第5話:悪の道(前編)
「やあ、やあ、ヤス君、準備は良いのかい?」
テンションの高い、この場に相応しくない声が響いた。それとも当然か、この人も悪の組織の一員なのだ。なんとも思っていないのだろう。
「俺はどうすれば良いですか?」
拳を握りながら、そう質問する。
「今、うちの組織の銀子ちゃんが、警察が管理している第3倉庫を滅茶苦茶に破壊しているんだ。悪いんだけど、ヤス君には第4倉庫を滅茶苦茶に破壊して欲しいんだ」
何の罪悪感も感じてない声とその指令に、俺の心が震えた。
「何のためにそんなことするんです?」
意味を問うことに意味があるとは思えない。このロリっ子からどんな答えが返ってくることを望んでいるのだろうか、自分でも分からなかった。
俺には、これからの人生をどういう風に生きて行けばいいのか全く分からなかった。「これも全部親がいないからだ」と叫びたくなる。それは八つ当たりだということはもちろん分かっている。でも、多感な年ごろにはよくあることだろう。何よりも、今は心が弱っていた。
「お金になるから……」
「……金だと」
怒りで目が見開いた。
「うちは営利組織だからね」
悪びれもせず、そんな言葉が続く。
「そのために、他人を傷つけて良いんですか?」
俺だって、金が欲しい。でも、誰かの生活をぶち壊してまで、金が欲しいとは思わない。
「仕方ない犠牲というものはある。君も納得済みで悪の組織に入ったんだろ?」
「…………」
何を言っているのだろうか?
「……あれ? 銀子ちゃんから説明されたよね?」
「……いえ」
殴られて、無理やり連れて来られたのだが……
「あの……あのポンコツ女! 何も聞いてないのかい? 何で悪の組織に入ったんだ君は?」
「ええ?」
何で入ったと言われても……脅されて仕方なく入ったんだが……俺は、手短に悪の組織に入った経緯を説明した。
「僕がお風呂に入っているときに、そんなことが……」
ローリー博士はため息を吐いて、言葉を続ける。
「いいかいヤス君、うちは営利組織だ。利益にならないことはしないし、積極的に表に出て行くような組織じゃない。うちの組織の目的が情報だからだ。うちはヒーロー本部の独占している情報を手に入れ、それを市場に流すために存在している」
「情報?」
「そうだ、もっと言えば技術だね。ヒーロー本部は多くの技術を正義のためと独占している。表向きは悪の組織に渡ってしまうと危険なためだと言っているが、それは本音ではないだろう。正確には、多くの技術が外に流れてしまうと、一強体制を維持できなくなるためだ」
ふざけた雰囲気のないローリー博士の真剣な言葉に、俺は耳を傾けた。
「技術は誰かが独占して良いものじゃない。人間は、技術を次の世代に渡していき、切磋琢磨して進化してきた。確かに、科学技術の発展が多くの殺戮兵器を生み出し、幾度の戦争で多くの犠牲者を出した。でも、それは人を救い生活を楽にしてきたものでもあったはずなんだ」
真剣な声に覚悟を感じた。でも、だからこそ分からない。
「今した話と、警察の倉庫を破壊する話に何の関係があるんですか?」
何も関係ないように思えた。
「うん、実はあんまり関係ないんだ。今のはヤス君に僕たちの組織に入ってもらいたい理由だからね。ヤス君にはヒーロー本部の技術を盗んでもらうのに協力して欲しい。倉庫を破壊するのは、もっと別、ただ単に面子の問題かな」
「面子?」
「この街は僕のシマ何だ。その僕のシマに土足で踏み入った馬鹿が、糞みたいな商売をしている。それは僕の商売の邪魔になる。うちは営利組織だから、滅多なことで戦わない。でも、利益を侵されるなら別だ。どんな手段を使っても排除する」
「……この街で何が起きてるんですか?」
「それは、君の目で見てくると良いよ」
そう言って、ローリー博士が座標を送って来た。
そこは警察の第5倉庫である。
何故、こんなに倉庫が多いかというと、危険なアイテムを分散して管理するためである。
俺は指定された場所に急いだ。学校にあったバイクを借りて、その座標へと駆けだした。
そこで見たのは……
「急げ、ここにも来るぞ」
「あいつは狂ってる。一体何者なんだ」
見慣れたヒーロースーツに、何かを運搬している先輩ヒーローたちの姿だった。戦場になっているのはここじゃない。他の場所で銀子さんは暴れているはずだ。
そこに出動することもなく、何をやっているんだ?
