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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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百合は私に恋をしない

作者: 久我走

 小さいころから付き合いのある異性の幼馴染が、私には居る。

 名を、志乃月しのつきという。

 容姿端麗眉目秀麗才色兼備文武両道。

 形や心を褒める言葉は何を言ってもピッタリ当て嵌まる様な、そんな人間。そんな少女だ。

 私はずっとそんな少女と付き合って来た。

 どういう経緯で志乃月と出会ったかは、勿論私は覚えているのだが、この前その事について聞いてみたら、彼女の方はすっかり忘れてしまっていた。

 まあ、小さい事に拘る人間ではないので、それも致し方ないとは思うのだが、それにしても少し寂しい話ではある。 因みにどういう出会いだったかというと、余り綺麗な出会いでは無かった。

 年のころは、小学に入りたてであるぴかぴかの一年。


 その頃、私は虐められていた。


 それはもう、ベッタベタなほどにベタな感じで苛めを受けていた。

 それが客観的に見てどの程度のものだったのかはわからないが、当時、私自身はとても辛かったのを覚えている。

 ワクワク気分で入った小学校で、来る日も来る日も上靴を隠されたり、机の上に蛙の死体を綺麗に五目並べされたり、蜘蛛のバラバラ死体をロッカーに悪魔儀式みたいに供えられていたり。

 小学生の、しかも一年生が考えるにしては、かなり悪質な内容のいじめを受けていた。

 しかしながら直接的な、所謂暴力の様ないじめは受けていなかったからか、私は誰に相談するでも、先生に告白するでもなく、只々それを受け入れて学校に通っていた。


 そしてとある事件が起きる。

 小さな頃の小さな事情の小さな事件。

 だけどそれは、私に取って一大事件であり、少なくともこの齢までには色濃く残る出来事だった。



 §



 いつもの様に、下駄箱にある筈の上靴が消えている事に気付いた登校の朝。いつもの様に近くにあるゴミ箱に適当に捨ててある上靴を見つけ、いつもの様に溜息をつく。

 洗っても洗っても落ちない汚れの残った上靴に、今日また新しく汚れが追加されている。

 そうやって、いつもの様に教室に向かう、そんな朝だった。

 子供の、しかも少年か幼年かと云った年月しか重ねていない子達の考える苛めだ。相手の気持ちを考えるとか、その行動で自分が相手にどう思われるかとか、そういう事を度外視した、 興味だけで構成される苛め。

 だからこそ、ある意味で中高生の苛めよりも、もっと手ひどいものとして昇華され、粘着性もひと際だったのかもしれない。私の日常は、小学一年の日常はそんな陰鬱な純粋な興味による害で構成された感じだった。そんな日常に慣れるという事もなく、さりとて変える勇気も泣く。

 憂鬱な朝を受け入れながら、教室に向かったとき、彼女が居た。


 志乃月が、そこには居た。


 まあ、同じクラスだから当然居るに決まっているのだが、居る場所が問題だった。

 志乃月は、まだ人の少ない教室で、倒れている男子生徒の頭の上に両の足を乗っけて居たのだ。

 クラスに居るのは三人。私を苛めている主犯格三人だ。

 そして、視界に入ってくる情景の一つに、机の上に置いてある何か黒くてデカい虫の様な生物の死体がある。勿論、私の机の上にだった。

 恐らく、私への嫌がらせの為、その虫の死骸を置いていたであろう三人のいじめっ子達は、三人が三人とも教室の床にうつぶせに倒れていた。そして、その一人の頭の上には志乃月が立っていたのだ。

 混乱した。

 もうそれは、混乱した。

 教室の扉を開けるなりそんなものが目に入って来たのだから、混乱して然るべきだし、思わず『あぇっ!?』という間抜けな声まで出た。

 だが、混乱する私を確認して、混乱の元凶たる志乃月は私に真顔で宣った。

「やぁ、来住君……だったな確か。君の机の上に不逞の輩が悪さをしていたからね、とっちめてやったんだ。故に感謝を要求する!」

 繰り返しておくが、当時志乃月も私こと来住きすみも小学一年生だ。

 だが、この当時から志乃月はこんな喋り方をする女だった。容姿が静謐として儚げなのに、こんなにも凛としたキャラなのだ。釣り合っていない事この上ない。


 まあ、そんな感じで、私は志乃月と出会った。

 正確にはクラスメイトなのだから、もっと以前からお互いを認知してはいたのだが、言葉を交わしたのはそれが初めてだったし、お互い目を合わせたのもそこが初めてだったのだから、それが出会いという事で良いのだと思う。

 綺麗な、それでいて真っ直ぐな彼女の深い黒曜の瞳に、私はなんだか体の芯の部分が火照るのを感じた。

 そして、私はいじめっ子の頭の上に器用に乗る志乃月に、要求通りの言葉を送ったのだ。「あ、ありがとう」

 という言葉を。



 §



 それから私達は交流を深めていった。

 ただのクラスメイトから、知人に。ただの知人から、友人に。ただの友人から、腐れ縁に。そして、只の腐れ縁から、親友になった。

 小学で出会った私達は、中学も高校も一緒で、果ては今現在通っている大学までも同じ所だ。

 別段お互い特に無理して合わせたとかそういう訳ではなく、純粋に互いに目指していた場所が近く、近い程度の頭と、近似値な努力を積み重ねるタイプだったという、そういう話。

 腐れ縁の親友。

 それが、彼女と私との関係を言い表すのに、一番正しいのだろう。


 だけど、多分お互いがお互いに抱いている感情だけは、どこまでも徹底的に食い違っているのだと思う。

 他人の心なんて明確に覗けるわけもないのだから、私は彼女の心を推測する事しか出来ないのだが、それでもどう足掻いても、分かってしまう事というのはある。

 志乃月は、きっと私の事を先ほど言ったような腐れ縁として、異性の親友として、そう思ってくれているんだろう。

 だが、私はそうは思っていないという話だ。


 正確には、それだけが彼女に抱く感情の全てではないという、そういう意味合いで。



 §



 大学の授業が終わり、一緒に帰ろうという志乃月を待って、構内に幾つか存在する喫煙所でタバコを吸っていた。肺まで煙を入れ、吐き出す。その単純行為に無上の快感を覚える。

 喫煙所に私以外に他人はおらず、少し匂いが独特な煙草を、備え付けの椅子に座って存分に楽しむひと時。声が聞こえた。


「おーい! 来住くーん!」

 待ち人は、周りに人が居ないのをいいことに大声で私の名を呼ぶ。まあ、人が居ようが居まいが、彼女の声のボリュームは大きい方であるが。

「お待たせ―、来住君。いい加減タバコはやめなって、いっつも忠告してるんだが。健康に良くない、早死にしてしまうぞ?」

 少し男性的な言葉遣いで、人差し指を立てながら、前屈みになり「めっ!」なんてことを言いだす志乃月。

 可愛らしい仕草と、その言葉遣いが妙にズレていて、何とも言えない印象をこちらに与えてくる。

「タバコが健康に悪いんじゃぁないんスよ」

「健康がタバコに悪いんだ、だろ? 耳タコだよ。くだらない事言ってないで、即刻やめたまえ」

 私の言葉を聞き終える前に、喰い気味で否定してくる志乃月。

 まあ、本当はこうやって気にかけてくれる人間の存在に嬉しさを覚え、中々辞められないという部分もあるのだが。そんな事を言ったら、本格的にお説教を喰らってしまうだろうから、何も言わず黙って立ち上がる事にした。

「それじゃ、帰りましょうや」

「うむ、そうしようか来住君! 今日はちょっと本屋に寄りたくてね、付き合ってくれるだろう?」

「ええ、構わねぇッスよ」

 そうやって私たちは喫煙所から出て、歩き出した。

 二人で一緒に、いつもの様に。



 §



「うーん」

 志乃月は悩んでいた。場所は駅近にある本屋にある一つの棚。

 志乃月が見ている本は私以外が見れば、彼女が興味を持つ事に対して違和感を覚える類の本。

「悩むなぁ、でも今月ちょっと厳しいんだよ……」

 隣に居る私に話しかけているのか、集中している故の独り言なのかイマイチ判別がつかない呟き。

 彼女が手に取って買うか買わぬか長孝している本のタイトルは、『これで貴方も異性のハートを激掴み!』というものだ。

 要するに、恋愛指南書と云った風のモノである。

 志乃月は美形だ。

 可愛らしさと女性としての色気を持つ、艶っぽさと瑞々しさを持った、誰もが美人だと認めるような、そんな人間だ。

 言動こそ男性的というか紳士的だから、その女性らしさを存分に滲ませる外見とのギャップに最初こそ驚くかもしれないが、暫くすればそれも魅力として受け入れる事も出来るだろう。

