にはとても穏やかだ。職員への挨拶も欠かさず、排泄や入浴の誘導にも柔らかに応じてくれる。それだけに、午後のその“変化”は際立って見える。


この日も、例外ではなかった。



「ゴンちゃん、お疲れさま〜」


1階のスタッフ控室を出た私に声をかけてきたのは、同じフロア担当の橋本さん。


ここ、ブルースターは3階建てで、居室は1階に14室、2階と3階にそれぞれ25室ある。時々ほかの階にも応援に行くけど、私は基本的に2階担当。


橋本さんは50代半ばで、私と同年代。気さくな人だ。手に持っている配茶用のカートには、おやつ後の空の湯のみが並んでいる。


「お疲れさまです。高山さん、さっきからちょっとそわそわされてます?」


「ええ、部屋に戻って服を出してたわ。“これ着て行こかな”“でもこっちのがいいかな”って」


私はため息を飲み込んで、自然な声色で答える。


「ちょっと見てきますね」



2階に上がり、廊下を歩いて203号室の前に着くと、ドアが開いていた。


中を覗くと、高山さんがベッドの上に洋服を広げていた。黄色いカーディガン、スラックス、夏用のブラウス。隅には紙袋がひとつ。中にはタオルやハンドクリームが詰め込まれている。


「あら。ちょうどよかった」


私に気づいて、手を止める。


「ありがとうございました。そろそろ帰りますね」


その言い方があまりに自然で、私は一瞬、本当に“送り出さなければ”と思ってしまう。毎回そうだ。毎回、心が一歩揺れる。


「帰られるんですか?」


私は笑顔で返す。すぐには否定しない。受け止めてから、ゆっくりと。


「ええ、帰ります。今日は水曜日でしょう? 子どもが塾に行ってるから迎えに行かなくちゃ。ご飯の用意もしなくてはいけないし」


──ちなみに今日は金曜日。


「あら、それは大変。でも、お子さんはもうお一人で帰ってこれるんじゃないですか?」


「そうなんだけど……夕方って、やっぱり心細いじゃない?」


高山さんは柔らかく笑いながら、今度は洗面台の上にある小物をバッグに詰め始める。歯ブラシ、櫛、コップ。


そっと声をかける。


「もう少しここで休んでいきませんか? 夕飯まであと一時間ですし」


「うーん……でもね、母が一人なの。あの人、膝が悪いから。あんまり長く一人で置いておけないのよ」


そう言った瞬間、高山さんの顔が少し曇った。遠くを見るような目つき。手の動きも止まる。


私は、ひと呼吸おいて言った。


「お母さん、優しい方なんでしょうね」


「ええ……あの人は、ほんとに……」


それ以上は何も言わなかった。高山さんはカーディガンをたたみ直しながら、小さくうなずいた。



廊下を誰かが通る気配がした。


「高山さん! また帰る言うてるの? 帰られへんのに、無理やってば」


大声。


久世ちゃんだった。40代後半、関西出身、大柄な女性。働き者だけど、口が悪い。悪気はないんだけれど、それが通じる相手と、そうでない相手がいる。


高山さんの背中がピンと伸びた。


「……なんで? どうして帰れないの?」


静かな声だった。でも、底にある“焦り”が、はっきりと伝わってきた。


久世ちゃんは悪びれず、笑いながら言った。


「だって、家ないやん。ここが家やろ?」


その言葉で、高山さんの目が見開かれる。


私は反射的に口を開いた。


「久世ちゃん、私、ちょっと高山さんと……」


「うん? あー、ごめんごめん、悪気ないで〜」


そう言って久世ちゃんは去っていった。


私は高山さんの前にしゃがみこみ、優しく声をかけた。


「高山さん、私とちょっとだけお話しませんか?」


高山さんは、小さくうなずいた。その手にはまだ、黄色いカーディガンがしっかりと握られていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