天使の正体と陸の願い
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その後、陸は彼女の問いに答え、盛大に笑われた。彼にとっては叶うはずもない大それた願いだったが、タナトスにとっては面白い回答だったようだ。
「陸君。君は君の異常性を理解しているかい?」
市街地、彼の自宅から大分離れた所でやっと足を止めた彼女は、陸の顔を覗き込んでそう尋ねた。
「そんな事より僕はどうして走る必要があるのか聞きたいです」
息を荒げながら、彼は不貞腐れ、抗議するように唇を尖らせる。
「生を実感出来るだろう? 走って息切れ、発汗により散る飛沫、紅潮した頬。その全ては生きているからこそ得られるものだ。生の実感とは生命が危機に曝されて、最も実感出来る」
「結局答えが貰えてないんですけど」
「つまり僕は君が生きているという事を実証したのだ。感謝したまえ」
薄い胸を張って彼女はそう言い放ち、補足するように「もちろん僕は神様だから息切れもしないし、汗もかかない。脆弱な人間とは違うんだよ」と言い放った。
「そうですか」
自慢げなタナトスへ不愛想にそう返した後、陸は辺りを見回す。見慣れない街並みだった。彼の住んでいる地区はいわゆる庶民層が住む場所で、円状に形成された都市の外縁部に存在する。しかし、彼等が今いる場所は中央部に近く、いわゆる富裕層が多い。これは地下に早くから逃げていた人間は得てして裕福だった事に由来するものだ。
「さて、ここに来た理由を話そう」
そして、それはつまりコロニー十七の中で最も早くに作られた場所だという事である。
「この中央区には三つの街区があるのは君も知っているだろう。まず地下都市の生命維持装置、土から肉を作り、水と陽の光なしで野菜を生み出す。地下都市の食を司る三番区」
彼女は手始めに右手の人差し指を一本立てた。
「次に電子パネルで空を描き、降雨装置で雨を降らす。電子チップとAIの管理を主軸とする地下都市の血液、二番区」
彼女が中指を立てる。
「そして、最後に天才を生かす人類発展の砦。七賢人『魔術師』最大にして最悪の発明。市民の寿命を従来の二分の一以下にした不死鳥機構の要。全ての生命から寿命を吸い上げる愚者の塔が中央に聳える一番区」
最後にタナトスは薬指をピンと伸ばした。
「この三つを君には見て回ってもらう。七賢人の罪を、死という全ての人間から恐れられる僕でさえ吐き気を催してしまいそうなこの三つの施設を陸君には見て貰おう」
彼女は相変わらずの意地が悪い笑みを浮かべながら、三本の指を伸ばした右手を左右に振る。
「それに何の意味があるんですか?」
眉を寄せ陸はタナトスに尋ねた。たかが一般市民である自分にそんな事をさせても意味がない。罪は明らかになって初めて罪となる。知って気に病むような事ならば知りたくないし、知る必要もないだろう。
陸は確かに地下都市が嫌いだ。コロニーというあまりに直接的な名が嫌いだ。しかし、七賢人は嫌いではなかった。不死鳥機構を作った『魔術師』はともかく、リーダーシップがあり美しい『星』や無邪気な『愚者』。犯罪率ゼロを実現した『節制』や臆病者で卑屈ゆえに神に対する防衛機構を生み出した『月』。
人類滅亡の危機を救った彼等は功労者であり、陸にとって尊敬の対象だった。きっとそれは雪にとっても同じだろう。彼女の命を奪い続けるシステムを開発し実行されても憎む事は出来ない。恨みこそすれ憎むまではいかないそんな七賢人の罪。それを知りたいと陸には思えなかった。
だが、そんな彼の考えを死神は一言で覆す。
「これは禊だよ。巡礼だ。神をも恐れぬ所業を犯した人間を浄化するために、陸君は罪を蒐集するんだ。罪は僕が提示しよう。君はそれを知るだけでいい。第三者として罪を知り、認知し、己の中でかみ砕いてほしい。君なりのかみ砕いた罪と交換で願いを叶えよう」
彼女は腕を組んで、怪しげに光る赤い瞳を陸へと向ける。魔性の輝きともいえるそれに、彼は押し黙ってしまう。
「なんで僕なんですか? 犯した罪があるっていうんなら、犯した者がその対価を支払えばいいじゃないですか。それに貴方が神なら貴方自身の手で罰を下せばいい。僕に罪の蒐集をさせる必要なんてないはずです」
けれど、毅然とした態度で陸はそう言い返した。
やりたくない。
その一念のみが彼の胸に去来する。面倒事は嫌いで、苦しい事はしたくない。彼は拒絶の言葉を口にしようとする。
「断る? それもいいだろう。けれど、それでは君の願いは叶わないよ。それでいいのかい?」
しかし、悪辣なタナトスはそれを許さない。
「必要性なんてどうでもいいんだ。ただ僕は見たいだけさ。もがき苦しむ人をね。最初に言っておこう。陸君が今から歩む道は地獄だ。人間の闇だ。それを直に見る事になるだろう。なぜ僕なのかと君は言ったよね? それは君が今まで会った人間の中で最も綺麗で、醜くて、見惚れてしまうような願いをしたからさ。だってそうだろう?」
彼女は美しく、可憐だ。人工の風にたなびく銀の髪は不可侵を示し、意思の光を持つ紅玉の如き瞳は偽物ばかりのこの地下都市にあって、自分は本物であると高らかに主張している。
だが、彼女はタナトスである。
死神である。
「『自分の命を他人にあげたい』だなんてさ」
陸の願いを語る彼女は正しく人ではなかった。
「何たる傲慢。何たる欺瞞。それをされて嬉しい人間は、それをされるに値しない。その願いの美しさに相応しくない。君の寿命を受け取って浮かべる笑みは醜悪なものに違いない。でも、それだから人は人なんだろう。その矛盾を知りながら願うのが人なのだろう。僕はそれを面白いと思う。その結末を見届けたいと思う。だから、もう一度問おう」
タナトスは梅雨の雨の匂いの混じる粘ついた空気を勢いよく吸い込んだ。生命維持に必要なその行為は、彼女にとって行う意味はない。それを理解してなお息を吸う彼女はきっと誰よりも人に憧れた人でなしである。
「君は天音雪に自分の寿命を捧げるために、僕の試練を受けるか否か」
夕陽がタナトスの姿を照らす。白いワンピースにオレンジが溶け、デイスプレイの雲が薄暗闇へと消えていく。その姿はまるで泡沫の夢のようで、
「受けます」
そう答えた自分に陸はどうも非現実感が拭えなかった。
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