 まあ、人それぞれの好みはあるから、もしかしたら彼女がタイプではないという人間は居るかもしれないし、性格というか性癖というか、色々な部分に難はあるし、人格者と云う訳でもないので、誰にでも好かれるという訳ではない。

 だが、美形であるという一点は、例えどの様な人間も認めざるを得ない筈だ。

 だから、彼女の様な人間が今さら恋愛がどうこう、恋人を作るのは云々なんて、わざわざ金を払って本を手に入れて勉強する必要など無いように思えるだろう。

 だが、実際は彼女にはそれは必要不可欠なのだ。

「来住君。この恋愛指南書、『これで貴方も異性のハートを激掴み! 心臓を抉り出していけ!』と、『どっこいお前の恋愛観、間違いすぎじゃない? そんな恋愛道恥ずかしすぎない?』の二冊どっちが良いと思う? 値段が対して変わらないから、どっちにしようか迷うのだが。二つは流石に買えないのだ!」

 なんかもう、インパクトを重視し過ぎて、意味の分からない方向に走っているタイトルな気がするけど、私は彼女から本を受け取りパラ見し、数秒黙考しながら答える。

「どちらも役に立たないんじゃないスかね……」

「えー、そんな事無いと思うがなぁ~」

 率直な意見をぶつけてみたが、志乃月は渋い反応を示してくる。

 だが、私の意見は多分間違っていない。

 何故なら、志乃月の恋愛対象は、恋をしたいと思っている存在は、そんな一般的な、ノーマルな、ストレートな指南書を読んでも余り意味がない。

 それは彼女が美形だから指南書が要らないとか、そういう意味ではなく、純然と【彼女には意味がない】からだ。


 志乃月に普通は意味がない。


「まあ、来住君がそういうのなら、従っておくかな」

 渋々と云った表情で、志乃月は両手に持っていた本を元の棚に戻す。

「さて、それではそろそろ帰るとするか。来住君、時間があるなら何処かでご飯でも食べて行かないか?」

 気づけば、確かに夕飯には良い時間だ。


 私と志乃月はお互いに親元離れて、大学の近くに安いアパートを借りて住んでいる身である。因みにその住んでいるアパートも同じ、しかも隣同士だ。

 なので、こうやって一緒に帰ったり、一緒に飯を食べたりすることも多い。

 何故そんなにも近くに住んでいるのかというと、色々事情はあるのだが、一番の理由は彼女の両親に頼まれたからだ。

 エキセントリックな性格をした志乃月をご両親はいたく心配しており、何かあった時に安心だからと私に面倒を見てくれるように頼んで来た。

 腐れ縁もここまで来ると、最早呪いだ。

「ぁいよ、勿論お供しますよ」

「うむ、では駅前の牛丼屋にでも行くか!」

 私の返事を聞いて、嬉しそうな顔で志乃月は提案する。

「いいですね。賛成です」

「よし! では行こう!」

 可愛らしい笑顔で、紳士の様な口調で、何処か冷たい響きを持った声色で。何もかもがちぐはぐなのに、整っている志乃月。

 そんな彼女をまぶしく感じて、私は目を細めた。



 §



 私は余り夢を見ない。

 これは言葉のままの意味で、眠った時に夢を見る事が無く、ぐっすりと深い眠りに入ってしまうのだ。

 前にとある親密な女性にこの事を話した時、「あんたはいつも疲れた顔をしているからな。きっと寝てる時だけなんだろうよ、しっかり休めるのがさ」と言われた。

 そうだろうか。

 私は、いつも気を張っているのだろうか。


 志乃月の前でも、そうなのだろうか。





 ドタンバタンというやかましい音が耳に入ってくる。其の騒々しさに、目が覚めた。

 壁がそこまで厚いわけではなく、防音性の低い安アパート。騒々しい音の元が、隣の部屋だという事はすぐに分かった。

 私の住むアパートは、大学から徒歩十分程度の場所にある。二階建てのアパートの最上階の端が私の部屋で、その隣が志乃月だ。必然、この騒音は志乃月が起こしているものという事が分かる。

 一体この音は何事かと思っていたら、壁が強めにノックされた。

『来住君! 来住君!! 起きているかい起きているだろう起きているんだな! ちょっとこっちの部屋に来てくれ!』

 なんだか、何か重要な出来事が起きた様に、壁越しに大声を上げる幼馴染。

 取り敢えず、下の階の人間や彼女の部屋の隣に迷惑だし、このまま無視するわけにもいかない。

 一つ溜息を付きながら、寝起きの頭を振って覚ます。

 そうして、彼女の部屋を訪ねる為に布団から身を起こして身支度をした。



「来住くぅうん!! 遅いじゃないか! 着替えなんてしなくていいから、早く来てほしかったよ!! そしておはよう! 昨日ぶり!!」

「おはようじゃないスよ。朝っぱらからなんなんですか。ちょっと、声のボリューム落として」

「すまない! 緊急の用事でな!! つい大声を出してしまったのだ!! 申し訳ない!!」

「だから声のボリューム落として……」

 なんで朝からこんな元気なのだろう。元気なのは善き事哉ではあるが。

 ドアを開けて出迎えてくれた可愛らしいパジャマ姿の彼女と、そんなやり取りをしながら部屋に入る。

 間取りは自分と同じワンルームだが、家具がお洒落でベッドなんかもあるから、なんだか全く違う部屋模様だ。

 自分は布団だし、家具も適当だから無味乾燥な部屋に成ってしまっている。不便さは無いから、別に構わないのだけど。

「それで、なんであんなにどったんばったん大騒ぎしてたんスか? ゴキブリでも出ました?」

「ゴキブリなんぞただの虫だ。拳で潰し殺せば終わるさ。そんな事で君をよんだりはしないよ!」

 拳で潰すのは止めて欲しい。グロい。

「実はだな、朝起きて、つい今しがた携帯を確認したらな、女子からメールが来てたのだ! 嬉しくてつい部屋中で飛び上がってしまった!!」

 キラキラした瞳で、満点の笑顔で美少女が言う。

「前々から気にかけてた、複数の講義でよく隣の席になる子でな! 真面目ないい子なんでお昼を一緒に食べたりなんかもしてたんだがな。そんな子から、しかも向こうからメールをくれるなんて、嬉しくならない筈がない。そう思わないか来住君!」

「あー、まあ、ソッスネ」

「反応薄くない!? 薄味ポテトか君は! 低脂肪ポテチか!!」

 よくわからない突っ込みを親友から受けながら、私は思う。

 また(・・)か(・)と。

 感情をそのままに表した顔面を晒しそうになる己を自制しながら、代わりに呆れ顔を張り付ける。

「それで、内容はなんだったんスか」

「うん、まだ見てない!」

「見てねーのかよ、せめて見てから呼べよ。そもそも、女の子からメールが来たから事実だけ切り取って既に喜んでるとか、童貞の男子高校生かよ」

「うぐっ!」

 思わず強めに突っ込み。

「冷たいな来住君……っ!! い、今から見るよ。さーて、なにかなっとー」

 今どき若者にしては珍しい、折り畳み式の携帯をカチカチと操作しながら、志乃月はメッセージを画面を見る。

 対面して立っているので画面は見えないが、志乃月が文面を目で追う様子は見て取れた。

 そして、その表情が曇っていく様も。

「志乃月?」

「……」

 先ほどまでの浮かれた様子は消え去り、表情は深刻なモノへと塗り替わる。

「うん、来住君。君は今日は講義が午後から一つだったね。それも出席を取らないやつだ」

「え、そッスけど」

「ではその講義はサボり給え。私も今日は全てゲリラ休講する事にする」

 そう言いながら、彼女は携帯の画面を見せてくる。

 そこに映ったメールの内容は端的なものだったが、それだけに切羽詰まった文面で―――


≪志乃月さん突然すいません。私の命を、助けてくれませんか? もし話を聞いてくれるなら、今日のお昼頃に大学の食堂で。お願いします≫


 ―――そう、書いてあった。


「……なんスか、これ。悪戯?」

「いや、そういう人じゃあないよ。三並さん。この子の名前なんだが、三並さんはジョークの類でこういうことをする人じゃない」

 志乃月は固い表情で、身支度を始める。

 顔を洗ったり、冷蔵庫を漁って適当な携帯固形食を口にしながら、話を続ける。やることを決めてからの彼女の行動は、とても早い。

「どちらかというとこういう悪戯を受ける側の人間だ。言葉を飾らずに言えば、地味で目立たないタイプだしな。だからこそ、そそる。ああいう子の心を開いてくれた末での笑顔は、もう堪らないものがあるぞ」