そんな疑問が湧いたが、答えは直ぐに出た。
透視能力が勝手に発動して、箱の中身が見えてしまったのだ。それは巷ではやっているドラッグだった。どうして、あんなものを大事そうに抱えているんだ。
どうしてあんなものがここにあるんだ? 警察が押収したのか?
そんな報告は受けていない。
そう言えば、銀子さんが暴れていたのも、思えば警察の第1と第2倉庫の近くだった。
点と点が繋がった気がした。
鈍い俺でも分かる。正義は死んだのだ。
「大事に運べよ。これ一個でいくらだと思ってるんだ」
あんなもので金儲けして……俺も人のことを言えた義理ではないの分かっている。でも……
「腐ってやがる」
あんなのが、俺達の否、俺の仲間の経歴の汚点になるのだと思うとゾッとする。ヒーローは縦社会だ。上が糞だと苦労するのはいつも下の奴らだ。
「ローリー博士」
俺はローリー博士に電話をかけた。
「何だい?」
「俺のスキルじゃあいつらに勝てません。貰ったベルト、何かしらの強化アイテムでしょ? 使いかた教えてもらえませんか?」
「……覚悟はあるのかい?」
その言葉の意味が分からなった。覚悟とは何だ?
「分からない? そのベルトを巻いて戦ったら、君は二度と元の人生に戻れないよ。その覚悟が君にあるかい? そのベルトを巻いて戦うと言うことは悪の組織に入ると言うことを意味する。一時の感情で決めてないかい? 何も倒して欲しい訳ではないんだ。君はヒーローとして彼らを掴まえる道もあるよ」
そういう意味か、心の中で合点がいった。答えは決まっている。
「出来てますよ」
「……だと良いけどね。結構いるんだよ、覚悟もなく悪の組織に入る人間がね。ただ、僕は君を助けても説教するつもりはないから、話はここまでにしておくよ。君の道を行きな。僕は君の上司だから、出来る限りのサポートをさせてもらうよ」
俺は自分のことを良く分かっているつもりだ。どうせ、俺はヒーローとして出世できない。そんなことは自分が一番分かっている。中途半端に強い人間は途中で死ぬだけだ。俺はトップヒーローには絶対になれない。
銀子さんとの戦いで感じた。確かな才能の違い。それは絶対に埋まるようなものではないからだ。あれだけの才能がなければ、上にはいけない。そう考えると、ヒーロー何て辞めて悪の組織で生きていくのも生き方として間違っていないだろう。
ヒーローをやっていても、俺の人生は短い。それに、ヒーローとして生きることに、もう疲れてしまった。それなら、悪の組織に賭けてみるのも悪くないじゃないか、少なからず、あんな糞みたいなやつらの下にいるのはもう耐えられない。
俺の手でぶん殴ってやらないと気がすまない。悪と戦ってすらここまでの憎しみを感じたことは無い。頭に血が上って、手が震えた。
決して魔がさしたわけではない。これからの人生を考えた時、悪の組織で働くのも有りだと考えただけだ。
それに知ってるか?
