クマ1:異世界だ、クマと一緒に冒険だ?
お付き合いいただけたら幸いです。
真っ暗な空間を漂っていた気がする。音もなく何も存在しない。いつまで続くのかもわからない。気がつかないだけで自分以外のなにかが存在していたのかもしれない。
どれだけの時間が流れたのだろう、永遠とも感じる孤独な時間だ。
暖かく優しい力に包まれていたような気もする。自分がこの心地よい流れの中から出たくないだけかもしれない。
いつまでもこのままでいられたならどれだけ幸せなことだろう。
何もしなければこの心地良い空間にいられる。何も考えなければ幸せな時間が過ぎていく……
本当にそうなのだろうか? 何かを願ってはいなかっただろうか?
余計なことを考えてしまった。
その瞬間に大きな力が動き始め、今まで生まれなかった疑問が出てくる。ここはどこなんだ? 俺は何をしているんだ?
自分の中に何かが流れ込んでくると同時に強い光に包まれ大きな力の奔流に飲まれていく。
目を開くとそこは草原だった。まだ日は高く心地よい風と共に草の萌える匂いが吹き抜けていく。
「ついに来たー!」
見慣れぬ風景に戸惑うこともなく思わず叫んでしまう。
これが街中なら突如現れた可笑しな人になってしまうが、今はそれを笑う者はない。
そしてこれから始まるであろう新たな生活に期待を込めた願いにも聞こえる。
「今までの努力がようやく報われた。思いのほか長かったが神に感謝だな」
会話の相手すらいない草原で俺は1人話し始める。
「この時のために色々とやったな、エレベーターに魔法陣。幽体離脱に……っと、これはできなかったか。あとは合わせ鏡にネットで調べた異世界と繋がっているであろう神社仏閣、心霊スポット。どれも不発だったが最終的に望みが叶ったからよしとするか」
バカである。
「努力すれば報われる、頑張れば結果が出る、諦めなければ道は開かれる。ぜんぶウソだったな。どれだけ俺が苦労したと思ってるんだ。まあ流石に暴走トラックに突っ込むとかはできなかったが……」
意識を失うまで不眠不休でオンラインゲームに向かってみたが何も起きなかった……病院に担ぎ込まれて2、3日入院になって怒られただけだったな。
古い蔵書の多い図書館に通い詰め異世界につながる本を探したが見つからなかった……司書のお姉さんには気に入られたがあまりタイプではなかった。地味な娘は嫌いじゃないけど……
夜中の学校に忍び込んで階段の踊り場にあった鏡で合わせ鏡の実験もしたな……0時になる前に警備員に見つかり追い回されたっけ。
自称異世界体験者に話を聞きに行き、方法を聞いたら大笑いされた……腹が立ったのでボコボコに殴ってやったら嘘だと白状しやがった。
最終的に神頼みで毎日神に祈ったっけ。困った時の神頼み……近所の教会で洗礼を受けるように勧められたが、美人シスターがいなかったので行くのをやめてしまった。
「冷静になって考えると俺バカだな……」
『そうだクマ、バカだクマ』
独り言のつもりだったがどこからか声が聞こえてくる。周りを見渡しても辺りを遮るものはなく誰もいない。
「幻聴か……まさか精霊? どこだ? 姿を見せてください」
『ここだクマ』
「どこだ? まさかスキルが足らずに声は聞こえても姿が見えないのか? それはダメだろ」
『どこ見ているクマ! こっちクマ』
なぜかズボンの裾を引っ張られる感じがする。
恐る恐る下を向くとなぜかぬいぐるみのクマさんがいるではないか。とりあえず両手で持ち上げてみるが、どこから見てもクマのぬいぐるみにしか見えない。茶色い毛並みがモフモフしていて触り心地はよかった。
「何故ぬいぐるみのクマさんがここに? まさか新手のモンスターか?」
『お前バカだクマ。さっきから話しかけているのに無視するなクマ』
右手いや右前足か? を挙げて挨拶してくるではないか。
「うぉー、何じゃこりゃ」
思わず放り投げてしまった。
『ひどいクマ、投げることないクマ』
文句を言いながら立ち上がり草をかき分けながらヨチヨチとこちらに向かって歩いてくる。実に不思議な光景だ。
「もしかして異世界ではなく夢の世界か?」
俺に存在を認めてもらえないクマさんは前足を額に当ててやれやれと首を振っている。
『お前いい加減にしないと怒るクマ。エリちゃんの恩人でも許さないクマ』
恩人? 誰が? 俺か? それよりエリちゃんって誰だ?
