想い馳せ星空へモールス信号を送る!? あの頃の、宇宙と宇宙人と天体図鑑のはなし。
兄と私 共有の子供部屋には、働き始めてから父が集めて読んだという本がいっぱい置いてあった。
「どやァ!!!」「どどーん!!」って壁一面に並び揃えられた、幾種類かの分厚いシリーズ本たちだ。
ハードカバーの「日本・世界の文学全集」みたいのが数十冊とか、金ピカ文字が背表紙にプリントされた、2冊も重ねたら立派に枕になりそうな分厚いブリタニカ百科事典一式とか。
多くは古く煤ぼけていたが、百科事典の中には一度も開かれなかった新品同様なものも何冊も、あったろう。
裕福ではない農家の末っ子、勉学は好きだったようだが、進学は諦め身一つで家を出て働き出した父。文学や歴史が好きで好奇心と知識欲は人並以上だったから、給料をもらえるようになってから本を沢山買って読んだのだ、と言っていた。
とにかく、その名残の書籍類が狭い6畳の部屋の造り付け棚に、天井すれすれまでぎっしりと並べられていた。上の段の方は、踏み台を使っても小学生の私には手も届かない。
見た目からしておよそ「子供部屋」には似つかわしくなく。どこかを押したらギギギーって軋む音を立てて壁が開くんじゃないか、「異次元世界」への入り口が、そこに…?ファンタジー映画によくあるシーンだけど、そんな古めかしさと異世界感・威圧感が、その壁面にだけは漂っていた。
子供心に圧倒されはしたが、んー、正直読んでみたいと思ったことは…小学生の当時は残念ながら、なかったな。
ハードケースの背表紙に印刷されてる、作品タイトルの無骨な文字面。その中には旧字体や旧仮名遣いのモノもあった。小学校低学年の私にはまるで意味不明、読めない漢字ばかり。
装丁は地味で堅苦しく、ワクワクするような魅力的なイラストなどが表紙や挿絵に使われてるわけでもない。大人向けの純文学全集の価値は、当時の私には全く理解できなかった。せっかく薄給から捻出して入手し、若き日父が夢中になって読んだだろう貴重な本たちは、棚に鎮座したまま日々ほこりをかぶっていった。父にとっては、少々残念なことだったかもしれない。
ただ、そんな棚にあって一番下段だけは、丈の高い低いを問わずカラフルな背表紙のモノが置かれていた。毎日毎日そこだけは入れ代わり立ち代わり本が出入りしていた。そこは私達兄妹の共有書棚でもあった。
読み終えた本がそこへ戻されることはあまりなく、残された本たちはいつも、少しスペースが余っていて傾いていた。綴じ代がほころびそうなほどに愛読した「こども図鑑類」の置き場が、そこだったからだ。
クリスマスや誕生日に父が購入してきてくれた「恐竜」「昆虫」「鳥類」「植物」そして「天体・宇宙図鑑」は、私達の宝物だった。
小学校3‐4年生くらいの頃だったと思う。当時私の一番のお気に入りは「天体・宇宙図鑑」。
見開きページいっぱいの神秘的で美しい天体写真やイラストが、フルカラーで数多く掲載されていた。
宇宙や星を描かせたら右に出るものはないと世界的に有名で、当時SW等映画ポスターなどを数多く手掛けられていた「岩崎一彰氏」。
まだ誰も捉えたことのない、金星や水星、太陽系の果て冥王星や海王星などの地表の様子を、一見写真か?と見まごうほど精緻に鮮やかに描いたイラストたちが、ふんだんに図鑑に盛り込まれていた。
絵の隅に小さく記された「Kazuaki Iwasaki」のサインを見てかろうじて、ああこれは手描きの絵なんだ、と分かる。それほどに美しくリアルなイラストは幼心に大きな衝撃で、宇宙に夢中になったきっかけはこのイラストたち、だったのかもしれないと今は、思う。
学校から戻ると、宿題なんて後回しでそんな「宇宙図鑑」を開き、何時間でもポーっと写真を眺め、解説を読みふけった。
太陽は地球の何個分の大きさ?星の寿命は何億歳?銀河系みたいな星雲は、宇宙には数えきれないほどある?何百億光年離れた所からでも地球の空に届いちゃう星の光?自分すら飲み込むブラックホール?宇宙の果ての外には、何がある?