 淡々とした調子で、何かとてもズレた事を言う志乃月。

 まあ、そこについての追及はまた今度にしよう。状況が状況だし。

 そして、彼女は話しながら寝間着のままの衣服を脱ぎ始め―――。

「ちょいちょいちょっちょい!?」

「ん、なんだ? どうした?」

 私の驚きの声に、志乃月はきょとんとした表情で疑問符を頭の上に浮かべる。

「いやいや、私もまだ居るのに、服を脱ぐのは勘弁してくだせぇよ」

「なんでだ? 別に、私の下着やら裸やら見たって、君にとってはどうという事もないだろう?」

 どうという事大ありだ。何を言っているんだこの痴女は。

「いくら昔からの友人と言ってもですね。女性としての慎ましさとかそういうのは持ちましょうや」

 動揺を必死で抑えながら当然の指摘を、目の前の艶姿を披露しようとする輩に行う。

 しかし、志乃月はその言葉に対して、さも平然と返す。

「私は女性であるという事の前に、志乃(・・)()と(・)いう(・・)人間(・・)だ。その、志乃月という存在が、来住という親愛なる腐れ縁に対して裸を見られようが気にしないと思っている。その事の方が重要なのではないか?」

 これだ。

 これが、志乃月のこれが、私を困らせる。

「そもそも、そんな事を言ってないで急ぎたまえ。君も支度は必要だろう? さっさと部屋に戻り給え。私は、女性との待ち合わせには二時間前には行く派なのだ!」

 どちらかというと遅刻常習犯な癖に、彼女はそんな適当な事をのたまう。

「あのっスね。そもそも、一緒に行くなんて返事、一言もしてねぇんですが?」

 しかめっ面を作りながら、私は志乃月に言葉を返す。

 しかし、彼女は妙に自信に満ちた顔でドヤ顔をしながら。いつもの様に、言うのだ。

「なんだ、来てくれないのか?」


 ああ、悲しいかな。

 その言葉に対して自分が返す言葉も、いつも通りのものなのだ。



 §



「そもそも、命を助けるって、何事なんスかね」

「さぁ、分からないな!」

 あっけらかんと言い放つ志乃月に、私はもうため息をつくしかない。

 結局志乃月のドヤ顔からの一言にNOの一言を出せなかった私は、こうして彼女についてきている。

 場所は大学の食堂。二階建ての広めの食堂で、清潔感あふれる内装に多くの椅子と机がある為、お昼時の利用者はとても多い。

 まあ、肝心の出てくる料理は平々凡々で美味いとも不味いとも言えない、『THE・食堂』といった体なのだが。結局我々の様な年代の人間にとっては、そこで食べる物の味より、仲のいい人間と落ち着いて喋れる空間のほうが大事なんだろう。

「さっきも言ったが、三並さんの性格からして冗談やオーバーな表現というわけでもないだろう。だから、本当に命の危機の可能性が高い!」

「命の危機って……。一介の女子大学生にいったい何があるってんスか」

「さぁ、分からないな!!」

 二度目の分からない宣言。

 まあ、話を聞いてみない事にはどうしようもないか。

 お昼頃に来ると言っていたが、現在の時刻は十時前だ。まさか本当に待ち合わせの二時間前に待機する羽目になるとは思わなかった。

「来住君! 時間までまだあるな! 暇だな!」

「そっすね」

「この無駄な時間を過ごしているということに、罪悪感を覚えるな! 特に君も私も授業をサボるつもりでここにいるわけだからな! 不良大学生だな!!」

「そっすね。誰の所為だと思ってるんスかね」

「はっはっはっは!!」

 笑い事じゃねぇ。

 また一つ、ため息をつきながら、頬杖をついて志乃月へと視線を向ける。

 彼女は先ほどまでのパジャマ姿では勿論なく、やや男性的な服装をしている。

 白いシャツにチノパンツ。それらは彼女のスレンダーな体の線と併せって、とても合ってはいて、加えて肩までセミロングの黒髪を灰黒いキャスケットに収めた姿は中性的な要素を高めていた。

「また、新しい服買ったんスね」

 多分、卸したてだろう。彼女は動きやすい恰好を好むから、自分の整った容姿を活かした女性らしさを際立たせる服をあまり着ない。スカートを履いた姿なんて、いつから見ていないだろう。

 だが、何を着ても、どう組み合わせても志乃月になら似合う。そう思う。

「おっ、気づいてくれるかい? この前いつもの服屋で安売りしててね、つい買ってしまった! どうかな、おかしくはないかな?」

「似合ってますよ、とても」

「そうか!! ありがとう!」

 はにかみながら、志乃月は笑って礼をよこす。

 裏表のない。屈託のない笑顔というやつそのままの表情に、自然こちらも顔が綻んでしまう。

「この帽子も気に入っててね! なんだっけ、マスカットとかいう帽子だっけかな」

「キャスケットです、気に入って貰えてたならよかったです」

「まあ、君がくれたものだ、気に入らないわけがないけどね」

「そ、っすか。どうも」

 不意打ち。

 去年の彼女の誕生日に、何か贈り物をと思ったときに選んだものだが。こうも真っすぐ言われると気恥ずかしい。

「しかし来住君、ここから二時間も我々は何をして時間を潰せばいいのかな?」

「だから早く来過ぎだといったんスよ……。そうっすね、何か飯でも―――」


「あの、すいません」


 そこで、背中から声をかけられた。

 か細い、けれど不思議と聞き取りやすい声。

 女性の声だ。その声の主の顔を見て、志乃月は顔を輝かせる。

「やぁ! おはよう三並さん! 待ってたよ!!」

「すいま、せん。時間、こんなに早くいらっしゃってるとは……お待たせしてしまいましたか?」

「いやいや、勝手に早く来ただけさ! 気にしないでくれ給え!」

 私も相手の事を視認するために、後ろを振り返る。


 黒い人だった。


 正確に表現するなら、黒づくめな服を着た女性だった。

 黒いパーカーに黒いフレアスカートに黒髪ロングの黒縁メガネ。

 とにかく身に着けてるモノが黒で統一された女性だった。

 その所為なのかなんなのか、本人の表情も少し暗い。

 元々地味な印象を受ける容姿ではありそうだが、黒づくめな姿の所為で、更に目立たないイメージを受ける。

 雑踏に紛れて消えそうな。

 大衆に隠れて消えそうな。

 だけど、他人の悪意に晒される時だけは、その黒が映えるような。

 三並という人は、そんな女性だった。

「あの、志乃月さん、そちらの方は……」

 と、少し三並さんの事を見過ぎていたのか、向こうは訝しげにこちらに視線を向けてくる。

「ああ、彼は私の大の親友の来住君だ! 話の内容次第では彼にも協力してもらおうと思ってね!」

「どうも、来住ッス。よろしくお願いします」

「あ、は、はい……よろしくお願いします」

 三並さんは、挨拶を返してくれるが、不信感は拭えないようだ。まあ、そうだよな。私はお世辞にも柄がいいとは言えないタイプだろうし、彼女の様な人は少し苦手に思われるタイプかもしれない。

「安心してくれ三並さん! 来住君はこんなちょっと荒んだというか擦れたというかなんというかな目とかオーラに、ちょいとだらしない姿になんだかチンピラみたいな口調、もうなんか、紳士ではないのは当然として、かといって無頼漢というほど荒れてもいない、非常に微妙な存在だが信用にたる良い奴な事だけは確かだ!!」

