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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第二章 飯はまだか

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第四話 父の一言

「父も頑固だったな……」

心の中でそうつぶやく。


居室でしばらく一緒に過ごした娘さんは、本田さんの落ち着いた様子を確かめると、安心したように笑みを浮かべて帰っていった──その様子を見て、私はほっとした。


時計に目をやると午後4時。夕食の準備が始まる前に、忘れないうちにヒヤリハットを入力しておこう。


ヒヤリとして、ハッとしたこと──事故にはならなかったけれど、なりかけた場面を記録に残しておけば、きっとあとで役立つ。誰かが同じ状況に出くわした時、事故を防ぐ手がかりになるかもしれない。



私は1階の事務所へ行き、椅子に腰を下ろすと、キーボードに手をかける。


「あ、ゴンちゃん、それ、さっきの?」


後ろから声がして振り返ると、山野さんが立っていた。


「うん。ちょっと今のうちに入力しておこうと思って」


「えらいなあ。僕なんか3日は寝かすタイプだよ」


「そんなに寝かしたら、発酵しちゃうよ」


返しておいて、自分でも笑ってしまった。けれど頭の片隅では、まだ父のことを考えていた。



父は厳しい人だった。


子供の頃は特に、母に対しても私に対しても、常に上から見下ろすような目をしていた気がして怖かったな。


父は幼い頃に病気で父親を亡くし、祖母が女手一つで父と妹、つまり私の叔母の二人を育てた。


戦後間もない時代で、祖母の苦労は並大抵ではなかっただろう。大変だったと思う。


当時は、男は外で働き、女は家を守るのが当たり前の時代だった。でも、祖母はやむをえず外で働き、父自身も子どもの頃から近所の店の手伝いや新聞配達で家計を助けていた、と聞いている。


そんな経験から、父の中には、“本来なら女は家を守るべき”という考えが自然に根付いていったのだと思う。


自分の母が外で働かざるをえなかったこともあって、父は、人と少し違った環境で育った、という意識を持っていたようだった。


そのため、父は“男は外で働き、女は家のことだけをすればよい”という、価値観を持っていた。



そんな環境で育った私は、子どもの頃、父に対して言葉を選ばずに話すことはほとんどなかった。口を強く開けばすぐに叱られるのを知っていたから。当然、タメ口でなんて話せるはずがない。


「おい、美加、ここ掃除したのか?」


「……はい」


「なら、この埃は何だ。雑だな。やり直しなさい」


──小学生の頃の記憶が、唐突に鮮明に蘇る。


私は黙って雑巾を握りしめていた。反論すれば火に油を注ぐと分かっていたから。



「……怖かったなあ」


思わず声に出してしまう。


「え? 僕のこと?」


山野さんが聞き返してきて、慌てて首を振った。


「あ、ごめん。ちょっと昔のことを思い出しただけなの」


「あ、そう」


さらりと受け流してくれたのを見て、私は小さく息を吐いた。


画面に向き直る。カタカタとキーを叩きながら、また別の場面を思い出す。



夕食時、父は必ず先に座って新聞を広げていた。母が台所で慌ただしく動いていても、新聞から目を離さない。


「はい、どうぞ」と、母が声をかけても、返事はなく、新聞をめくる音だけが響く。やっと箸を取ったかと思えば、少しでも味が薄ければ眉をひそめる。


「こんな味噌汁、誰が飲むんだ」


その一言に、食卓の空気が凍りついた。


私はその場にいるだけで肩をすくめ、背中を丸め、声を潜め、気配を消すように座っていた。



年恰好が似ているせいか、本田さんと父の姿が時々重なる。ただ違うのは、本田さんが「飯はまだか」と尋ねる、その調子だ。


父も時々、同じ言葉を口にした。新聞に目を落としたまま発したその言葉には苛立ちが混じり、そばにいた私はそっと息をひそめるしかなかった。


今日の本田さんも少し声を荒げてそう言った。けれど普段は、しっかりこちらを見ながら、確認するように素直に「飯はまだか」と言う。


同じ一言でも、漂う空気はまるで違う。



そんなことを考えていたら、ふいに後ろから鋭い声が飛んできた。


「本田さん暴れたって?そうなる前になんとかならなかったの?これはヒヤリハットを書くべき問題よ!」


振り向くと、三上ナースが威勢よく立っていた。ギャイギャイうるさいモード全開だ。


心の中で、私は思わず舌打ちをした──だから、今入力してるってば!


女帝三上の声が頭に残るまま、ふと顔を上げると、同じフロア担当の広瀬さんが顔を覗かせていた。信頼できる先輩スタッフだ。女帝の緊張感の余韻が残る中、私は深呼吸して、ほっと一息ついた。


「ゴンちゃん、そろそろ夕食の準備、入ってくれる?」


「あ、ごめんなさい!すぐ行きます!」


入力を保存してパソコンをバタンと閉じる。その瞬間、父の声が脳裏に響いた。


──「もっと丁寧にやれ。雑だとすぐにバレるぞ」


慌てて立ち上がった拍子に手元が乱れ、机の端に置いていた小物入れがひっくり返って、ペンや付箋が散らばった。


「……あ、雑だった」


思わず小さくつぶやき、無意識に背筋を伸ばす。


父の目は、ここにはないのに。

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