『手乗り図書館』
「……っていうのは、どう?」
ベッドの中の少女が言った。薄ピンクの木綿のパジャマ、寝乱れてほつれた色のあせた金髪をかすかに揺らしてウィンクする。少女の体には大きすぎる、木製のベッドのかたわらで、幼い少年は小首をかしげて訊き返す。
「『手乗り図書館』? なんだ、それ?」
「だからね、あなたお得意の、機械仕掛けのおもちゃなのよ。見た目は、そう……ハツカネズミね。宝石のオパールみたいな虹色の目をした、白くてかわいいハツカネズミ……」
「オパールみたいな……?」
「そう、虹色の目をしてるの。内側からのライトに照らされて、その虹色が水面みたいにうるうるきらめくハツカネズミ」
少女は病に潤んだ青い目を閉じて、夢見るようにうっとり続ける。
「……その子はお話の記録装置で、読んだお話をかたっぱしから人工頭脳に記憶するの。そしたら図書館に行かなくっても、白いハツカネズミちゃんがしゃべってくれるお話をいっぱい、ベッドの中で楽しめるわ!」
少女はふっとまた目を開けて、病的に潤んだ瞳でウィンクする。少年は燃え立つような赤毛を揺らし、「ふぅん」と軽くうなずいた。
「造れんことないな、十日もあれば……でもガブリエラ、図書館の本を読ませるってのが問題だ」
「……あら、どうして?」
「考えてもみろよ、俺らの地元の図書館、田舎にしちゃあけっこうでかいぜ? その本を全部読ませるっちゃあ、だいぶ時間がかかるはずだ。ていうかそもそも、著作権って問題が……」
「あら、神話や民話や昔話、『むかーしからの物語』は、著作権なんてとっくに切れているはずよ?」
「……ん?」
首をかしげる少年に、ガブリエラと呼ばれた少女は小花のようにはにかんだ。
「そもそもね、このわたしが科学や哲学、倫理の本に食いつくと思う? わたしがほしいのは神話や民話や昔話……物語のほうなのよ。そうしてそういう昔の話は、言ったとおり著作権は切れてるでしょう? だから問題なしってわけ」
「――ははあ、そうか! それじゃあ分かった、ガブリエラ、おまえの八歳の誕生日には、その『手乗り図書館』をプレゼントしてやるよ」
少女のこけたほおに蜜のような笑みが浮かぶ。ありがとう、と心底から言いかけて、ガブリエラがせき込み出した。かほかほと乾いていて、それでいながら激しく苦しげなせきだった。少年はあわてて、震える薄い背中をさする。
「あんまりはしゃいだせいだよ、ばかだな……いくら体の調子が良くても、いつになくしゃべり過ぎたんだ。もう横になれ。俺は約束は守る男だ、機械のネズミを楽しみにしてろ」
せきのおさまった少女は、おとなしく言うことを聞いて横になり、黙って青い目で微笑ってみせる。
「……でも『手乗り図書館』ってのは大げさだなあ。記憶にあるのは物語だけ……せいぜい『お話ネズミ』だな!」
少年がちょっとおどけてそうつぶやく。少女はもう目を閉じかけて、長く柔らかいまつ毛の奥から、青い瞳で微笑みかけた。
「……期待してるわ、わたしのハカセ」
「おいおい! ハカセはよせよ、ロビンて呼べ」
少女は目を閉じ、その口もとはほころんで……だが返事はない。いつになくはしゃいでしゃべって疲れたのか、まるきり気を失うようにふっつり寝入ってしまったらしい。
「……おやすみ、ガブリエラ……」
ロビンは少女を起こさぬようにつぶやいて、またぽつっと口を開いた。
「……ガブリエラ・メープルウォールナッツ……」
少女の名と、自分の好きなお菓子の名をごっちゃにしてつぶやいて、ロビンは部屋を出ていった。機械仕掛けのハツカネズミを、その幼い手で造るために。
* * *
ロビンは、クルミが好きだった。メープルシロップも好きだった。自分で作れるほど簡単な、メープルシロップの衣をまぶしたクルミのお菓子も好きだから、時おり幼なじみの少女を『メープルウォールナッツ』と呼んだ。