「おい、言いたい放題かオイ」

 そこまで言われる筋合いはない。ちょっと擦れたどこにでもいる男子大学生だ。極めてまともだ。

「大丈夫です。志乃月さんが、信用される方なら。あの、大丈夫ですから」

「うむ! じゃあ、問題ないということで。さっそく話を聞こう! その前に、朝ごはんにしよう! おなか減ったし! 店員さーん!!」

「ここはファミレスじゃないんスよ。食券を買いに行って下さい。三並さんもどうぞ、とりあえず座ってください」

「は、い。有難うございます」

 気弱な雰囲気。地味目の容姿。そんな彼女が、命を助けてくれと人に助けを求める事態。

 椅子に座る三並さんと、食券売り場の機械に早歩きで向かう志乃月を交互に見ながら。

 私は今更ながらにして、厄介事に首を突っ込んだ予感をひしひしと感じていた。



 §



「初めて彼と話したのは、サークルの飲み会でした」

 遅めの朝食、もしくは早めの昼食を志乃月が済ますのを待った後、三並さんは事の詳細をぽつりぽつりと語り始めた。

「私は大学のボランティアサークルに所属してて。同期のメンバーの中に、彼が居たんです」

 ボランティアサークル。

 また、なんだか地味な印象の彼女にはピッタリというかなんというか。

「うむ! ボランティア活動か! 控えめで落ち着いて視野の広い三並さんにはピッタリだな!」

 うぉう、物は言いよう。いや、寧ろ私の評価が失礼に過ぎてるか。

 三並さんは志乃月の賞賛に、少し恥ずかしそうにしながら話を続ける。

「その日は老人ホームで大学の名を借りてお手伝いをするという活動で。終わった後に、その打ち上げというかなんというか。親睦会みたいなのがあって。そこで、彼に出会ったんです」

 曰く、三並さんの話によるとだ。

 三並さんは普段は飲み会の様の様なモノには極力参加もせず、メンバーとの交流も、そこまで活発にしていたわけでも無かった。しかし、その日はサークルのほぼ全員が参加しており、自分も折角だからという理由で参加したそうな。

 その日は少しだけ勇気を出してみた、と。

 しかしながら、飲み会の席では案の定浮いてしまい。気を遣って話しかけてくれる人は居ても中々巧く返せず。始まって三十分もした頃には家にさっさと帰りたい気持ちになっており、実際用事があるという事で抜け出そうとした。

 そこで―――。


「彼が話しかけてきてくれたんです」


 そこで、彼女は微笑した。

 嬉々として。


「彼は、塚本さんは話の巧い人でした。言葉足らずで会話下手の私に対しても、凄く丁寧に接してくれて。初めは戸惑っていた私も、段々楽しい気持ちになってました」

 塚本氏とは色んな話をしたそうだ。

 趣味の事や、専攻科目についてや、講義の愚痴。

 最近の世情についてや政治についてやスポーツについて。

 何故ボランティアサークルに所属しているのか。三並さんも塚本氏も、お互いサークル活動自体よりも、サークルに所属しているという事実が欲しくて此処に居るという事。

 俺達、しょーもないよね。とお互い言い合って笑いあう。

 そして、お互いの交際関係についてまで、話は発展していった。

「彼は今はフリーだから、気楽だよと笑っていました。私は、こんな人間ですから正直その様な経験は一切なくて、その事についてもお話しました」

 そうしたら、塚本氏は意外そうな顔で、『三並さんモテそうなのにね! 俺、立候補したいな~』と言ったらしい。


 おべっかだろうな。


「塚本君とやらは、とても素直で真っ直ぐな人なのだな! 本人に対して魅力的であることを伝えるのは良い事だ!」

 お世辞をお世辞と捉えず素直に受け取るタイプな志乃月が、笑って言う。

 どう考えても、女性とワンチャン狙う野郎の行動だ。

 地味だか崩れている訳ではない容姿の女性。飲み会でうまく話せず孤立するような人間で、恋愛経験も無い。後腐れなく性欲を満たすには丁度いい存在。

 塚本という男は、三並さんをそう捉えたのだろう……などと思うのは邪推だろうか? だが、可能性としてはなくはない、そう思う。

「その飲み会の日は、連絡先を交換する程度でそのまま解散したんですけど、その後も何回か彼と個人的に会うようになったんです。たぶん、その、世間一般的にデートというモノだったのかな、と……」

 三並さんは、そのデートとやらの風景を思い出しているのか、幸せそうに頬を染めて小さく笑う。

 その控えめな笑顔に、志乃月はデレデレと頬を緩ましている。こいつは今、多分話の内容とか聞いて無くて、三並さんの笑顔に興奮しているのだろう。

 そんな二人を見て、私は無表情になってきてしまう。

 だが、そこまで楽しそうに話していた三並さんだったが、元の暗い表情に戻る。

「だけど、彼と一緒に出掛けてから数か月経った位から、彼がおかしくなっていってしまったんです」

「おかしく、ッスか?」

「はい。明確に、おかしく。というよりは、異常に」

 そうして、彼女は話の核心について語り出す。


「同じような内容のメールが来るようになったんです」

「始めは一週間に一度程度。しばらく経ったら三日に一度。そこから一日一度。午前中と午後に一度。一時間おきに一度。三十分毎に一度。十分毎に一度」

 彼女は暗い表情で、顔を俯かせていく。その所為で、表情が見えなくなってしまう。


 何を考えているのか読み取れなくなってしまう。


「メールの内容は、大体似た様なものでした」

「今どこにいるの?」

「今なにしてるの?」

「今誰かと会ってない?」

「今講義中だよね?」

「今ご飯食べてるでしょ」

「今人と会ってるんだね」

「今」「今」「今」「今」「今」「今」「今」「今」「今今今今今今今今今今今」

 俯いた紙の隙間から、少し除くことが出来る彼女の目は虚ろになっていく。暗い穴の様な瞳。

「それは、なんというか……」

「塚本君、こまめにメールをし過ぎではないか!? 几帳面なのか!?」

「ちげぇよ、そういう事じゃねぇよ」

 強めに突っ込み。

「私も、初めの時は余り疑問も抱かなかったんです。私は対人関係が希薄でしたから、名言はしてなかったですが、付き合っている様な仲であったら、そういう事もあるのかと。だけど、流石に段々増えていくこのメールの量はおかしいと、そう思って怖くなってきて」

 虚ろな目は下を向いたまま、言葉を垂らしていく。

「それで、今日の朝送られて来たこのメールを見て、限界で……誰かに相談したくて、それで迷惑だとは思ったんですけど、頼れる相手が他に居なくて。志乃月さんに」

 言いながら、彼女は携帯を取り出し見せてくる。

 スマートフォンの画面に写されたメールの文面は、端的に一言。


≪明日会いに行く 殺しに行く 待ってろ≫


『……』

 私も志乃月も、押し黙ってしまう。

 殺害予告? 何故? 何がどういう経緯で?

 意味も流れも分からない。話が急展開過ぎる。

 ワンチャン狙って近づいていた女性に、予想以上にのめり込んで、束縛しようと思って束縛が行き過ぎて、殺害予告……?

 そんな、単純で頭のおかしい結論に、人はこんな簡単に行き付いてしまうのか?


 違和感。


 ざらりとした引っ掛かりを覚える。三並さんの話、その全体に何か気持ちの悪いモノを感じる。

 それが何か、掴めない。

 不快感が強くて、違和感が覆い隠されてるような。


「……そうか。それは、それは本当に辛かったな三並さん。よし、話は全てわかった理解した! なんとかしよう!」

「え、ぁ、え? なん、なんとかって、どうするんですか?」

「大丈夫!! 取り敢えずその塚本君に会おう! 彼が明日殺しにくるなら、その前に止めておけば何とかなるだろうから、その方針で行こう!」

 志乃月はそういうと、席から立ちあがる。

「じゃっ、後は大船に乗ったつもりで任してくれたまえ三並さん! 嗚呼、一応安全の為に三並さんは家で大人しくしてた方がいい! 来住君は彼女を送ってあげてくれ! あと、塚本君の連絡先とか住所とかその他諸々必要な情報は全部後で私にメッセージで送っておいてくれ!! じゃっ!」

「え、ぇえ、……ぇ?」

 そして、何か言う前に志乃月は嵐の様に去って行ってしまった。

 困惑する三並さんと、いつもの事過ぎて最早渋い顔で見送る以外出来ない私を置いて。

「あの、志乃月さんが、あの……」

「大丈夫ッスよ」

 志乃月が出て行った食堂の出口と、私を交互に見て動揺する彼女に言葉を掛ける。

「あれは取り敢えず行動して失敗したら次のアプローチを。っていうタイプでしてね、その所為で他人に迷惑も掛けますが大体は巧く行きます。安心してください、私もフォローしますし」