俺はヒーローをやっていたから良く分かっている。ドラッグに手を出したやつらの末路を……酷いもんだ。歯も髪は抜け落ちて、目の焦点はいつもあってない。
「俺……」
「何だい?」
ローリー博士はいつもの調子に戻っていた。
「ここで何もしない人間になりたくない……です」
「そうかい……それなら、やるしかないね。そのベルトには変身機能がある。僕の作ったスーツは強力だ。50パーセントでも性能を引き出せれば、スキルなしでも、新人ヒーローには決して負けないだろう」
ハイテンションで、スーツの自慢を始めるローリー博士。俺の気持ちを汲み取ってくれたのだろうか? 大人みたいなことを言うと思ったら、子供らしい一面も見せる。この人のことは良く分からないな。
ローリー博士の話を聞いて、人気のないところに移動する。路上の監視カメラがどこに設置されているのかも、自分の街なので把握している。俺が手配し設置させたからな。抜かりはない。
俺はスマホのアプリを起動してコードの入力を始めた。
『8316』
わざとこの番号にしたのだろう。
スマホが変身音声を響かせる。そのスマホをベルトに翳した。
「変身」
電子音だけ響き何も起きない? 最初はそう思った。しかし、それはゆっくりとした変化として現れる。ベルトが溶けだしたかのように、その金属が液状になり、俺の体を包んでいったのだ。
おそらく、ナノマシンだろう?
だが、未だにヒーロー本部でもナノマシンを実用化したと言う例を聞いていない。ナノマシンはまだ研究段階。実現までに30年かかると言われている。つまり、これは30年先を行く技術ということになる。
ナノマシンが体全体を覆う。顔までナノマシンが覆われマスクを作り出した結果、ローリー博士からの通信映像がマスクに表示された。
「どうだい、ヤス君。身体に変な感じはしないかい?」
ローリー博士は、昨日見た白衣に身を包み足を組みながら、聞いてきた。
「ないです。むしろ……」
力が溢れるようだった。
「それだけ? 変なことは本当にないのかい?」
「……何も?」
「…………」
変な間があるな。
「そうだろ。そうだろ。僕のスーツは凄いんだ」
誤魔化すように、ローリー博士がそう呟く。詮索しようかとも思ったが、今はやめておくことにした。それよりも……
「これで、さっき聞いた出力が出せるんですか?」
「当たり前のことを聞かないで欲しいな、ヤス君」
ローリー博士はない胸をはった。
「君の着ていた糞スーツに比べれば、10倍以上の運動性能を期待してくれて構わない。攻撃性能、防御性能ともに、従来のヒーロースーツを凌駕する。ただ、君に使いこなせたらだけどね」
何、言ってるんだ。俺に使いこなせないスーツなどない。
「……俺のスキル知ってますか?」
「そういえば、もともとのスキルは聞いてなかったね」
「見せてあげますよ」
俺は自分のスキルには自信がある。決して最強のスキルではないけれど、これほど便利なスキルはないと思っている。
スーツで地面を蹴った。たった一歩での加速が今までの比ではない。ずいぶんピーキーだ。人間の限界以上のスピードとパワーを実現するスーツは出力が上がるほど、1つのミスでどこに吹っ飛んでいくか分からない。人型であっったとしても、人の身体を動かしているのとは違うのだ。高性能なスーツほどデリケートなレースマシンを動かしているような繊細な動きを要求される。
「ヤス君……どうだい?」
マスクには外の景色だけではなく、ローリー博士との通信映像やマップも表示されている。そのローリー博士が心配そうに俺を見ていた。
「……俺は一度見た動きをほぼ完ぺきにトレースできます」
「?」
悔しいかな。あるヒーローの動きが、このスーツにあっていた。その動きをトレースしてスーツを動かせば、自分の手足同然に動かせる。
最高だ。このスーツは凄い。
「つまり、君の能力は……」
