瑠璃色の尾を隠す私
窓の向こう、鈍色の雲が金色の月明かりを覆い隠す。そんな、深いふかい夜。
遠く聴こえる波の音と幽かな潮の香り。いつかの海の声が、眠る私を目覚めさせる。
ベッドのシーツを擦りながら身体を起こす。隣には愛しい旦那が心地よさげな寝息をたてていた。
私はそんな彼の頬に唇を寄せ、彼の頬に唇が当たるか当たらないかの距離で、チュッと口づけするようにちいさなキス音をたてた。
「…行ってきます、あなた」
私は眠る彼にちいさくそう囁くと、彼を起こさないようにそっとベッドを降り、物音をたてないように寝室から出ると、玄関へと向かった。
────パタン。
外に出ると、冷たい潮風がサアア…と吹いていた。その風は薄手のネグリジェを吹き抜け、私の身体に残る彼の体温をほどなくして冷やした。
明かりのない木々の間の道を歩いていると、だんだん潮の香りが濃くなり、砂浜が見えてきた。
さくり…
眼前には、足を踏み入れると底無し沼のように沈んでいきそうな漆黒の海が果てしなく広がっていた。
けど、恐怖なんてない。私はどんな海も大好きだから。だって私は…
波の跳ねる音が、潮の香りが、頬を撫でる潮風が、私をその底無し沼のような海へと誘う。
さくりさくりと海へと向かって砂浜を歩く。すると、鈍色に隠れていた丸い月が顔を出し、暗い海をきらきらと金色に染めた。
「今日は満月だったのね。こんばんは、美しいお月様」
私は満月ににこりと微笑むと、月明かり輝く海を見つめ、そして。
────ぱさり。
砂浜にネグリジェを脱ぎ捨てた。
露になる、私の身体。
冷たい潮風が、私の素肌を撫でてゆく。
────ちゃぷ…
私は裸になると、ゆっくりと海に入っていく。夜の海水は冷たいけど、それが気持ちいい。
だんだん、身体が海に浸かってゆく。同時に、両方の足がひとつになってゆく感覚を覚える。
胸の先が海に浸かる頃には、私の足は魚の尾のようになっていた。
…そう、私はもともと人ではなく、人魚。
数年前のある月夜の晩。この砂浜の近くで泳いでいると、砂浜でひとり座ってぼんやりと海を見つめる男の人がいた。
それが、今の私の愛しい旦那様。
次の日もその砂浜のそばに行くと、彼は昨夜と同じように、ひとり砂浜に座ってぼんやりと海を見つめていた。次の日も。また次の日も、彼はひとり砂浜に座って海を見つめていた。
最初は、ただの人間への好奇心から、彼を毎日のように見に行っていた。
けど、毎日岩陰から彼のことを見つめていると、もっと彼の傍に行きたい、彼の声を聴いてみたい、彼とお話ししてみたい、彼に…触れてみたい。そんな欲求が日に日に大きくなって行った。
そして私はある日の満月の夜。海の底に住まう人魚の魔女に習った魔法を自身にかけ、人間なって彼に近づいた。
そしてそのまま彼の全てにこころ惹かれ、私は人として生きて、彼の傍で一生を添い遂げようと決意した…けど。
───ザバン、ザブン!
「ぷはっ」
私は完全な人間にはなれなかった。海の底をすいすいと泳げるこの瑠璃色輝く尾を手放すことができなかった。
人間の姿で彼と一度一緒に海で泳いで、人魚の気分で泳ごうとしたら、人間の姿では身体が重くて思うように泳げなくて。
海で生まれてなん十年も海の底で過ごしていた私にはそれが苦痛で不自由で…なによりも恐怖だった。
でも…人魚は人間ではない。人間からすれば化け物。だから、人魚であることはその者にけっしてバレてはいけないよ。きっと恐れ嫌われてしまうから…そう、人魚の魔女に強く言われた。
彼は大好き。だけど、この広い海も大好き。
彼と海、どちらかを選ぶことができずにいた。
「ごめんなさい…あなた」
金色の満月を見つめ、けれども心は彼を見つめながら私はちいさく呟いた。
生暖かい海水の雫がつうっ…と頬を伝って、ぽたりと海に零れていった。