それよりこのクマ何か知っているのか? 流石に20歳を過ぎてぬいぐるみとお話しはいただけないが、現状話し相手になりそうなのがこのクマさんだけなので仕方がない。無意識に20歳過ぎだと思ったが実際のところ何歳まで生きていたのかよく覚えていない。
放り投げられたのにもかかわらず再び足元まで歩いてきたので話だけでも聞いてみることにした。
想像してほしい、いい年した男がぬいぐるみ相手に話しかけているのである。周りに誰かいたら指さされて笑い者になるのは間違いない。
『まあ立ち話も何だから座るクマ』
人間様に座れと命じるぬいぐるみ。確実に言えるのは地球ではありえない現象だろう。
下を向いているのも疲れるので腰を下ろしクマさんと対峙し話しかける。先に言っておくが俺の頭は正常だ……多分。
木の切り株でもあればよかったのだろうが生憎そんなものが都合よく草原にあるわけがない。仕方なく草むらに座り込んだが、意外と悪くない感じだな。青々とした草の香りが清々しく感じる。
『お前、現状はわかっているクマ?』
「わかっているような、わかっていないような、どこかにいた気もするがよくわからん。それでここは異世界なんだよな?」
『いきなり本題クマ。間違いなくここはお前が住んでいたのとは別の世界クマ』
「なんで語尾に“クマ”がつくんだ?」
『それはもちろんその方が愛嬌があって可愛く見えるからクマ』
どうでもいい情報だ。別に愛嬌は求めていないが言われるとなんとなく憎めない顔に見えてきた。おそるべし、ぬいぐるみのクマさん。
『こんなに愛くるしい僕がサポートしてやるんだから感謝してほしいクマ』
「ほう、サポートとはなんだ?」
『もしかして何も覚えていないクマ? むしろ全部覚えている方が不思議クマ?』
言われてみると前後の記憶があやふやだ。この誰もいない草原を異世界だと思ったがそれに至る根拠がない。それ以前に色々試したが異世界に行くことは出来ず何故今になって異世界なんだ?
「…………」
『黙ってないで何か話すクマ。僕がバカみたいクマ』
「ああ、すまない。この歳でクマのぬいぐるみと話しをするなんて想定していなかったもんでな」
『安心するクマ、ここは地球じゃないからおかしな目で見られることは多分ないクマ』
「ということはお前もこの状況がおかしいと思っているんだな? そうだろ?」
地球でなくてもおかしな気はするがまあいいだろう。ぬいぐるみのくせに額に汗が見える……幻覚かもしれない。
「ところでさっき言ってたエリちゃんて誰だ?」
『それも覚えてないクマ? どこから話せばいいクマ?』
「最初から全部だ」
両前足を上に向けやれやれと首を振りながらなぜか遠い目をする。実に人間じみた行動をするクマさんだ。
話が長くなるのか疲れたのかはわからないが地面に座り込み空を見上げながらポツリポツリ経緯を語り始めてくれた。
『まず最初に言えるのはお前は地球ではもうすでに死んでいるクマ』
「いきなり衝撃の事実だな」
『驚かないクマ? 』
「異世界にいる時点で、死んだ後に転生というのが基本だろう? ただそう思っただけで根拠は何もないぞ。ちなみにどんな最後だったんだ?」
異世界にくれば以前のことはどうでもいいがやはり最初の人生の幕引きくらいは知りたい。
『近所のおじいちゃんが運転する車にはねられたクマ』
「高齢者が引き起こした事故ってやつだな。注意していても回避できないこともあるだろう。アクセルとブレーキ踏み間違えたとか。車線をはみ出して突っ込んできたとか。まさかそれで轢かれそうになって俺が助けた娘がエリちゃんか?」
『残念ながら全くもって違うクマ。轢かれた時は交差点だったけど周りのみんなに助けられて病院へ搬送されたクマ』
おっと、予想外の展開だ。ここらで死んで女神様にお会いするのが定番だと思うのだが。そういえば女神様にあった記憶がないな。
『一応一命はとりとめたけど意識が戻ることはなくなったクマ。所謂脳死クマ』
「……まさか記憶が曖昧なのはそのせいか?」
『それは知らないクマ。どうでもいいけど少しは驚いてくれないと張り合いがないクマ。続けるクマ。お前は施設で育ったので家族はいなかったクマ。施設長さんが最後を看取ってくれたクマ』
「なんだってー!!」
取り敢えず驚いてみた。実際にはあまり驚いていないのだが……施設長? 母親代わりか?