「はい、世界に6人しかいない。コピー能力です」
コピー能力。本来なら、相手のスキルを、その名の通りコピーする能力が主流であるが、俺の場合はその亜種とでも言える、動きのコピーだ。スキルコピーと比べると、完全劣化に見えるかもしれないが、本来のコピー能力は精度が低い。良くて40%ほどのコピーしか不可能だが、俺の場合は90%を超える。
見ると言う簡単な発動条件で、相手の動きを90%という高い精度で真似できるのだ。本来、人間は一つの動きを覚えるのに、反復練習を繰り返すが、俺は一瞬で90%が完了する。その結果、大した努力などせずに、おさめた戦闘技能は数千を超える。
化け物たちの戦場では、決して最強になりえない能力だったが、今は強力なスーツがある。どれほどの力が出せるのか……
「凄い、凄いよヤス君、君はやっぱり掘り出し物だ」
そんな声に少し鼻を高くしていると、自分は浮かれてはいけないことに気付いた。俺は今からやらなければならないことだあるのだ。
俺は今日、ヒーローを辞める。一時の感情のせいで人生を棒に振ろうとしている。賢い大人は言ううのだろう。子供ゆえの過ちだと、若いから……関係ねえよ。
許せないことを前に、何もしないというのならば、大人も子供も関係ない。心のないただの人形だ。もう俺はそんなものにはなりたくない。
「うん? 何だお前は? ヒーローか?」
1人のヒーローが俺を見て、そう呟いた。おかしな話である。ヒーローを辞めたと思ったら、いきなりヒーローと間違われた。
「……ローリー博士、こいつは何を言ってるんですか?」
あほな先輩が、俺をヒーローと言ったので、ローリー博士に質問する。いきなり戦闘になると思っていたので、正直拍子抜けだ。
「ああ、ヤス君には自分の姿が見えないからね」
そう言って、ローリー博士は俺の姿を、マスクの内側に映し出してくれた。その姿は、漆黒だが、形はヒーロースーツそのものだった。
「どうして、こんな見た目にしたんですか?」
「ダークヒーローっぽくてかっこいいだろう」
そう言って、ローリー博士は親指をたてた。
まあ、センスは置いておいて見た目何て関係ない。大事なのは性能だ。
「おい、お前……ぐあ」
鳩尾に一発。蹴り飛ばした。面白いほど簡単に飛んで行く……まだ飛んでるよ。何なんだ、このスーツは?軽く蹴っただけなのに、この性能……
着ていれば、着ているほど体になじんでいくかのように、力が溢れてくるようだった。それは今までに感じたことのないほどの力だ。恐ろしさすら感じる。
スーツを着ていると言うよりも、これじゃ……スーツに着られている様じゃないか?
「!」
飛んでいったヒーローのスーツが木っ端みじんに壊れている。本来、学生のヒーロースーツは防御に特化される。学生のスーツと言えども、その高い防御性能はトップヒーローのそれと遜色はない。
学生のスーツは生存確率を何よりも重視するためだ。逆にスーツ自体の攻撃性能は軽視される。
本来なら、攻撃はスキルでカバーできるのでそれでいいのだろう。だが、俺のようなタイプは冗談じゃないぞという話である。スーツの性能がそのまま強さに直結してしまう。防御ではなく、運動性能に特化してくれたのなら、どれだけ良かったか……どれだけ強くなるのか、ずっと考えていた。
その答えが今出るのだ。
「何なんだお前は?」
ヒーローたちが俺を見ていた。どれも知っている顔だ。学校の先輩なのだから当たり前か……皆一応にドラッグを持っている。屑どもが。
ずっと考えないようにしていた。俺はヒーローなのだと。黒い感情にふたをしてきた。それが人として正しいのだろう。人間は社会で生きる生き物だ。心にはリミッターがある。思っている人間は無数にいても、リミッターによって実際に手をだす人間はいない。
でも、一度でいいので、復讐して叩きのめしてやりたいと思ったことはないか?
俺が苦しんだんだ。その分、お前たちも苦しめ!