「そ、う、なんですか?」

「そっスよ」

 そうなのだ。志乃月はアレで問題ない。彼女は阿呆だ。頭はいいのだが阿呆なのだ。

 行動する事で強引に物事を解決していく。突っ走っていくことで問題を置き去りにしてゴールにたどり着く。だからこそ、その粗いやり方で出来た傷は私が治せばいいだけだ。

「取り敢えず、色々問題はあるんですけど、それらは置いておいて、一つまずあなたに頼みたい事があるんスよ」

「は、い。なんでしょうか?」

 突然の出来事で困惑して、呆けてしまっていた状態から、私の言葉で三並さんは自分を取り戻す。

 そんな彼女に、私はずっと我慢していたことを告げる。

「実は私も腹減ってたので、食堂ですし飯とか喰ってもいいスか?」

「……あ、はい、どうぞ」

 腹が減って戦は出来ない。

 誰でもわかる、今日明日は面倒な日になる。だから今のうちに体力だけはつけておこう。

 そう思いながら、溜息を吐いて食券を買いに行くことにした。



 §



 昼食を取った後、授業に出るというので、三並さんとは一度別れる事となった。

 こっちはゲリラ休講しているのに、彼女はしっかりと出席点を稼ぐという事に何か腑に落ちないものがあるが、止める訳にもいかず見送ることにした。

 話を聞いてる間に昼はとっくに過ぎ、時刻は午後の二時過ぎ。どうせ今から講義に行っても欠席扱いとなっている訳だし、志乃月に言われた通りに三並さんを送り届けるにしても、時間を潰さないといけない。

 本当はもう少し情報収集なんぞをして行動をすべきなのだろうが、それらは全て志乃月が担うだろうし、私は巻き込まれた立場なので積極的に動く気にもなれない。

 と、すればだ。


「ども、お邪魔しますよ先輩」

「邪魔をするなら帰ってくれ」

 私の暇潰し場所の一つ。それは大学のサークル棟にある、とある部室だ。

 私はそのサークルの一員でもなんでもないが、そこの幹事である人間と懇意にしてるため、何か時間が出来るたびにここを訪れている。

「相も変わらず冷たい反応っスね、機嫌が悪かったりします?」

「バカを抜かすな。私はいつでもどこでも上機嫌だよ」

 その幹事殿が目の前の女性。萩原琳奈先輩である。

 美人である。

 志乃月とはまた違う、鋭く尖った印象を相手に与える美人である。

 鋭い目つきに、気だるげなオーラ。周りを寄せ付けない空気を纏っている。

 黒と白を基調とした清潔感のある服装、短めに切り揃えられている髪と、クールな印象。

 志乃月も容姿にその様な要素があるが、彼女は性格や言動、オーラがあの始末なので萩原先輩とはまた食い違ってくる。

「ほかの諸先輩方は居ないんスか?」

 そこそこに広い部室を見渡しても、他のサークルメンバーは来ていない。適当な椅子に座りながら、私は尋ねてみる。

 部室の内装は、調度品や生活用品、娯楽物などがしっかり整理整頓されていて、非情に居心地の良い空間となっている。ここで寝泊まりも出来るだろうし、実際その様な行為に及んでいるメンバーも居るらしい。もっとも、大学の規則は反している訳だが……。

「多分皆講義やらなんやらだろう。今日は朝から誰も来ていない」

 先輩に目を向けると、窓際の椅子に座って何かの本を読んでいる。

 昼下がりに読書にふけるクールビューティー。中々に絵になる光景だ。

「それで? 今日は何の用なんだ、来住。講義のある日じゃないか? サボりは感心しないな」

 と、絵になる彼女をぼんやり見つめていると、本を閉じてこちらに視線を向け、ついでにお小言も寄越してくる。

「あー、また志乃月が本能に従い厄介ごとに突っ込んでいきまして、つき合わされまして泣く泣く」

「それとこれとは別だ、講義は受けろ。巻き込まれる前に断れ。単位を落とすぞ」

「すんませんッス……」

 真面目な先輩に、ご尤もな正論で普通に叱られてしまう。

 うん、まあ実際志乃月に付き合う義理は無かったのだ。義理は無かったのだが、情があった。

「まあいい。此処に来たという事は、時間つぶしか? それとも、私に、いや、私たち(・・・)の(・)サークル(・・・・)に相談事か?」

 サークルへの相談。

 萩原先輩が幹事を務めるサークルは、【地域環境保全同好会】という名称だ。

 名前だけ聞くとボランティアサークルの様だが、実際は違う。これを言うと『そんな扱いは不快だ』と彼女は怒るのだが、要するに≪学生の便利屋さん≫だ。

 学内生徒やスタッフ、地域の住民や自治体。色々な立場の人達から、学生レベルで解決できる問題についての相談を受け、場合によっては解消する。

 生徒の恋愛相談や、大学のスタッフからの雑用。地域住民からの依頼で公園のゴミ掃除をする事もあるし、自治体の要請で交流イベントの運営を行ったりもする。

 小規模ながら意外と頼られる実働的なサークル。それが、地域環境保全同好会。通称【エコ会】だ。

 私が先輩やこのサークルと懇意にしているのは、よく相談事を持ち掛ける事が多いからだ。

 主に志乃月の所為で。


「なる程な」

 水を向けられた私は、三並さんの一件を要点だけを纏めて話した。本当は相談をしに来たわけではないが、折角頼れる先輩が居た訳だし話すだけならタダなのでしてみた次第。

「大変だな、頑張れ」

 ……。やっぱりタダだとダメだった? お金払わないと明確なリターンが来ない感じ?

「あ、あの、先輩。三千円位なら手持ちがあるんスが、それでもう少しマシな回答を……」

「いらん。当サークルは営利目的の活動はしていない」

 冷たくピシャリと云い放たれる。

 此処に居るのが副幹事とかだったら、もう少し熱心に話を聞いてくれるのだが。まあ、あの人はあの人で熱血過ぎてのめり込み過ぎるから、逆に事態が悪化する事もあり何とも言えない。

 と、私が落胆していると、萩原先輩は少し姿勢を正しながら体を向けてくる。

「というより、来住。お前実際、その三並とやらの抱えてるトラブル。その中身の部分は察しては居るんだろう?」

「……」

 先輩は鋭い目を更に細めながら、私を見遣ってくる。何を言いたいのかはわかるよな? とでも言いたげに。

「なんで分かっているのに志乃月を止めなかったのか。あいつも中々に阿呆な子だからな、突っ走っていくのを止めるのはお前の役目じゃないのか?」

「いや、そんな人を保護者みたいに」

「保護者だろ。赤子は保護してやれ。知らんぞ、親の見てない処で大怪我をしてしまっても」

 この人も嫌な例え方をする。そりゃ不安だ、私だって彼女が走っていくのを見るのは不安だ。だけれども、それを止める事は出来ない。

「いやぁ、なんつーか。私は、志乃月の好きな様にやって欲しいんスよ。結果が分かってても、あいつが走りたいっていうのなら、転ぶのが分かってても口は出せないじゃないですか」

「やっぱり保護者だな」

 先輩は呆れたように溜息をつく。

 だが、慈愛を感じる瞳でこちらを見てくれていた。

「大変だな、来住。志乃月みたいな真っ直ぐな人間に振り回されるのは。貧乏くじを盛大に引いているようなものだ、毎日が大凶だ」

 慈愛の瞳は一瞬だけで、ニヤリとした意地の悪い笑みを彼女は浮かべていた。

 整った容姿でそんな顔をされると、なんだか変な趣味に目覚めそうだ。

「だけど、運勢は最悪だが、楽しいもんだよな。そういう日々は」

「そッスね。ほんと、それは、そうなんスよねぇ」

 嗚呼、悲しや。

 嗚呼、哀れだ。

 志乃月と一緒に居ると、いっつもグルグル遠回りをし続けている気分になる。

 目的地はすぐそこなのに、彼女は遠回りをする。ゴールは見えているのに、無駄に走行距離を増やす。

 何故なのか?