ロビンにとって、ガブリエラは特別だった。生まれつき『気味の悪いほど頭の良い』自分のことを、何の迷いもなく「友だちよ」と言ってくれるのは、ガブリエラひとりだけだった。
ロビンは家族からも距離を置かれた。年の近い兄弟たちは、年若い両親と子供向けアニメの話や、昼間に野っぱらで転げまわって遊んだことや、木の間にちらちらと見え隠れする小リスを追いかけまくった話をする。
ロビンに出来る話は、大人でもとちゅうでさじを投げる哲学書を読んだことや、今日も新しく小型のロボットを作ったことやその構造、気恥ずかしくてガブリエラのことはひと言だって話せない。
だから、会話が成り立たない。きっと家族の方だって、「ロビンは自分たちと話したって楽しくない」と考えている。そうしてロビンがひと言口をききかけると、家族は肩を軽くはね上げ、『今度はどんな小難しい話をするのか』とひきつった笑顔に書いてある。
だから、ロビンはしゃべらなくなった。いつだって同じ目に遭うものだから、友だちにもまったく話しかけなくなった。頭の良すぎるロビンにとって、本当に心を許せる存在は、病弱なガブリエラだけだった。
だからロビンははりきって、ガブリエラのために機械のハツカネズミを造った。宝石のオパールのようなくりくり丸い虹色の目の、お話をするためのハツカネズミを。ロビンはそれからネズミを連れて、地元の図書館に通いつめた。
「動物は入館お断り!」
そう言って追い返そうとした館員たちも、ネズミの体内でチクチクカチカチかすかに響く機械音を聴かせたら、あやまってロビンを通してくれた。ネズミは虹色の丸い目をきらめかせ、図書館の『お話コーナー』をちょろちょろ小刻みに走りまわった。
……七色のステンドグラス越しの虹色の陽ざしを背に受けつつ、ひと月でネズミは『物語』を全て記録し、めでたく少女の誕生日に間に合って、『手乗り図書館』はプレゼントされた。
少女はとても喜んだ。喜びのあまりに白いほおを赤く色づけ、興奮のあまりせき込みだして、その背中をさすりながらロビンが「悪いものをプレゼントしてしまったか」と心配になるほどだった。
しばらくしてやっと落ちついたガブリエラは、潤みにうるんだ青い瞳をきらめかせ、ベッドの中でこう訊いた。
「ねえ……この子、名前は?」
「……名前? 名前か、考えてなかったな……ミヒャエル……ミヒャエルってのはどうだ?」
「ミヒャエル? わたしの好きな、児童文学作家の名ね……いいわね! これからよろしく、可愛いミヒャエル!」
白いネズミはオパールの目を光らして、チュウと一回小さく鳴いた。それは綺麗な電子音を組み合わせて作った声で、何だか少しガブリエラの声に似ていた。
そのあとロビンはネズミを連れて、自分の家に帰りついた。プレゼントはしたものの、ずっとガブリエラと一緒では『記録の更新』がおぼつかないから。ちょくちょくネズミを図書館に連れていき、新しく入った本の物語の情報を、上書きせねばならないのだ。
ロビンは自分の部屋にネズミと一緒にひっこむと、ネズミにぽつんとつぶやきかけた。
「なあ、ガブリエラ」
『ガブリエラ? ……それはハカセ、あなたの幼なじみのお嬢さんの名前では?』
美しい機械の声で問いかけられて、ロビンは少しほおを染めて、ネズミと目を合わさずにつぶやいた。
「いいんだ。おまえはミヒャエルだけど、本当の名はガブリエラ……ガブリエラ・メープルウォールナッツだ」
『メープルウォールナッツ……ハカセの好きなお菓子の名ですね、組み込まれたデータの中に入っています。了解しました、自分の名は「ガブリエラ・メープルウォールナッツ」ですね』