「ローリー博士、やってしまっていいんですね? ヒーローをやってしまったら、組織に迷惑はかからないですか?」
一応、上司に確認をとった。俺に残った唯一の良心だ。
「関係ないね。言ったろ、ここは僕のシマだ。そこで糞みたいな商売してるんだ。ヒーローだろうが、ぶちのめして構わないよ」
「了解」
かすかに残った良心はその瞬間に消し飛んだ。
ローリー博士は言った。元の人生には戻れないと……しかし、俺の人生に未来など元々なかったのだ。ヒーローになった時点で、俺は断崖絶壁へ続く道へとただ歩いていた。
ヒーローになった時点で、どこかで悪の組織に負けて死ぬ運命が決まっていたのだと、銀子さんに負けて察したのだ。だから、今から道を新しく作っていこう。俺は悪の道を行く。きっと、それが俺の新しい運命だったのだ。俺に、ヒーローは似合わない。だって……こんなにも心が躍っているから。
「倒して良いんだよな?」
「決まっているだろ。やつは敵だ」
俺がローリー博士と通信をしていると、ヒーローたちが、ようやく俺を敵だと理解したようで、こちらに向かって迫ってくる。
2人のヒーローが迫って来た。2人のスキルは分かっている。肉体強化だ。人の100倍ちかい身体能力を発揮する力。シンプルだが強いスキルだ。
昔の俺なら絶対、この2人に勝てなかっただろう。どれだけ技術が上でも、身体能力がかけ離れていたら意味がない。
風を切る音ともに、2人の拳が空を切った。どれだけ早く動けても攻撃のラインが分かっていれば怖くない。そして、攻撃のラインが分かればこういうこともできる。
轟音が響いた。
2人のヒーローが地面に倒れたのだ。相手の攻撃を利用したカウンター。昔ならカウンター出来るほどのパワーもなかった。それほど力がかけ離れていたが、このスーツなら、やはりやれる。
倒れ伏したヒーローを眼前に見つめながら、残ったヒーローたちを……恐怖におびえて動かないものもいる。そんなヒーローたちを、1人、また1人と蹂躙していく。そうすると、確かな手ごたえがあった。
「気づいたかいヤス君?」
「ええ」
「そのスーツの足の裏と、手の甲には、衝撃を何倍にも引き上げることが出来る、僕特性の『インパクトスポット』が備え付けられている。その破壊力は、必殺技並みだぜ」
軽く蹴っただけで、あそこまで飛んで行ったのはこの力のおかげなのだろう。これで思いっ切り蹴りを入れたらどこまでの攻撃力があるのだろうか?
そんなことを考えていると、風を感じた。ヤバいと思って地面を思い切り蹴る。そうすると、足の裏のインパクトスポットが起動した。面白いほどのスピードで、その場から飛びのくことが出来た。
「良くもやってくれたな」
宙に浮くヒーローが1人。腕を組んで見下ろしている。その能力も知っている。見た通り風の能力だ。
お久しぶりですね。先輩。
「こいつは、俺がやる。連れていけ」
そのヒーローは風で倒れているヒーローたちを浮かせ、生き残っている他のヒーローに届けた。涙ぐましい、仲間意識という奴だろう。3年は3年には優しい。その優しさを下のものにも分けてくれたのなら……俺もこんな風になっていなかったのだろうか?
楽しくヒーローをやっていたのだろうか?
そんなことを少し思うが、今となっては関係ない話だ。俺はもう考えるのも疲れてしまった。
「ローリー博士」
「何だい、ヤス君」
「ボイスチェンジャーと、外部マイクをオンにしてください」
「彼と話すのかい?」
「はい」
ただ、楽しむことにしよう。
「尻尾をまいて逃げるとは、ヒーローとは勇ましいな」
「……なんだ、お前は喋れたのか、口がないのかと思ったよ」
レッドや鳳凰院先輩を始め3年生の先輩は良く言っていた。ヒーローは決して逃げずに、最後まで戦うと……まあ、こいつらはヒーローではないんだけどな。ただの屑だ。
黒くドス黒い感情が湧いてきた。こんなやつらのせいで俺は毎日毎日、あの過酷な残業生活を余儀なくされた、美涼の手料理もコンビニ飯になった。許せるか?