 何故なのだろう。

 簡単な事なのだ。


 彼女は優しいのだ。


 志乃月は優しい。本当は分かっているのに、結論はとっくに出ているのに、答えを理解できてしまうのに。

 だけど悩む。

 答えが完全に出てしまう、その前で誤回答を求め続ける。真実とは違う答え、優しい嘘の答え。

 真実は残酷だから。事実は冷酷だから。

 だけど、その残酷性が一面でしかない事にも、彼女は優しいから気付いている。


「それで? いつまで付き合うんだ、その厄介事に」

「志乃月が納得するまで」

 聞かれ、すぐ答える。

 答える事が出来る。

「三並という女生徒に恋人が出来た。しかし、その恋人は想いを拗らせて彼女に異常な執着を見せる。最早それはストーカーというべきレベルに。そして、ついにその想いは猛り狂い、彼女を殺害するという意志を見せる。それは独占欲かはたまた別の狂性か」

 先輩は冷めた瞳で無表情に言葉を紡ぐ。

「いや、本当に。三並は他人との交友関係が希薄なのだな。そうでなければ、そうじゃなければ何処かで気付いただろうに。何処かで、違和感に気付けただろうに。人と関わってこなかったから、人の機微が分からないんだな」

「そッスね……」

 誰でも分かるシンプルな話なのだ。

 違和感に、考えれば経験に基づいて気付けるはずなのだ。でも、その経験が無いから、ベースが無いから。

 人の心が分からないから、三並さんは気付けない。


「ま、なんとかしますよ。今頃志乃月はそのストーカー恋人さんにアタック掛けてるでしょうし」

「羽交い絞めにして連れてきそうだな、割とボコボコになってる可能性もある。そのストーカーさんに同情する」

「嫌な事言わないでくださいよ」

 しかも現実性の高い事を。

 と、そこでキーンコーンカーンコーンと鐘が鳴る。

 どうやら講義が終わった様だ、三並さんも帰る頃だろうし送ってあげないと。

「それじゃ、有難う御座います先輩。また今度」

「ん」

 彼女は短く返して、また読書に戻る。

 なんやかんやしっかり話を聞いてくれて、ある程度ヒントもくれる。彼女もまた、優しい人間で、お節介焼きだ。まあ、だからこそこんな奇特なサークルの幹事なのだろうけど。

 そして、そういう人だからこそ、私は彼女を好ましく思っている。

「なぁ、来住」

「はい?」

 部室のドアを開けて、外に出ようとノブに手を掛けた瞬間声を掛けられる。

 振り返ると、彼女は本に目を落としながら言葉をくれる。

「大変だな、頑張れ」

 先ほどと同じ言葉。だけど、その声色はとても優しかった。



 §



 昔の話だ。


 志乃月と私が出会って数年経った頃の話。受験を乗り越え、高校に進学したての頃だったと記憶している。

 志乃月は学校という世界、あるいは社会の中で常に良い位置に座している存在だった。

 容姿が整っているという時点で男子の受けは良く、性格が真っ直ぐで含みが無い為女子にも頼りにされていた。最も、あの性格や奇抜な行動の多さから、多少なりとも変人の誹りは表立って受けてはいたが、それでもクラスや学年の中心人物の一人として、日々過ごしていたと思う。


 対して自分はどういう立場であったかというと、中途半端に不良な生徒だった。

 制服を多少着崩し、口調を若干無頼に。髪も少し染めていた。自前の目つきの悪さも相まって、少し浮いた存在ではあったと思う。

 その癖授業にはしっかり出席し、試験の成績も平均点以上は取り。煙草も酒もドラッグもやらなかったし、暴力問題も起こさない。教師から『お前は見た目に反して優等な生徒だな。寧ろ、なんで中途半端に外れてるんだ?』と半笑いで言われた覚えもある。

 理由はない。小学で虐められていた反動でそうなったのか? と問われても、是であるとも否であるとも言えない。

 中学辺りから、来住という男はそういう人間になっていたのだ。それが、自然な成り行きだった。


 そして、そんな私と志乃月の関係もまた、小学の時代から余り変わらなかった。

 志乃月は私に構いたがり、私は志乃月の傍に何時の間にか立っていた。

 周りの人間に噂を立てられたり、付き合っているものとして扱われた事もある。その度、私も志乃月も只の友人である事を説明していたが、段々それを否定するのも面倒になってきていて、放置していた時期なんかもあった。

 でも、最後にはその様な邪推をした人々も皆納得する。

 志乃月と私が恋人関係にある事は在りえないと。明確な理由があったから、それを理解されてしまう。

 そして、その理解に至った人間は志乃月に対する見方が例外なく変わって来た。それはいい方向に転がる事もあったし、都合の悪い方に転がることも在った。だが、生来の彼女の性格と交友の巧さのお蔭で、それが重要な問題になる事はほぼ無かった。

 実際志乃月という女性は、手ひどい疎外を受ける可能性を多大に持った存在ではあったのだ。

 恵まれた容姿。変わった性格。広い交友関係。特筆すべき頭脳。

 そして、明確な特異性。

 だが、彼女はそれら全てを内包しながら、他者に受け入れられ続け、中心で在り続けた。それは、凄い事なのだろう。そんな彼女と私は一緒に居た。

 彼女と私は、親友だった。

 だから知っている。志乃月が、本当はどういう葛藤を抱き生き続けてきたのか。順風満帆で、傍から見れば光り輝く学生生活を歩んでいるように見えた彼女が、どう苦悩してきたのかよく知っている。


 昔の話だ。 


 クラスで一人のどうしようもない人間がいた。

 性別は女性、性格は陰険、生来は崩壊していた。

 学校には通わず、不登校を続け、不良としての道を歩んでいる女子だった。

 誰もが見捨て、教師が諦め、親は元より彼女に見向きすらしていなかった。だが、志乃月は彼女の為に行動した。志乃月は、彼女に向き合おうとした。

 全力でぶつかって、心を砕いて、不良少女と繋がろうとした。


 だが、結果は誰もの想像通り、何にもならなかった。


 駄目な人間というのは居る。

 どうしようもない人間というのは存在する。

 他者がどれだけ働きかけようと、結局落ちこぼれる人間など吐いて捨てる程居る。

 そこから這い上がる人間は、常に自力で無ければならない。

 志乃月は優しい人間で、お節介焼きの少女だ。

 ただの、少女だ。

 だから、不良少女は、欠陥少女は何処も修理されずそのままだった。どうにもなりはしなかった。

 彼女と志乃月が最後に会話した場面は、彼女の家だった。不良少女の部屋、その場所に私も同席していた。

 不良少女は一言、志乃月に言ったのだ。低い声で、気だるげに、哀れなものを見る様な瞳で、志乃月に言ったのだ。


「あんた、ほんっと、気持ち悪いよ」


 その一言を。


 彼女の家からの帰り道、志乃月は泣いていた。

 私は、その姿が今でも脳裏に焼き付いている。


 昔の話だ。

 だけど、志乃月は昔から、今の今まで同じことを繰り返し続けている。

 きっと、今回も。きっと、これからも。



 §



「あ、き、すみさん。お待たせしました」

「いえ、行きましょうか」

 三並さんが授業を受け終るまで、私は喫煙所で待機していた。タバコを吹かしながらボケーっとしていたら、何時の間にか授業の鐘は鳴っていたらしい。目の前には黒い姿の彼女が立っていた。

「すんませんスね。こんな煙たい所を待ち合わせにしちゃって」

「いえ、大丈夫です。タバコ吸われるんですね……」

「そッスね。ま、偶にね」

 味も素っ気もない返しをしている自覚はある。

 どうも、私はこの三並という女性に興味が持てない。別に彼女が嫌いな訳でも、好きな訳でもない。好悪の感情は一切ない。

 無関心。無興味。

 まあ、彼女も私に興味を持たれても煩わしいだけだろう。頼まれた事を果たそう。それだけでいい。

「じゃ、送りますよ」

「あ、お願いします。すいません」

「いえいえ」

 そうやって、二人で並んで歩きだした。

 どうせ明日でこの問題は終わる。結末は予想できる。だから今から考えておこう。


 泣いた志乃月をどう慰めるか、考えておく事にしよう。



 §



「……」

「……」

 会話が無かった。

 三並さんを家に送り届ける道中、気の利いた世間話でもしてやりながら彼女の緊張を解きほぐすのが正しい在り方なのかもしれないが、残念ながら今は正しい行動をする気力も気概もない。

 ストーカー容疑の塚本氏の情報は昼の内に聞き出して志乃月にはメールしておいたし、正直三並さんと会話する必須項目が無い。後は彼女と良好な関係を築くためのコミュニケーションとしての対話だが、別に私は三並さんと仲良しになりたいとも思えない。