「そうだ。……ああ、それから……このことは、本当のガブリエラには絶対言うなよ?」
ネズミは虹色の目をぱちくりさせ、もう一度『了解しました』と答えてみせた。くるんと丸い口もとが、含み笑っているようだった。
* * *
それからは……それからは、代わり映えのない毎日だった。ロビンは孤独で、ガブリエラだけが心許せる存在で、ネズミはそんなふたりの風変わりな仲間みたいなものだった。
同い年のふたりは、もうじき十七歳になる。いつものように「誕生日プレゼントは何が良い?」と訊いたロビンに、ガブリエラは黙って微笑った。何も言わずに首をふって、それからぽつりとつぶやいた。
「もういいの」
「……もういい、って?」
「もう充分よ、もうたくさんもらったわ。ねえ、わたし、ずっと考えていたの。こんなに頭の良いあなたを、こんなわたしのベッドのそばにずっといさせて良いのかしらって」
声もなく自分を見つめるロビンに、ガブリエラは泣き出しそうな笑顔を向ける。
「ねえロビン、もういいの、本当にもう充分よ……あなた、こんな病弱なわたしじゃなくて、もっと広い世界を見てよ。もっと、いろんなところに行って、もっといろんなものを見て……」
ガブリエラの微笑む青い瞳から、透けるしずくがひとすじ落ちる。ロビンの手のひらに乗ったネズミが、うろたえたようにしずくのつけたシーツのしみを見つめている。
ロビンはネズミを手に乗せて、長いあいだ黙っていた。ガブリエラが「どうしたのかしら」と不思議になるほど黙り込んでから、きゅっとくちびるを一回噛んで、はじけるように顔を上げた。
「――分かった! 俺な、旅に出る! 旅に出て、いろんな物語を集めちゃあ、おまえに送り続けるよ!」
ガブリエラは少しのあいだあっけにとられて、それから何度も首をふった。
「違う、ちがうの、そうじゃない……あなた、もっと別のことをして、別のひとを見て……」
わたしなんかに、とらわれないで。
必死の思いで説得を続けるガブリエラに、ロビンはもうどうしても「うん」とは言わなかった。そしてあくる朝にはもう、機械仕掛けのネズミを連れて、よその国へと旅に出た。
ロビンは、ネズミと一緒に各国の図書館を訪れては、端からはしまで読みあさった。ロビンはたいていの言語なら解したし、ネズミは主人に輪をかけて『言語オタク』だった。ネズミは読んだ物語を、全て小さな電子頭脳に収めていった。
ロビンはそのあいまに『路銀』を稼ぐため、各国のロボット研究所を渡り歩き、短い期間で目も覚めるような素晴らしいロボットを製作しては、またネズミを連れて次の国へと旅立った。あまりの優秀さにどの国でも「どうかウチの専属に」と土下座せんばかりに頼まれたが、ロビンは決してうなずかなかった。いつだってネズミをおともに、夜逃げ同然に国を出た。
そうして夜になれば、ロビンたちは宿に落ちつき、スクリーン越しに遠い故郷のガブリエラとやりとりした。ネズミはそのオパールのような瞳から光を放ち、宿の壁の、絵も何も飾られていないところへガブリエラの姿を映した。回線を通して、ロビンはネズミと共に集めた物語の話を聞かせた。ガブリエラはベッドの中で、くすくす笑い、時に感動に涙していろいろな物語を聞いていた。
* * *
……そうして、五年が経とうとしていた。
もうじきガブリエラの、二十二歳の誕生日が来る。
本当は、よく分かっていた。旅を続ければ続けるほど、ネズミと一緒に物語を集めれば集めるほど、スクリーン越しのガブリエラの肌は透けるほど青白く、細い指はますます細く、その美しい青い瞳に霞がかかってゆくことを。
気づいていて、まるで気づかないふりをした。物語を集めていればその分だけ、ガブリエラは長く生きると、生き続けると信じていた。