厚さ4センチ、A4よりちょっと大きい位の図鑑の中には、夢のように大きく広く悠久の時を刻み続ける未知の世界が、満ち溢れていた。
見上げればすぐそこに手が届きそう、降ってきそうなくらいに近くキラキラ輝いてる星たちなのに。その光は実はとてつもない時間や空間を越えてこの地球に届いて、今この瞬間にはとっくに存在してないものなのかもしれない。なのに、今私の目に見えている、っていうんだからもう???だらけだ。
書かれてること全てが摩訶不思議で仕方なく、美しい神秘の輝きたちはロマン以外の何物でもなかった。
加えて言うなら、その頃は未確認飛行物体の目撃情報がテレビのミステリー特番とかで取り上げられたり、宇宙に関する映画やアニメ、漫画も花盛りの大宇宙ブーム、だった。巷の子供たちも宇宙飛行士に憧れたり、特にUFOは大流行していた。
そんなころの記憶にある一番初めに憧れたSF作品は、毎日曜お昼にTVで放映されてた米国のテレビドラマ「スタートレック」だったな。
そんなメディアの宇宙ブームもあって、毎日が「宇宙」漬けの日々だった。
日が暮れるのを待ち詫び、ご飯が済めば綿入り袢纏を纏い、狭い庭先で凍り付く冬の星空を見上げた。
田舎町の空は暗く、深く遠く澄み渡っていて、星の明りは実によく、見えた。
私はよく「星座早見盤」なるものを父から借りて、時間と方角を合わせ庭に立った。
それを逆さに持って懐中電灯で下から照らし、その時々の星座や星の姿を探すのだ。
図鑑には、星座に因んだギリシャ神話もところどころに掲載されていた。当然その話も興味深々。
昔の人々が空に描いた星物語には案外、残虐性があったりドロドロしてたり、今なら道徳的にタブーとされるような刺激的な話が多かったりした。
そういうのも実は子供心に「いけないものを読んでしまった!(゜Д゜;)」みたいな、ちょっと見ちゃいけないものを見た罪悪感?背徳感?とか、怖いもの見たさの好奇心がくすぐられるような所があった。
背伸びして見えたそんなちょっと怖い神話世界が、ロマンチックな夜空の美しさと不思議なバランスで結びついていて、それもまた、面白かった。
だから、そこに登場して来る星と星座を、どうしても肉眼で確かめたかった。
オリオン座に白鳥座、カシオペア座、さそり座、おおぐま座、…早見盤に引かれた沢山の星を結んでる目に見えない糸を、実際の夜空の中に見つけ出すのは小学3‐4年の私にはなかなか難しいことだった。
凍えそうな指で早見盤と空を交互に辿り、やっとわかった時は「あれがそうなんだ!」と嬉しさに心が躍った。
ここで話が終われば美しいかなと思うんだけど、どうしても忘れられない事がある。
宇宙人て本当にいるのかな?友達になれるのかな?遠くの星の宇宙人に「わたしはここだよ」って信号送ったりできるのかな?
なんて、私も思わなかったわけじゃない。
ある時それをやってみたい、と思った。私はその時、手に持っていた懐中電灯を早見盤じゃなくて、直接夜空に向けて照らし投げかけてみた。
薄黄色の光の筋が、少し先の虚空まではすうっと伸びて、その先はぼんやりと霞み、見えなくなっている。けど「もしかして科学の発達した宇宙人からは、この光も見えているかもしれない!」
なんて勝手に想像を膨らませ、何度か頭の上でそれをクルクル回してみたり、点けたり消したりを繰り返したり。
光よ届け。一生懸命心に念じながら、信号を送ったのだった。
幸いと言おうか残念と言おうか「あの時の信号を辿ってやってきたよ!」っていう宇宙人には、未だ第一種接近遭遇は、果たせていない(と思う 笑)。
その時誰か大人が傍にいて「そんなことしたって届くわけないよ、だってね…〇×▽」なあんて無粋なことを言われなくて、良かったなと思ってる。
あの頃憧れた星の世界が、今の自分の生き方に繋がっているから。
あの頃引いた星座の線は
今もこの掌の中に、ちゃんと握ってあるから。