 よって、無言のままに既にニ十分ほど並んで道を歩んでいる。

 横目で彼女の様子を伺うと、気まずそうに視線を泳がせていた。対人能力の低い人間にとって、この静寂は居心地の悪いものだろう。だが、向こうから話題を振ってくることも無い。矢張り面倒だ、このまま押し黙っていよう。

「あ、の、来住さん」

「なんスか」

 などと考えて居たら彼女の方から話しかけてきた。意外だ、自分で云うのなんだが私は他者から、特に異性にとっては話しかけにくい見た目やら言葉遣いやらなんやらをしている。

 人見知りそうな三並さんにとっては、さぞ一緒に居るのが辛い相手だろうに、まさか会話を持ち掛けてくるとは。

「そ、その、少し聞きたい事、あるんです、ですけど」

 彼女はしどろもどろになりながら、言葉を紡ぐ。

 流石にこれを無視したりするほど無関心を貫ける事も出来そうにない、対話姿勢を整え聞く耳を向けることにした。

「何が聞きたいんスか? 塚本氏のことですか? たぶん、志乃月は既に彼の家にでも行って対話してるかと思うッスよ」

 肉体言語による対話の可能性が八割程度。

「い、いえ、そうじゃなくて、彼の事ではなく、志乃月さんと来住さんの事です」

「私たちの?」

 またもや違和感。いや、もう違和感なんてものじゃない、只の確証への証拠だ。自分の推論を確定させるための、動かざる証明。

 まあいい、そんな事は。

「あの、来住さんは志乃月さんとお付き合いされているんですか?」

「していませんよ。只の腐れ縁です」

 即答。

 即否定。

「そ、うなんですね、すいません……」

 三並さんは失言だったとでも思ったのか、少し表情を歪める。別に何か不味い事を言った訳ではない、よく言われる事だ。男女で一緒に行動していて、仲睦まじくいればそういう誤解も受ける。

「その、正直今回の件、私が言ってし、しまうのも違うとは思うのですが。志乃月さんと私は多少なりとも縁はあっても、来住さんとは今日が初対面でしたし、その、あの……」

「私が貴方の送り迎え迄する義理はあるのか? ということスかね」

 はい、と震えた声での返答がある。本当にこの人は他人と会話するのが苦手なのだな。

 言葉の節々の調子が上がったり、声が上ずったり、詰まったり。相当難儀している様子がよく分かる。

「ぶっちゃけ義理はないスね。志乃月の所為で厄介ごとに巻き込まれた、ってだけッス。まあでも、本当に嫌ならはっきり断るんで、三並さんが気に病む必要は無いスよ。好きでやってる事ですから」

「あ、う、で、ですか。そうなのですか」

 なるべく当社比二割増し程度の優しい声色で彼女に答えを返す。そうだ、別に好きでやってるだけだ、面倒だなんだと云いながら、仕方ないと言いながら付き合う、やれやれまったく困ったもんだぜ志乃月さんはよ、ま、それに付き合う俺も俺だけどな! なノリだ。

 三並さんに対して興味はない。仮定の話、彼女が単体で私にこの件を持ち掛け助けてくれときたら、赤の他人の為に骨を折る事もせず、私は警察に連絡する事を勧めていただろう。だが、友人の友人は赤の他人ではない、と私は思う。協力できることがあるのなら協力する事に疑問は抱かないし、出来る範囲でなら骨も折ろう。

 それだけの話だ。

「じゃ、じゃあ。結果的には来住さんは志乃月さんが頼んだから、今こうして私の隣で歩いてくれてるんですね」

「ま、そうなるんじゃないスかね」

「そうです、か」

 そこで少しだけ、三並さんの雰囲気が変わった。

 表情をみやると、今までのおどおどしたものではなく、どこか微笑ましいものを見た様な優しい顔を。けれども、その優しい表情には明確に紛れ込む、哀切が見て取れる。


「羨ましいな」


 ぽつりと、彼女はつぶやく。

 かろうじて聞き取れる程度の、とても小さな声で。だけど、はっきりと私の耳には届いた。

 羨ましい。

 妙に、その言葉が胸をつく。



 §



「あ、此処です。この家です」

 着いた場所は普通の一軒家だった。きっと家族と一緒に暮らしているんだろう。大学から徒歩で三十分程度、この距離を毎日歩きで行き帰りするのは大変そうだ。

 結局、彼女のあの呟きの後、またもや会話は途切れ無言での移動となった。最も、それまでの無言と違い、三並さんはおどおどとした表情ではなく、何か暗く思い雰囲気のまま、何事か考えながら押し黙っていた。

 だが、気にする必要は無い。私のやるべき事は只彼女を送り届ける事だけ、考える必要は無い。抱える意味も無い。身軽で居た方が人生は気楽だ。

「本当に、わざわざ有難う御座いました」

「いえいえ。それじゃ、志乃月にも言われてるんで、一応明日も朝に迎えに来ます。では」

 そういってそのまま帰ろうとする。

「来住さん」

 背中を向けて去ろうとしたとき、三並さんに呼び止められる。

 だが、少しばかり奇妙な感覚。先ほどまでのか細い彼女の声とは違い、なんだか少し芯が通った様な。というより、張り詰めた様な通る声が耳に入る。

「変な質問なんですけど、応えて欲しいんです」

 視線を向ける。

 三並さんの表情は、暗くて重くて。張り詰めていて。だが、何故か笑顔だった。

 笑っていた。黒い彼女は、何かに対して哀れみながら笑って言った。


「来住さんは、誰かに愛された事はありますか?」


 本当に変な質問だった。

 奇矯な言動だった。

 およそ、真顔で、素面で、他人に尋ねる様な類の言葉ではない。

 きっと彼女は人と関わりが薄かったから、対人能力が低いから、会話の経験値が少ないから。だから出てきた言葉。普通面と向かってそんな話を他人には振らない。

 そう思う、そう思い込む。

 だけど、その言葉は自分にとって。私にとっては。

 俺にとって、その質問は―――。


「さぁ、分かりません。他人が自分を想ってくれてるかなんて、分かんないスよ」

「……ですね」


 私の解答に彼女は笑う。小さく、哀れみを以って。恐らくその哀れみは、彼女自身に向けたもの。


 そして私は背を向けて去った。

 背中に視線を感じたけれども、振り返る事はしなかった。



 誰かに愛された事があるのか。

 その事が分かる事なんて永遠に無い。

 他人は他人の感情が分からない。目の前で笑っている人間が、どうして笑っているのか完全に理解する事は出来ない。

 私が貴方の表情を見てアレコレ想像しても、結局それが真実であるかどうかは絶対に確定できない。

 だから、誰かに愛されているかどうか、一片の曇りなく断定する事は出来ない。


 三並さん、だからあなたの問いは間違っている。

 誰かに愛されたかどうかなんて、分からない。

 だから、誰かを愛せたかどうか、誰かを想えるかどうか。それだけだ。答えの出ない問いは、問うても仕方ない。

 いいや、多分これもきっと。

 間違った答えで、逃げなのだろうけども。



 §



 気疲れした心を引き摺って、私は自らの住む安アパートへとたどり着く。

 三並さんを家に送り届けてから、またぞろ数十分歩いて漸く目的地に到着する頃には、日はとっぷりと暮れ、既に夜になってしまっていた。

 これをまた明日、しかも三並さんは一限から授業らしいから朝早くから行動を開始しなければならないと思うと、疲れた心体が更に重くなっていくのを感じる。

 そんな這う這うの体で階段を上り、自らの部屋である二階へと帰還しようとしたのだが、そこで自分を待っていたのであろう人影が目に入って来た。

「やぁ、来住君おかえり。ご飯にするかい? お風呂にするかい? それとも、来週末に提出期限予定レポートの、資料集めを手伝ってくれたりするかい?」

「クソつまらないジョークを笑って受け流せる気分じゃないので口を閉じてくださいス」

 階段の途中に、志乃月が座って待っていた。

 スラリと伸びた足を組んで、無駄に威風堂々とそこに鎮座している。

「ははっ。ご機嫌斜めだったかい? それはすまないな。今日は君に色々面倒な事を押し付けてしまったから当然か。申し訳ない、今度埋め合わせはするよ」

「別に良いスよ。いつもの事ッス。まあ、どうしてもってんなら今度飯でも奢って下さい」

「それ位お安い御用だよ。因みにさっき言った課題の資料集めを手伝ってくれたら、そのご飯の驕りにデザートもつけてあげようじゃないか」

「そいつぁ、ありがたいスねぇ」 

 いつもの様な会話、いつもの志乃月。けれども、月明りに背を向けて座る彼女の表情は、なんだかよく分からなかった。

「それで、どうだったんスか塚本氏は。会えたんでしょう?」

「ああ、会えたよ、ちゃんと話もした」

「ちゃんと明日の殺人は止めてくださいー、と説得できたんスか?」

 冗談めかして軽めに聞いてみるが、志乃月がどういう感情を抱いたのか、逆光の所為で表情は伺えない。だが、少なくとも返ってくる言葉の温度から感じ取れるものに、楽しさは無かった。