大丈夫。物語はとほうもない数、まだ各国で待っている。人がいなくならない限りは、また新しく生まれてきて、それらもいつか『古典』になって、著作権も切れてしまって、そいつらを俺とネズミが探し当てては、ガブリエラに話すんだ。
だから、大丈夫。
物語はなくならない。物語は決して死なない。――物語は。
* * *
物語は、死なないんだ。
思わず心に念じたくらい、半月ぶりにスクリーンに映ったガブリエラは、まるで別人のようだった。どれだけ病状が悪化したのか、幽霊のように痩せこけていた。ガブリエラの寝ているベッドは、薬のにおいがスクリーン越しにも立ちのぼるような、白い病院のベッドだった。
ガブリエラの体じゅうに、小ヘビのようにチューブが絡みついていた。透明なチューブからいろいろな色の薬液が透けて見え、小さなちいさな乙女の体に、点滴針を通して少しずつ流し込まれていた。明らかにうろたえるこちらの様子にも気づけぬくらい、しゃべるのもやっとのようだった。
『映写は五分で終わりになさってくださいね』
神経質そうな中年の男性の声が、スクリーン越しにかたく響いた。
「……今のは?」
「……お医者さんよ。今別室で、わたしをモニターしてくれてるの……」
大げさよねえ……かすれきった青い目だけでそう苦笑する幼なじみに、ロビンは何も言えなかった。たった五分では何も話せず、何も訊けず、ネズミのお話もとちゅうでぷつんと切りあげられて、映写を断たれたスクリーンは真っ白になった。
ロビンは黙りこくったまま、焦る手ですぐに荷造りを始めた。
「……ハカセ、何をしていらっしゃいます?」
「見て分からないか、荷造りだ。故郷に帰るぞ、ガブリエラ。帰って俺の幼なじみを見舞うんだ」
その時、ネズミの機体の中から小さな着信音がした。ネズミはしばし黙り込み、静かな声音でハカセを止めた。
「……ハカセ、残念ながら、望む帰郷はかないません。いえ、帰ったほうが良い。良いですが、しかし……ハカセの望む再会は、もう……」
「――何が言いたい?」
噛みつくようにネズミをにらんだロビンの顔が、何かに思い至って歪んだ。その旅焼けした褐色のほおから、幾すじも汗が噴き出した。ネズミはどこか本当に申し訳なさそうに、ガブリエラに似せてプログラミングした声で、つぶやくようにこう告げた。
「つい先ほど、電子の知らせが届きました……ガブリエラお嬢さんは、もう……」
汗とは違う塩からいものが、ロビンの目から噴き出した。ひざから一気に力が抜けて、立っていられずに崩れ落ちた。目が熱くて、熱くて痛くて、濡れては濡れるくちびるに、塩からい味がたまっていった。
* * *
ロビンは故郷に戻った。葬式ではもう涙も出ず、言葉のひとつも出なかった。もう旅に出る理由もなく、生き続けたい理由もなく、ひげは伸び放題に伸び、惰性のように死なない程度に物を食べ水を飲み、ただそれだけを繰り返していた。
「兄さん、ごはん置いとくよ……もう少し食べなよ、食べないと兄さんまで……」
すぐ下の弟が、いつにない言葉をかけてきた。あまりに珍しい出来事に、ロビンは思わず顔を上げ、じっと弟の目を見つめた。
……知らなかった。
目を合わすのが怖いから、子どものころからずっとまともに見られなかった。俺の弟の瞳は、こんな綺麗な緑色をしていたのか。
「兄さん、本当言うと……おれは昔から、兄さんのこと、『別の生き物』と思ってたんだ。おっかないくらい頭の良い、それだけの生き物なんだって……ガブリエラのことも、兄さんみたいなやつなんだって思ってた……」
弟は少し言葉をためらって、それからまた口を開く。
「だから、子どものときに兄さんがガブリエラの家に行くのも、ふたりで頭の良い話ばっかり、小難しい大人みたいな話ばっかりしてるんだって思ってた……俺ら兄弟なんて、兄さんは気にもしてないんだって思ってた……」
