8.氷雨さんと勉強会2
「えっ……なんで!氷雨さん!?」
戸惑う私を他所に、落とされた言葉は淡々としたものだった。
「とりあえず、机にやるべきものを並べて」
「えっ……でも、なんで……」
「時間が無いんだけど」
散乱する本の上、スラリと佇み私を見下ろした。
「はっ……はい!!」
その威圧感から、状況の理解は後回しに、言われるがまま床に転がった数々から必要なものを拾い上げていく。
「これが、今日の課題です!歴史に現国に数学……」
かなり時間を費やしたのになかなか成果の見えなかった3教科だった。
「じゃあ現国から。……現国が分からないって何?」
眉を顰め、まるで理解できないといった面持ちの氷雨さん。それはそのはず、何せ目の前の彼女こそ、学年1位、全科目満点とも噂される、ミスパーフェクトなのである。なお、真偽の程は定かではない。けれど、その反応から少なくとも頭脳明晰という点で間違いはないはずで。
「えっと、漢字が覚えられなくて……」
「そう。じゃあ、ペン持って」
「は……はいっ!」
多少気後れしながらも、言われた通りペン握って机に向かう。
「苦手な漢字はこのチェックが付いているやつ?」
氷雨さんはひょいと漢字の問題集を取り上げると、立ちながらパラパラと捲る。
「うん」
「分かった。じゃあひとつずつ書いてくから。集中して」
そう言うと、氷雨さんは私の後ろを包むように座った。そして、後ろから手を握る。
「まず『猛獣』」
そう言いながら、丁寧に一画ずつ私の手を待って動かしていく。
「けものへん。皿の上に子。毛が三本。田んぼに一口、大きな犬」
リズム良く、しかし念仏を思わせるような単調な声。まぁ、これは良いとして。問題なのは、この密着する体勢。黙って流されるにはあまりに疑問が多すぎる。
「えっ……えっと氷雨さん……こ、これは……」
緊張の隙間から何とか声を絞り出す。すると返ってきたのはあっさりと。
「漢字を教えてる」
「いや、うん。それは……うん」
あまりにもそのまんまな回答。食べ物の名前を聞いたのにこれは食べ物ですって言われたみたいな、狐につままれたような感じで、私もこれ以上なんて言ったらいいのか分からなくなってしまう。
とはいえ、やっぱり混乱している頭は無視できなくて、勉強そっちのけで悶々としていれば、ぴったりくっつき中の氷雨さんには、しっかりお見通しされていた。
一瞬だけピタリと手が止まって、それから「ちゃんと集中して」そう耳元で囁かれる。
その声は、私の耳をくすぐって頭をジーンと痺れさせ、全身を下から上へなぞり上げるとゾワゾワした感覚を呼び起こす。
その度に、うぅっとダメージを食らいながら、研ぎ澄まされる感覚にドキドキする。
背中に伝わる感触とか体温とか、鼓動とか。触れる手はとても冷たいのに、私の身体はどんどん熱くなっていく。
なんだか、ぷつんと、糸が切れた気がした。
こんな状況、全然勉強どころじゃ無い。なんなら今にも頭が爆発してしまいそう。
けど、それは私がリアルな密着に全く免疫がないからで、乙女ゲームで存分に鍛えた接触耐性、メンタルも結局は画面の中でしか通用しなかったという訳で。今更どうにかなるってものでは無い。
それなら、ちょっとテストは置いとこうって。人生の貴重な経験として、氷雨さんとの夏休みの前借り的なものとして、今を堪能しておこうって!吹っ切れた。
テストには追試があるけど、氷雨さんとのこの瞬間は今だけだからね!(ダメな考え)
こうなった私は強かった。全神経、全脳味噌フルで使って氷雨さんを感じた。かなり真剣だったから、氷雨さんにも何も言われなかった。
とにかく、私は夢中でこの瞬間を堪能した。ちょっとだけ、胸の中で氷雨さんにごめんなさいをしながらも。
「『僥倖』、苦手なの?チェックが多い」
「あ、うん。これ、本当に全然覚えられなくて。麻子ちゃんに手伝って貰った時も、土の数が多くなったり少なくなったり、横棒増えすぎたりとかしちゃって。よく、私の『僥倖』は気持ち悪いって言われたりしたよ」
