出会い
1ヶ月前。
その日、夜通しつけっぱなしだったテレビからの「おはようございます」の声で目を覚ました。
液晶画面に映る、落ち着きと快活さを兼ね備えたアナウンサーがにこやかに今日の天気を告げていた。
画面越しにはわからないから勝手な想像になるけれど、彼らの心にも少なからず憂鬱な色が混じっているはずだ。それを感じさせないプロ意識には頭が下がる。
僕は縦にした枕を腰にあて上体を起こした。
自分の胸に視線を向けると、水晶玉サイズの「黒錆色」の球体が浮かんでいる。
「人の心の色が視える」それが特異な能力であると気づいたのは、幼稚園の時だった。
底抜けに明るい母の胸元の『水晶玉』に「お母さんの胸のガラス玉は他の人よりきれいだね」、と伝えたところ、笑いながら「素敵な言葉ね!結城は天才かしら」と返された。
その時の母の反応で、僕は、その水晶玉が普通の人には見えないものだと子供ながらに気が付いた。
自分の色が嫌いになったのは、いつの頃からだろう。
枕元のスマートフォンを手繰り寄せ、一通りルーティンのアプリを巡回してから、夕方のアルバイトに備えてもう一度枕に顔を埋めた。
夜の人々の色は、朝の人々のそれと比べて多少明るみを帯びている。
仕事が終わった解放感やお酒で高揚した人が多いせいもあるだろう。
それでも、どんな人の『水晶玉』も多少の黒が混じっている。
薄紫色。鼠色。オレンジ色。生まれたままの混じりけのない色味を保っている人間は、赤ん坊か幼児くらいのもので、中高生以上の人間では一人も見たことがない。
居酒屋のアルバイト終わりの電車内。人のまばらな車内で座席に座りながら僕はスマートフォンをとりだした。
ホーム画面にある『enogive』というアプリを立ち上げる。
ウェブ上に、自作の絵や漫画などを共有するイラストコミュニケーションツール。
そのアプリと出会った中学1年の頃は、たびたび自作の拙い絵を恥を捨ててアップロードしていたものだ。
今ではすっかり読み専になってしまった。
画面をスクロールすると、色鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。
満点の星空を見上げる黒髪の若い女性。
白いスニーカーにデニムのパンツをはいた彼女はあぐらを書いて砂浜に座っている。
その隣には金色の毛並みの大型犬が同じように腰を下ろしている。
背中越しながら、不思議と彼女は微笑んでいることが想像出来る。
その絵の作者『suzume』という名前のユーザーが描く色彩豊かな絵が僕は昔から好きだった。
日常のなんてことない風景画や動物の絵。
今まで投稿されたどの絵も、飾り気のない温かなタッチでありながら、心に強く染みる。
そんな不思議な感情を喚起させてくれる。
絵は人の心を反映する鏡のようなもの、と言った作家がいる。
もしそうなら彼女(性別は不詳なのであくまで推察だが) の心はきっとこれまで見たことのないほど、綺麗な色をしているのだろう。
中学の時、初めて彼女の描いた星空の風景を見て以来、定期的に更新される彼女の絵を見ることが僕の数少ない日常の楽しみの一つになっている。
昨晩アップロードされた『自転車のサドルに箱座りする猫の絵』にGoodボタンを押し、電車を降りるために席を立った。
駅をおりてから、行きつけの喫茶店で時間を潰すために自宅と反対方向の道を歩き、路地を曲がる。
個人経営の喫茶・ロンドンは夜の23時まで営業している、今では珍しい昔ながらの喫茶店だ。
外から見えるレトロな雰囲気の店内にいる常連客やマスターは皆落ち着きと安らぎの色をしている。
ふと、店前のショーケースにじっと顔を近づけている女性がいることに気が付いた。
僕と同じ大学生くらいだろうか。
