第四話 決戦と余韻
機械浴は大きく分けて三種類ある── チェアー浴、リフト浴、そしてストレッチャー浴。
この施設で使っているのはストレッチャータイプだ。ストレッチャーにクッション性のあるシートが取り付けられていて、利用者さんは横になったまま浴槽に滑り込むことができる。
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浴室に入ると、車椅子に座った林田さんと前田さんが待っていた。林田さんは、なんとなく雰囲気を察してか、すでに機嫌が悪そうにブツブツ言っている。
「さあ、林田さん、お願いしますね」
車椅子に座ったまま、上半身を脱がせるところから始める。
しかし林田さんは容赦ない。両手を振り回し、体をねじらせて、脱衣も一筋縄ではいかない。
「林田さん、大丈夫ですよー」
前田さんと私は両脇を抱えて体勢を安定させる。
「いやだ!やだー!」
腕を大きく振り上げ、私の肩に顔を近づけて噛みつこうとする。前田さんが素早く林田さんの体を支えた。
「おっと、ダメですよ、噛んじゃ」
──林田安彦さんは92歳。もともとは静かで寡黙な人だった。それが、昨年転倒して大腿骨──太ももの骨を骨折してからは、立つことも歩くこともできなくなってしまった。それに伴ってか、認知症も重度化し、不穏な様子が増えている。
なんとか上半身を脱がせると、次はストレッチャーへの移動だ。
「はい、横になろうか。ゆっくりね」
「やーだー、いやー!」
シートに乗せた途端、林田さんは必死にもがいて体を起こそうとする。落ちないように、前田さんと私は両脇をしっかり支え、背中や腰に手を添える。
ストレッチャー上で下衣を脱がせると、次は体を洗う。
「うわっ、待って待って!」
叫びながら、泡をつける手を払いのけようとしたり、身をよじって起き上がろうとしたり……林田さんを押さえながら、声をかけ続ける。
「大丈夫、大丈夫だからね、ゆっくりするからねー」
シャワーで泡を流し、洗髪と洗身がようやく完了。
ストレッチャーを浴槽に横付けし、シートを滑らせて入浴させると、私は一瞬ほっとした。
しかし林田さんは「熱い!熱い!」と叫びながら、まだ暴れている。
「わかった、わかった、ぬるめにするね」
と私が低めの温度でシャワーをかけようとすると、林田さんの視線がこちらに向き、私の手からシャワーを奪い取り──
「あーりゃまーーー!!!」
思わず声が出た。私に浴びせ返してきたのだ。
ずぶ濡れの私を見て前田さんは心配してる──いや、完全に笑ってる。気づけば私まで大笑い。
浴室の中には、笑いと叫び声が響いていた。
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浴槽から出てストレッチャーに戻った林田さん。まだ少し体を動かして抵抗するものの、さすがに疲れたのか勢いは弱まっている。
手早く体を拭き、服を着せる。車椅子への移乗の時に一瞬叫び声を上げたが、それもすぐに収まった。脱衣所でドライヤーを当てながら髪を乾かしている間も、時々「あー、あー…」と声を出す程度だった。
あれだけ大騒ぎしたあとでおとなしくなったから、ぐったりしているように見えたけれど、
「さ、林田さん、おいしいジュースを飲みに行きましょう」
と声をかけると、手を叩いて笑顔を見せた。
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林田さんを3階に送ったあと、前田さんと私は浴室に戻り、掃除を始めた。今日の機械浴は林田さんで終わりだ。
「権田さん、着替えなくて大丈夫?」
「うん、このあとすぐ着替える。もうだいぶ乾いてきたけど」
掃除をしながら前田さんが聞く。
「下着の予備、持ってます?」
「前に個浴で浴槽洗ってる時に、シャワーと蛇口の切り替え間違えて頭からお湯かぶったことがあってね。それ以来、持ってきてる」
「ははは。その時は濡れたままだったの?」
「ううん。施設の予備のリハパンを借りて履いた」
「へー」
リハパン──リハビリパンツ。パンツタイプの介護用オムツだ。
「その時に思ったの。なんかゴワゴワしてて、履き心地悪くて。みんなこんなの履いてるんだなーって」
前田さんは少し黙り、静かに口を開いた。
「俺ね、林田さんの気持ち、少しわかる気がするんですよ」
林田さん?急に名前が出て、ん?て思った。
「権田さん、あれ、乗ったことあります?」
ストレッチャーを指しながら聞く前田さん。
「え?ないけど」
「俺ね、乗ってみたことあるけど、結構怖いんですよ。特に高さが上がると、横の手すりがあっても少し不安で。横になってるとどのくらい高いかわかりづらいし」
そうか。頭ではわかっていても、実際に自分が体験すると感覚は全然違うんだろう。私がリハパンを初めて履いた時みたいに。林田さんだけでなく、ストレッチャーに乗る時は、他の人も差はあるけど不安な表情をするよな…。
「それにね、認知症の人からすると、“これからお風呂に入る”ってことが理解できていない時に、寄ってたかって服を脱がされたら“何をされるんだ”って、不安に思うと思うんですよね」
なるほど、ただの“嫌がり”ではなく、恐怖も混じっていたんだ。個浴で暴れた長谷さんもきっとそうなんだろう。
「まあ、こんなこと俺が偉そうに言うのも何なんですけどね」
少しはにかんで、前田さんはそう言うと黙々とモップで床を磨き始めた。
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掃除を続けながら前田さんの言葉を思い返していると、母の姿が思い浮かんだ。
母もホスピスにいた時に機械浴を使っていたな──あの時も、不安そうに目を大きく見開き、手すりにしがみついていた。
体は動かさなかったけど、心は必死に抵抗しているようだった。そんな母の表情を鮮明に思い出す。