『わざとらしいからやめるクマ。それでお前はドナーカードを持っていたので脳死判定後ドナーになったクマ』
「マジかー!!」
『……続けてもいいクマ?』
自分で驚けと言っておきながら張り合いのないやつだ。しかし俺がドナーか。自分の事ながら想像がつかない。
『僕はエリちゃんに可愛がってもらっていたクマ。重い腎臓の病気で移植を待っていたクマ』
「わかったぞ、俺が運び込まれた病院に入院していたんだな」
『カンのいいやつクマ。その通りクマ。それで助かったエリちゃんがお前が天国に行くのに迷わないようにって僕を棺に一緒に入れたクマ』
おお、なんか少し思い出してきたぞ。延命措置をやめて死亡確認がされると同時に移植のためのチームがやってきて心臓マッサージをしながら運んでいったな。思い出したら気分が悪くなってきたぞ。無意識に記憶を封印してたのか?
『顔色悪いけど大丈夫クマか? お前には感謝しているクマ。エリちゃんが元気になってくれたのが僕は嬉しいクマ』
「まあ、最後は人のためになったということでいいんだよな?」
『それで神様が特別にチャンスをくださったクマ』
そこまで聞いて慌てて自分の体を確認するが特に傷跡もなく健康体に見える。胸に手を当てても心臓の鼓動を感じるし呼吸もしっかりできている。
『安心するクマ。神様が新しく17、8歳ぐらいの体を用意してくれたクマ。前の体よりもハイスペックになってるクマ』
「本当か? 神様に感謝だな」
『特に制限がついたりもしていないから、残りの人生を謳歌するようにと仰っていたクマ』
直接お礼を言えないのが残念だが新しいこの体を大切にしよう。
「それで俺には何か使命があるのか?」
『特に聞いていないクマ。好きなように生きていいクマよ。ただ文明の発展が停滞気味だから刺激してくれるとありがたいと仰っていたクマ』
「そうだな、たしかに見渡す限り草原しか見えないから文明レベルも心配だな」
ありきたりだが中世ヨーロッパの街並みに憧れていたりする。できればそういった環境が希望なのだが。
『やっぱりバカクマ。こんな草原で文明レベルがわかってたまるかクマ』
「ところで一つ聞いてもいいか? 俺の名前なんだが思い出せないんだ。知らないか?」
クマとの会話でなんとなく前世の事を思い出したが名前など個人情報が欠落している気がする。
『えーと、確かユウキだったクマ。転生したんだから好きな名前を名乗っても問題ないクマ』
「そうか、こだわってもいいが前世の名前がユウキならそのままユウキでいいか。ところでお前は名前あるのか? 話の流れからこれからも行動を一緒にするんだろ? エリちゃんとやらに付けてもらった名前でいいぞ」
流石にクマさんだと猫にネコさん、犬にイヌさんと呼ぶのと変わらないからな。ぬいぐるみのクマに名前を聞いている時点で痛い事この上ないが。
『……クマクマ』
「ほう、クマクマか。安直、いや失礼。わかりやすい名前だな」
『違うクマ、クマクマ』
「だからクマクマだろ? 何か変か?」
『わざとやっているクマ? クマという名前クマ」
クマクマ=クマ(名前)クマ(語尾)ということか。
「……名前変えるか?」
『……このままでいいクマ』
本人、もとい本熊がいいならそれで構わない。いや熊でなくぬいぐるみか。
「それじゃあクマ、改めてよろしくな」
『やっぱりベアにするクマ』
「…………」
意志薄弱なやつだ。しかし英語に直してもクマはクマだな。