第三話 戦闘前
1年前に入居した82歳の野田芳子さん。認知症が進行し、同居していた家族の手に負えなくなり、やむなく施設に入ることになった。
入居当初、本人は状況が理解できず、毎日家に帰ろうとエレベーターに乗り込もうとしていた。
入浴の誘いにも「入りません!家で入ります!」と頑として応じず、清拭も拒否。
下着はすっかり汚れ、匂いも強く、周囲が思わず顔をしかめたほどだ。
頑固さは一向に衰えず、最初の1か月はまったく入浴できなかった。その後も半ば無理やりで、ようやく週に一度入るのがやっとだった。
それでも、環境に少しずつ慣れていき、3か月経つ頃には仲の良い人もできて、「〇〇さんも入るから入りましょう」と声をかけると、徐々に浴室へ向かうようになったのだ。
あの頃の頑固さが嘘のように、今はさっぱりとした顔でフロアを歩いている。そんな野田さんを見ると、つい笑みがこぼれてしまう──いや、あの時の大変さを思い出せば、苦笑い、かな。
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もちろん、入浴を嫌がる人ばかりではない。むしろ、大半の人は抵抗なく入り、楽しみにしている人だって多い。
「お風呂、まだかしら?」
208号室の小泉キミさん。86歳、自立で入浴できる人で、そのひとりだ。
「小泉さん、先ほど入られましたよ」
そう、今朝一番で入って、部屋でひと休みしていた。
「なに言ってるの?そんなことないでしょう!もう1週間も入ってないのに!」
高い声で反論される。こうなると、何を言っても耳に届かない。
「えっと、小泉さんは、次は金曜日ですね」
「今日、何曜日?火曜日?それじゃまだ先じゃない!もう2週間も入ってないのに!」
期間が延びた…。
「すみません。金曜日は必ずご案内しますので」
低姿勢、低姿勢。
「仕方ないわね…。忘れないでよ!」
こっちのセリフだ、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
森田さんが私の横に来て、苦笑しながら小さくつぶやいた。
「拒否されるよりはいいけど、さすがにしんどいよね」
私もうなずき返す。ほんと、同感だ──しかも、これが毎日なのだから。
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もうすぐ昼食が運ばれてくる。今日の個浴は、自立の利用者さんがひとり残っているだけだから、午前中はここらで切り上げよう──と、その時、内線が鳴った。
「あ、ゴンちゃん?内藤だけど」
1階の男性スタッフ、内藤さんだ。
「午後から山元さん、お風呂いいかな?」
「あ、そうか。こっちは目処ついてるからいいよ」
「じゃあよろしく。何時でもいいよ」
山元文子さんは介助が必要な1階の利用者さん。入浴は女性スタッフ希望だ。
1階は部屋数が他の階の約半分の14室と少なく、それに伴い対応するスタッフの数も少ない。今日1階はあいにく男性スタッフ2人しかいないので、こういう場合は他の階の女性スタッフが引き受ける。
入浴介助はつい業務として淡々とこなしがちだけど、される側にとっては、年をとっても異性に裸を見られるのはやっぱり嫌なものだと思う。
中には仕方ないって諦めてる人もいるだろう。そう思うと、やっぱりそこは配慮してあげたい。私たちもわかってあげなきゃね。
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昼食が終わり、1階の山元文子さんを含めて本日の入浴は終了。おやつまで時間あるし、フロアで体操レクでもしようかな──と思っていたら、3階の前田さんから内線が入った。
「権田さん、ごめん、至急誰か機械浴手伝ってくれないかな?」
3階スタッフの1人が体調不良で早退したらしい。
んー、理沙ちゃんは個浴で頑張って疲れてるだろうし、森田さんは家族さんの応対中。…よし、私が行こう。遅出の久世ちゃんが休憩入るまでなら、フロアも人手は足りてる。
「助かる。じゃあ用意してるね。ちなみに林田さんを入れるから」
あちゃ!林田さんか……まあ、仕方ない、行くか。
久世ちゃんに声をかける。
「久世ちゃん、前田さんと機械浴行ってくるから、フロアお願いしていい?」
「えーーーっ!私行くわー!」
久世ちゃんは大の前田さんファン。…まあ、久世ちゃん独身だし、もしかして狙ってる?狙ってるよね?
久世ちゃんは普段、大声でズバズバ物を言うタイプだけど、前田さんの前では女性らしく、ちょっと乙女パワー全開のような喋り方になるから面白い。
「でも、入れるの林田さんだよ」
すると、即座に返ってきた。
「はい、ゴンちゃんいってらっしゃい」
……ああ、やっぱりね。思わず笑っちゃった。
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林田さんは3階の利用者さんで男性。とにかく暴れる。
暴れ加減は午前中に入った長谷さん以上。噛む、叩く、叫ぶ、蹴る──私も以前、傷を負ったことがあるほどだ。スタッフの間では“手に負えない人”として知られている。
今回は男性の前田さんと一緒だから、少しは安心だけど、気合いを入れてしっかりサポートしなくちゃ──そんな気持ちで1階の機械浴室に向かった。