動揺したのは、その後ろ姿に見覚えがあったからだ。
「あの、すいません」と思わず声をかけると、振り返った彼女と目が合った。
綺麗な黒髪に真っ白いスニーカーにデニムパンツの女性。
見慣れた絵からそのまま飛び出してきたのかと思うほど、透き通った美しさに僕は思わず唾を飲み込んだ。
ただ、しばらく視線を奪われたのは彼女の容姿だけが理由ではない。
「何?もしかしてナンパですか?初めてされた」と彼女は嬉しそうに微笑んだ。
今まで色んな人を見てきた。でも初めてだった。
無色透明な『水晶玉』をもつ人に出会ったのは。
「いえ、ナンパとかそういうんじゃないんです、、えーっと」
沈黙ののち、見ず知らずの女性に声をかけてしまったという行動の重大さを冷静に考えたとたん、思考が停止した。
間違いなく、今の僕の顔色は赤い。
彼女はじーっと不思議そうに見つめてくる。
何か言葉を発しなければ、ますます不審者ではないか。
「あの、よかったらコーヒー飲みませんか?」
思わず口をついて出た言葉に彼女は「やっぱりナンパじゃん」と声を出して笑った。
「なるほど。このイラストの女性に似ていたから思わず声かけたと」
「、、はい。すみません突然」
僕が手渡したスマホの画面を眺めながら、凪さんというその女性はわざとらしくため息をついた。
「口説かれたと思ったけど、違ったかー。残念」
喫茶店に入り、凪さんからの怒涛の尋問に応じる形で自己紹介をすませて、声をかけた理由を説明したところ、ようやく誤解を解くことができた。
彼女は3杯目のコーヒーを呑みながら、嬉しそうに目を細めている。
心の色が視える話や彼女の水晶玉がなぜ透明なのか、という質問はもちろんしていない。
そんなこと言ったら、新手の宗教勧誘に間違われますます気味悪がられるに違いない。
「ここのケーキ美味そうだねー」
彼女はデザートメニューのモンブランの写真を色々な角度から眺めている。
「甘いもの好きなんですね」
「うん。結構高いから買えないかー。あっ、そういえばお財布忘れたんだった。あっ、しかもドラマ録画してくるのも忘れてた。ショックだなー」
わざとらしく大げさに頭を抱えるそぶりをしている。
僕はトートバッグから財布をとりだし、中身を確認した。
「好きなの頼んでいいですよ。誘ったの僕ですし」
「ほんと!?素敵な人」
彼女は大きな声ですみませーん!と店員を呼び「モンブラン」と「パンケーキ」と「バニラアイス」を注文した。一体彼女は何者なのだろう。
「なに、じーと見て。ごめん、頼みすぎた?」
「いえ、大丈夫です」
しばらくして運ばれてきたデザート達を嬉しそうにほうばりながら彼女は続けた。
「大学3年生ってことは私の1つ下かー。アルバイトしながらって偉いね」
「正直学業はおろそかですけどね。休学中ですし」
「なんか問題起こしたの?」
「違います。むしろ何もしてないのが問題なのかもしれません」
「ふーん、よくわからないけど、モラトリアムってやつだ」
「そんな感じです」、と答えて僕はコーヒーに口をつけた。
自分でも明確な理由を説明するのは難しかった。
将来への漠然とした不安や諦めた夢への後ろめたさとか、そういったマイナスの感情が澱のように溜まって、いつからかキャンパスで友人と会話することさえ苦痛に感じてしまった。
「まあ誰しも言語化できない悩み抱えているものよ」
いつの間にか平らげたスイーツ達の皿に彼女は丁寧に両手を併せた。
俯いていた僕が視線をあげると、凪さんはしばらくじーっと僕の目を見た後でこう言った。
「ねえ、明日の朝空いてる?」
「・・・朝ですか?」
「せっかく出会った縁だからさ。ちょっと私の計画に付き合ってほしいんだよね」
彼女はいたずらっ子のようにニコニコと笑った。
そこから、僕と彼女の不思議な1ヶ月が始まった。