「お前は逃げないのか?」
「俺が?お前よりも強いのに、なぜ逃げる必要がある?」
「雲の上まで飛ばれたら、追えないからさ。今なら飛んで行ってもいいぞ。ただし、虫みたいに無様に飛べよ。それがお似合いだからな」
「……調子にのるなよ。名もない下っ端が」
「その下っ端に負けるお前は何だ?」
平行線だ。お互い自分の方が強いと思っている。それは分かっている。だが、この会話にも意味がある。こいつのプライドを完全に折って、二度と立ち上がれないようにするには、ただ倒すだけでは駄目なのだ。心の奥まで恐怖を刷り込んでやらねばらない。
私怨かな。それとも……
突風とともに戦いは始まった。地面をける。
「逃げているのはお前だろう」
『黄色い突風』それが、この先輩のヒーローネームだ。風をコントロールすることができ、小型の台風を作れるらしい。新人ヒーローでは有名な男だ。
戦い方はシンプルで、突風で敵を宙に浮かせて風で切り刻む。上空では身動きが取れないので、それで必勝。
……そう思っているのだろう。甘いぜ。
俺はこの先輩の弱点を良く知っている。逃げているのは、宙にとばされまいとしていると思わせる布石。ある程度実力が同じなら戦闘は駆け引きだ。
突風が俺の身体を宙に飛ばした。
「さあ、これで終わりだ」
「……計算通りかい、ヤス君」
ローリー博士は俺の作戦が分かっていたようである。
「えっ」
間抜けな顔だった。俺は飛べないとは一言も言っていない。このスーツは短い間なら飛べるのだ。
風のバリアを展開する。しかし、遅い。その刹那の発動タイミングを遅らせられればそれで良かったのだ。
懐に入りさえすれば何もできない。俺は先輩の首を掴んで、地面に叩き落とした。
「鼻が、骨が折れた。助けて」
「風で逃げたらどうです?」
あざ笑うように言うが、それが無理なことは良く分かっている。風の能力者は風が効かない訳ではない、自分には効果がないようにコントロールしているだけで、ここまで近づいてしまえば、相手だけ吹き飛ばすような器用なことは、この先輩が出来ないことを俺は良く知っていた。
強力なスキルでも磨かなければ意味がない。そしてそれは、数年かかる。
「さあ、勇ましく戦えよヒーロー」
完全勝利が確定した状態で叫んだ言葉がむなしく響いた。ヒーローはどこにもいない。いたのは、泣みだぐむ普通の少年が一人だけ……心が折れてしまっていることが分からないほど馬鹿ではない。自分を映す鏡の様だった。
それでも、拳を振り下ろしたのは、何か理由が欲しかったからだ。そうずっと思っていたのだ。その生意気な顔を一方的に殴ってやれたら、気分が良いだろうなって、ずっとそう思っていたのだ。だから……
たった、それだけのために悪意をぶつけた。それは生まれて始めてのことだった。快楽のために誰かを殴っている。満たされると思っていた心からは、何かが溢れて行った。ぽっかりと穴が空いている様で、前よりも乾いていく。
それでも、これが悪の道だと俺は信じるしかなかった。理由のない暴力ほど虚しいものはなかったからだ。何か理由が欲しかった。
理由を求める弱い心、俺は悪にもヒーローにもなれない男だった。
ローリー博士の言っていたことがよく分かる『覚悟』なんてどこにもなかったのだ。だけど、もう後戻りする道はない。
ただ、落ちていくだけだ。