弟は言葉を探すように口をつぐんで、かすかにせき込んでしゃべり出す。
「……だから、兄さんが旅に出た時も、『頭の良すぎるやつの気まぐれ』なんだって思ってた……俺ら家族と、顔を合わせたくないのかもって……」
と、弟のチェックのシャツの胸ポケットから、チュウという小さな声がした。胸ポケットはふくらんでいた。なんで今まで気づかなかったか、ちょうどネズミ一匹分くらい、丸くぽこんとふくらんでいた。
弟が「ミヒャエル」と呼びかけると、機械仕掛けのハツカネズミが、ちょこんとポケットから白い頭を突き出した。弟はその丸っこい頭をなでながら、潤んだ声で言葉を重ねる。
「……でも、こいつが話してくれたんだ。兄さんのこと、ガブリエラのこと……兄さんが本当は、おれらのこと、どう思っていたのかって……」
見開いたロビンの目を見つめ、弟はかすかに震える声で、言葉を紡ぐ。
「――兄さん。悲しいんなら、悲しもう。泣きたいなら泣くだけ泣こう。でも、そのあとは……もう一回、おれらと『家族』をやり直そう……」
こんなこと、言えた義理じゃあないかもしれないけど。
そう言って言葉をしめる弟の緑の瞳から、透けるしずくがひとすじ落ちた。
――綺麗だった。緑色の瞳も、ほおを伝うそのしずくも、目に痛いほど綺麗だった。
ロビンはその夜、家のかたすみにある『自分用の工房』にこもった。それから十日こもり続けた。心配になり過ぎて家族の者が閉め切られた工房の扉をこじ開けると、ロビンは機械仕掛けのハツカネズミの群れに囲まれ、作業疲れで眠っていた。少年のような寝顔だった。
赤い目をしたネズミたちは、全て『手乗り図書館』だった。彼らは何百分の一、何千分の一くらいオリジナルの機械ネズミのお話をもらい、いろいろ違う、何パターンものお話の束をひっさげて、いろんな家庭の子どもたちの手に渡り、美しい声で物語った。
ネズミたちは手のひらサイズの、持ち運びできる図書館として、子どもたちと本を愛する大人たちに愛された。だが、オリジナルの『ガブリエラ』という愛称は、ロビンとオパールの瞳のネズミ以外、誰も知らなかった。ロビンは誰にも教えなかった。胸の内に、枯れない花のように、ずっと大事に咲かせていた。
ネズミたちは語った。国内じゅうの子どもたちに、やがて国を越え、さまざまな言語で、いろいろな国の人たちにお話を語った。語り続けた。
――そして、現在。
あれから何百年が過ぎ、『お話ネズミのハカセ』として名をはせたロビンもとうの昔に亡くなって、オリジナルのお話ネズミのガブリエラは、故郷の図書館に住んでいる。
子ども向けの本や絵本が並んでいるコーナーの一角、ビロードのソファーの上に座り込み、チクチクカチカチ小さな音を響かせながら、うとうと眠り込んでいる。
機械のパーツもだいぶ古びた。かなり古い機械ネズミを、壊れてももう修理せる腕の者は、今の世には残っていない。
それでもネズミはうとうとと、幸せそうに眠っている。ネズミが時おり、寝言のようにぷつっとつぶやく、『ガブリエラ・メープルウォールナッツ』の意味を知る者は、もうこの世には誰もいない。
ある春の夜、ネズミは小さくつぶやいた。他に誰もいない閉館時間に、ひとり小さくつぶやいた。
『メープル……ガブリエラ、メープルウォール……ナッツ……』
それきりだった。あとは何も言わなかった。小さく響いていた、チクチクカチカチという音も、まったくしなくなった。静かになった。それでも目を閉じた、夢を見るのもやめた機械ネズミの口もとは、安らかに微笑んでいるようだった。
月の光を色とりどりに漉しながら、図書館の虹のようなステンドグラスが、静かにしずかに輝いていた。
(完)