第五話 きっかけ
母がホスピスに入って3日目のこと。当時仕事をしていなかった私は、毎日病室に足を運んでいた。
「田島和美さーん、お風呂に行きましょうか」
母の名前を呼ぶ声とともに、ストレッチャーを押して看護師さんが入って来た。
母にとっては入所して初めての入浴。風呂に入ることは理解していたが、ストレッチャーに移された途端、目に不安の色を浮かべて私を見つめる。
思わず私は看護師さんに声をかけた。
「……私も一緒に行っていいですか?」
看護師さんはにっこり笑い、ためらうことなく頷いた。
母が入所したホスピスの看護師さんたちは、入所者が最期の時を穏やかに過ごせるよう、緩和ケア専門の資格を持っている。だからこそ、母の不安にもすぐ気づき、柔らかく寄り添ってくれる。
ブルースターでは家族が浴室に付き添うことなんて基本できないけれど、このホスピスでは看取りのプロの判断で、母を安心させてくれる。
母の口元が、ほんの少しだけほころんだ。
ブルースターの機械浴はストレッチャー浴だけれど、ホスピスではリフト浴だった。
スリングシートというメッシュ生地の布を体の下に敷き込み、そのまま頭から太ももまですっぽり包み込む。それをハンガーにかけて機械で吊り上げ、浴槽へゆっくりと下ろす仕組みだ。
吊り上げられた母は、まるでハンモックに揺られているみたいだった。それでも表情にはまだ不安が残っている。
母の気持ちは伝わっていた。でも、私にはメッシュのシートに包まれて宙に浮いている母の姿が、なんとなく“水揚げされたサザエ”みたいに見えてしまった──実際にそんな場面を見たことはないのに、ふわっと頭に浮かんでしまったのだ。ごめんね、お母さん…。
ごめんね、と思いつつもつい私は、笑いながら声をかけた。
「お母さん、まるでサザエの水揚げだね。お母さんの大好きなサザエの気持ち、わかったんじゃない?」
看護師さんたちも笑って、
「今から下げまーす。お湯に入りますよー。気持ちいいですよー」
と声をかけてくれる。
やっと母の顔に、笑みが浮かんだ。
私の一言がきっかけだったのか、その後は母はリラックスした様子で入浴した。
数日後に看護師さんから聞いた話だと、緊張していたのは最初の日だけだそうだ。その後は入浴を楽しみにしているようで、声をかけると笑顔で応じると聞いて私は安心した。
──そんなことがあったな、と、ふと思い返す。
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浴室の掃除を終えて、フロアに戻ると、久世ちゃんがニヤニヤしながら近づいてきた。
「ゴンちゃん、ずぶ濡れになったって〜?」
情報まわるの早いなぁ。しかも、人の不幸を嬉しそうに言うし。
よし。ちょっと言ってやろうかな。
「やっぱり久世ちゃんが行けばよかったね。そしたら前田さんに優しく拭いてもらえたのに〜」
久世ちゃん、顔を真っ赤にして、
「ちょっ…!やっ…!もっ…!なっ…!」
言葉になってない…かわいいなぁ。
でも、照れたのも束の間、すぐに真顔になって、
「え!?もしかしてゴンちゃん、拭いてもらったん?」
ニヤリと笑って久世ちゃんを見ると、少し固まったみたい。そこで、すかさず、
「拭くわけないでしょうが!」
と言うと、久世ちゃんは安心した顔になった。
ほんと、かわいいなぁ。久世ちゃんは40歳を過ぎてるけど、恋する乙女はいつだってかわいいもんだな。
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フロアではちょうどおやつの時間で、みんなテレビを見たり、お喋りしながらプリンを食べている。
「滝川さん、おやつ食べた?」
そばにいた理沙ちゃんに尋ねると、「まだです」と答えた。
滝川キクエさん——いつも私の話を聞いてくれる、ほぼ寝たきりの利用者さんだ。体力的にフロアに出てくるのは食事の時くらいで、おやつはいつも居室で介助する。
「私、行ってくるね」
そう言って、218号室へ向かった。
ノックをしてドアを開けると、ベッドに横たわるキクちゃんとすぐに目が合った。
何も言わないけれど、「今日は何かあったの?」と言いたげな顔をしている。
キクちゃんは体が拘縮していて、指も自由に動かせないので介助で食べてもらう。ベッドのリモコンで背を起こし、テーブルを寄せて準備を整える。
プリンをキクちゃんの口に運びながら時々そっと手に自分の手を重ねる。そう、ここでは、いつもこうしている。
「キクちゃんはね、お風呂入るの、怖い?」
そう声をかけると、キクちゃんは小さく首を横に振った。
やっぱり──。キクちゃんは機械浴で入るけど怖がらない。ストレッチャーに乗る時も、体を洗っている時も、浴槽に浸かっている時も、むしろ心地よさそうにしている。
キクちゃんのように全然怖がらない人もいれば、林田さんのように暴れるほど怖がる人もいる。
今の私にとって“入浴”は“リラックスの時間”っていうイメージなんだけど、年を重ねると単に“清潔を保つための時間”に変わっていくのかもしれない。
父のように、もともとお風呂に入るのが好きではない人もいるし、結局、人それぞれなんだよな。多分。
「みんなキクちゃんみたいに気持ちよくスッと入ってくれたらいいんだけどな」
ぽつりというと、重ねていたキクちゃんの手にかすかに力が入った気がした。目を上げると、ほんの一瞬、表情を曇らせたあと、ゆっくりと微笑んだ。
その微笑みを見て、私はもう一度思い出した。リフト浴で吊り下げられ、不安そうな顔をしていた母が、私の一言でほっとした表情に変わったあの時のことを。
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母の表情を和ませたのは、ほんの一言だった。そう、ちょっとした“きっかけ”だ。
この施設でも、たった一言やちょっとしたやりとりが、利用者さんの心を開くことがある。
1か月ものあいだ風呂に入らなかった野田さんは、「仲良くなった人も入るから」の一言で、次第に入ってくれるようになった。
「体重を測りましょう」と声をかけると入ってくれた中西さんの場合は、少しニュアンスが違うかもしれない。それでも、無理にではなく自然に入ってくれたのは確かだ。
意思疎通が難しい長谷さんや林田さんのような重度の認知症の人たちには、言葉での糸口を見つけるのはなかなか難しい。
でも、言葉をほとんど話さないキクちゃんの気持ちも、今では少しずつわかるようになってきている。寄り添っているうちに、何を伝えたいのか、何に安心するのか、だんだん見えてくる。
一人ひとりに向き合いながら、それぞれに合った“きっかけ”を見つけていく──それが大事なんだ。
「きっかけを見つけることが大事なんだね」
私がそうつぶやくと、キクちゃんはゆっくりと瞬きをして、まるで「そうね」と頷いてくれたように見えた。
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フロアに戻ると、おやつを終えた中西さんがテレビの前の席でうとうとと居眠りをしていた。
今日はなんとか入ってくれたけど、次はどうだろう──また「入りません」と拒むんだろうな。きっと。
それでもいい。寄り添って、ちょっとずつ“きっかけ”を見つけていこう。
今日の小さな気づきが、誰かの安心につながっていく──そう感じながら、キクちゃんの手をそっと離すと、彼女はゆっくりと微笑んだ。
その微笑みを胸に、私は部屋を後にし、明るい気持ちを抱えてフロアへ向かった。
第三章 完




