第一話 「入りません」
朝9時。事務所で朝の申し送りが始まった。
夜勤明けのスタッフが夜間の様子を報告し、続いて看護師からの注意事項。三上ナースが口を開く。
「今日は看護師は私ひとりしかいないので、くれぐれも事故のないように!」
……おいおい、それは看護師の人数関係ないでしょうが。
目を合わせたわけでもないのに、周りの顔に同じツッコミが浮かんでいるのがわかる。
この施設では看護師は3人いるが、シフトで1人体制になることもある。自分中心でこんな発言をするなんて──さすが女帝。
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申し送りが終わり、2階のフロアへ向かうと、廊下の奥から鋭い声が響いた。
「入りません!」
声の主は220号室の中西ヨシエさん。本田さんと同じように、時々食事をしたことを忘れ、「まだ食べていない」と憤慨することがある。
そうか、入浴の日か。
「私は今朝入りました!どうしてまた入らないといけないの!?」
「んー、まだ入ってないですよー」
「もう入りました!だから、もう入りません!」
応対しているのは2階のフロアリーダー、森田さん。40代前半の落ち着いた女性。この道20年のベテランだが、苦戦している。
「わかりました、じゃあまた今度ね」
と、引き下がる。
「一度ああなると無理だから、あとでまた挑戦するわ。とりあえず、自立の人から先に入ってもらおう」
肩をすくめて、中西さんの部屋をあとにした。
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ここ2階には、個浴と呼ばれる一般浴室が2つある。家庭の風呂より洗い場が広く、自分で入れる人は見守り程度、介助が必要な人はスタッフが洗髪や洗身を手伝う。立位がまったく取れず全介助が必要な人は、1階の機械浴を利用する。
今日は森田さんと新人の清水理沙ちゃんが担当だ。理沙ちゃんは22歳。ちょっとおっちょこちょいだが、一生懸命さでカバーしている。
しばらくして、ピンポーン、と浴室からナースコール。慌てて向かうと、中から荒々しい怒鳴り声が飛び出してきた。
「やめろって言ってるだろうが!やめんか!こら、殴るぞ!」
声の主は221号室の長谷勝さん。85歳。車椅子を利用している。脳梗塞の既往はあるが麻痺はなく、認知症が進んでいて指示はほとんど届かない。立位はなんとか保てるものの、とにかく入浴拒否が強い。
まだ服は着たまま。脱衣所ではなく浴室の中で車椅子に座り、大暴れ。森田さんと理沙ちゃんが必死に押さえている。
「ごめん、ゴンちゃん、こっち押さえてるから服脱がして!」
必死の声に応じて上衣を引き抜こうとするが、長谷さんは首を激しく振って抵抗する。
「長谷さーん、ちょっと我慢してくださいねー。お風呂入りますからねー」
なんとか上衣を脱がすと、次は下衣。森田さんが長谷さんをしっかり抱きかかえ、軽く腰を浮かせる。その間に理沙ちゃんがズボンとリハビリパンツを一気に下げる。私は車椅子を後ろに引き、用意していたシャワーチェアをすばやく差し込む。
「はい、座ってくださいねー!」
どうにか移乗成功。だが長谷さんはなおも足をばたつかせ、森田さんのお腹に思いきり蹴りを入れた。
「痛っ!」
それでも誰ひとり手を止めない。理沙ちゃんがタオルを握り、私はシャワーをあてる。怒号と湯気の中、必死で洗髪と洗身を終えた。
シャワーチェアを浴槽の脇に横付けする。
「せーのっ!」
三人で息を合わせ、長谷さんの腕と足、体をしっかり支えてゆっくりと湯の中へ沈めた。
「……」
さっきまでの荒れようが嘘のように静かになる。長谷さんは両手で湯をすくって顔にあて、目を閉じて上を向いた。
「あ〜……」
気持ちよさそうな長谷さんの吐息に、私たちの肩からも力が抜けていった。
——脱衣や洗身の場面だけを切り取れば、確かに強引に見えるかもしれない。虐待だと誤解されても仕方ないほどに。けれど、私たちは好き好んでそうしているわけではない。入浴を拒まれ続ければ、清潔も保てず、皮膚の異変に気づく機会も失われてしまう。
利用者さんの思いと、施設の役割。そのはざまで、いつも私たちは揺れている。
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長谷さんが森田さんと理沙ちゃんと一緒に、浴室からフロアに戻ってきた。
「はい、長谷さん、こちらでちょっと休んでくださいねー」
森田さんの声が優しく響く。理沙ちゃんもにこにこしながらサポートする。
「お風呂どうでしたー?」と私が聞くと、
「気持ちよかったー!気持ちよかったー!」と繰り返す。
長谷さんは両手に風呂上がりのスポーツドリンクを握りしめ、満面に笑顔をたたえている。
ああ、もういつものパターンだ。私は思わず苦笑い。やれやれ、今日もなんとか入ってもらえたな、と少し胸をなで下ろす。
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ここにいる利用者さんのほとんどが、元気な頃は、入浴も生活のごく自然な一部だったと思う。
朝起きて、ご飯を食べ、寝る──その間のひとつとして、自分のペースで入っていたのだろう。でも、体調や年齢のせいで面倒に感じたり、体が思うように動かなくなったりして、自由に入ることが難しくなることもある。
そんなことを考えていると、自然と母のことが思い浮かんだ。