なんて誤魔化すように笑えば、氷雨さんの声は一言「そう」とだけ。
「う、うん。でも、意味はちゃんと覚えたんだけどね!私にとっての今みたいなこと、だよね?」
「馬鹿なこと言ってるとやめるけど」
「わ!嘘、ごめんなさい!ちゃんと集中します!」
静かな室内で、ペンが紙を走る音、私の耳には氷雨さんの吐息、そして鼓動が響く。ただ話すことなく、黙々と文字を綴る。私には無数にすら思えた熟語の数々も、あっという間に最後の一つになっていた。
「これで漢字は終わり。覚えたか見るから、解いてみて」
そう言って身体が離れると、お互いの間に空気が入っていく。ちょっとだけ涼しくて、心細い。 そして、2人でなぞった数ページも戻される。
「そ、その前に。一つ質問いいかな?」
「なに」
ぶっきらぼうな声が返ってくる。
「今日、なんで来てくれたの?」
強ばった身体が声を震わせる。
「……」
いつもの無返答なのか、考えているのか、沈黙だけが続いていく。
固まった空気が私を焦らせる。
「さ、寂しかった……とか?」
しかし、その答えもすぐには返って来ない。少しだけ間を空けて、私に待ち遠しさと緊張と怖さを与える。
「それはない」
「そっ……か。そうだよね」
期待はしていなかった。むしろ、九割位の確率で返事が予測し得る言葉を選んでいた。それでもやっぱり、事実としてはっきり告げられると、それはそれは気が沈むものだった。
なんで、氷雨さんは来てくれたんだろう。
なんで、勉強を教えてくれるんだろう。
どんなに期待しないようにしていても、この状況こそがそれを裏切る、それ以上のものだった。だからこそ、答えのないまま満足すべきかも知れない、そう思い始めていた。そんな時。
「けど、退屈ではあった」
空耳とか思うような言葉が耳を掠め、息が止まる。
これで空耳とかなら目も当てられないぞとか思っていても、結局、心を浮かせて期待をしてしまう。
「えっと……そ、それは……」
「しつこく付き纏ううるさいのが1人いないだけで、こうも静かなものだったかと。煩わしいと思っていたものも、無くなれば、それはそれでつまらないものだった」
思わず息を呑んだ。瞼が自然と持ち上がるのを感じた。
「わ、私ーー」
俯いた顔を持ち上げて氷雨さんを見つめる。ずっと無表情だと思って氷雨さんは、心なしか少し不満そうな表情をしているように見えた。
「すっすぐ終わらせるから!!待ってて!」
私だけじゃ無かった、氷雨さんが待っている。それだけでやる気が無尽蔵に湧いてくるような、そんな気がした。
■おまけ■
「あ、のさ、さっき聞けなかったんだけど、漢字を教えてるってどういう意味?」
勉強中の小休止、私はおずおずと氷雨さんに尋ねてみた。
「そのままだけど」
「いや、えっと……そうじゃなくて」
言葉にするのが恥ずかしくて、察してくださいという目で見てみれば、全然脈なし。私のことを宇宙人でも見るような目で見ていた。
「だっだから!なななんで……その、くっ付いてくれたのかなって!!」
言った途端、折角落ち着き始めた顔がまたボンッと赤くなる。そろそろ私の顔は血の集まりすぎで本当に爆発するかもしれない。多分ギリギリライン。
ていうか、くっ付いてくれたって言い方、なんか嬉しそうで気持ち悪くない?大丈夫?
ごくりと固唾を飲んで窺えば。
「習字って、ああいう感じじゃ無かったっけ」
と、逆質問。そう来たかーって思いつつも、妙に納得しちゃう答え。
うん、そっか、習字。習字かぁ……。
小学生の頃、先生と一緒に筆を待つ光景が、さっきの私と氷雨さんとの重なって。
うわあ〜……と恥ずかしくなる。私、汚れたなぁって。
だから、懺悔の気持ちを込めて正座した。
「あの、氷雨さん……なんか私、勉強すごい頑張るね」
「今更?」
いつもお読みいただきありがとうございます!
氷雨さんがなんでお家にいるか(物理的)は、少し後で判明予定です(^^)