「ああ、問題ないよ。三並さんに対して塚本君が危害を加える事は確実に無い。ちゃんと話せたからね」

 内容だけを聞けば諸手を挙げて喜んでもいい筈なのに、志乃月の声はどこか空虚だ。

 普段からやかましく、無駄に元気な彼女だからこそ、その虚ろが良く響く。

「そうスか」

 志乃月は塚本氏に会って何を話したのか。何故、そこまで確信を以って三並さんは安全だと言えるのか。

 私は尋ねない。私はその答えを求めない。

 私も志乃月も、初めから答えなど分かっている。

 だから、志乃月が塚本氏に会いに行ったのはただの確認作業。私に至っては、その確認の作業すらも省いた。

 いや、違うか。志乃月はきっと最後まで願っていた筈だ。自分が理解してしまった答えが、間違っているものだと突きつけられるのを。

 見当違いの答えを得ていたと、全く持って愚かだったと赤面しながら苦笑いする。そんな答えを期待して、塚本氏に会いに行ったのかもしれない。

「なぁ、来住君。聞いてもいいかな」

「どぞ」

 座りながら組んでいた足を崩し、膝と膝を合わせた態勢で彼女は少し蹲り気味に話す。


「私は間違っているんだろうか?」


 少しだけ上ずった声で、彼女は問いかけてくる。

「怖いんだ。何かを踏みにじってしまう気がして、何かを台無しにしてしまう気がして。怖いから、何回も何十回も確かめたくなる。全てを揃えてから、真実と向き合いたくなってしまう」

 自分で自分に対して呆れる様に、彼女は呟く。

「でも、でもな来住君。嫌じゃないか、間違えたら、失敗したら。私は、なるべくなら己で正しいと結論付けられる。そういう道を歩きたいんだ」

 そんな自分は、間違っているのだろうか?

 志乃月は、そう問う。応えようがない問いかけ。

 私はずっと昔から、彼女の事を見てきた。だから、他者という枠組みの中では、きっと志乃月の事をよく理解している筈だ。

 志乃月は愚かだ。いつも同じことでグルグル悩んで心を砕いて、いつもいつも損をする。不利益を被る。

 志乃月は愚かだ。だが、聡い人だ。だから、彼女が間違っているか否かなんて答えは、すぐに出る。

 志乃月は間違っている。どうしようもなく、間違っている。

 だけど、それは只の答えだ。解答というだけだ。


「間違ってないですよ」


 私の応えは違う。

「志乃月はアホなだけです。正しい事をしているアホってだけっスよ」

「……うん、そうか。私は只アホなだけってアレ!? おかしくないか!?」

 先ほどまで感傷的な雰囲気を醸し出していた彼女は、蹲った姿勢から勢いよく立ち上がり、階段下の私の下へと詰め寄ってくる。

「センチメンタリズム全開だった私に対して、アホとはなんだい来住君! 失礼じゃないかい!? 無礼じゃないかい!! もうちょっとこう、優しく慰める流れだったよ!?」

「いや知りませんし。そんな階段の途中で蹲られても邪魔ッス。はやくどいて、風呂入って寝たい」

「おかしい!! もっと労って!! 親友たる私を慰めて!?」

 半泣き状態でワンキャン吠えながら志乃月は迫ってくる。幾ら中性的な恰好とは言え、女性らしさを持った肢体で密着してくる彼女に動揺しつつ、その顔面を掌でグイグイと押し離していく。

「近い近い近いから、イイじゃないスか別に。アホでも。アホな志乃月が大間違いして大失敗しても、別に気にしませんし、私もフォローしますし、それでいいじゃないスか」

「素直に言い難いけど、敢えて頑張って言うよ、ありがとう!?」

 そうやって暫くの間、夜だというのに近所迷惑に騒ぐ彼女を宥める必要があった。



 §



「やれやれ、やっと落ち着きましたね」

「誰の所為だとっ!?」

 ひとしきり喚き終わった彼女に呆れながら言ったが、切れ味のある突っ込みを返されてしまった。

 喚いてスッキリしたのか、志乃月の雰囲気は元の無駄に快活なノリに戻っている。位置取りも変わって、月明りが彼女の表情を見せてくれるが、その顔つきもいつも通りの彼女だった。

「なんか繊細にモノを考えてたのが馬鹿らしくなったよっ」

「慣れない事しますねぇ。遅れてやってきた思春期とかスか」

「……いい加減暴力とか振るってもいい?」

「あ、すんません。もう弄らないッス」

 彼女の額に少し青筋が見えたので、いい加減引き下がる。

 そんな私の態度に、志乃月は珍しく深くため息を吐きながら、目を細めて私を見遣る。

「まあ、もういいや。それより来住君、確認なんだけどさ」

「はい?」

 彼女の視線に応える様に、私もその瞳を真っ直ぐと見据える。

 志乃月の瞳は澄んでいて、どうしようもなく惹きこまれる力がある。

「さっき言ってくれた通り、君は私が大いに間違えて大いに失敗しても、フォローしてくれるのかい?」

 応えは分かってる癖に。答えは知っている癖に。志乃月は問いかける。

「明日、私は行動に出る。諸々全部、ちゃんと片をつけたいし、つけてあげたいから、行動する。君は、そんな私の傍にちゃんと居てくれるかい?」

 自信に満ちた顔で、不安そうに。信じているけれど、見放される可能性も理解しているから。彼女はそんな矛盾を内包した表情をする。

 だから、私は彼女の望む答えを返す。

 安心させるように。

「当たり前スよ。親友なんだから」

 なるべく優しく。無愛想な己の顔を、優しく歪めて、歪に整えて、微笑みながらそう答える。

「そうか」

 志乃月は私のその言葉を噛み締めるように、はにかみながら小さく呟いた。


「ありがとう、来住君。いつも通り、助かるよ」



 §



「三並さん! おはよう!! 爽やかな良い朝だ! 更に君と早朝から会う事で、爽やか二倍で超爽快だ!!」

「し、志乃月さん? おはようございま、す」

 朝早く、騒々しい声が辺りに響く。その声の主は志乃月で、その姿に困惑した様子なのは、今日も今日とて黒ずくめの服装と暗い表情を携えた三並さんだ。

「すまないな! 朝迎えに来るのは来住君という話だったが、彼は予定が出来てしまったのだ! 代わりに私が来た! 颯爽と! 軽やかに! やってきた!!」

「は、はぁ。ありがとうございます」

 三並さんは志乃月のテンションに押され気味に返事をする。朝っぱらからこんなにもハイテンションな人間もそうそう居ないだろうし、どういったノリで接すればいいのか困っている模様だ。

「さぁ、では行こうか!」

「は、い。はい」

 困惑しつつも、三並さんは志乃月と横並びで歩き出す。

 片方は満面の笑みで元気よく隣を歩く彼女に話しかける。片方はその元気の良さに若干引き気味の苦笑いしつつも控えめな愛想を以って相槌を打つ。

 よくある光景かもしれない。

 少し性格の違う、ちょっとズレた波長の、同性の友達二人の通学路。

 別に特筆するような事でもない、なんでもない組み合わせだ。

「ふふっ」

「?」

 そうやって二人が幾ばくか話しながら楽しげに歩いていたところ、三並さんはふと会話の合間に笑い声を漏らした。

「どうしたんだ三並さん? そんなに今のスーツの股間部分を逆三角形に切り抜いて、パンツを局地的に見せていた男の話が面白かったのかい?」

「い、いえ、その話を嬉々として話す志乃月さんには若干引き……じゃなくて、なんかいいなぁと思いまして」

「股間逆三角形切り取り男が?」

「いや、そっちじゃなくて」

 彼女は若干赤面しながら咳払いしつつ、志乃月と横目で視線を合わせる。

「こうやって、誰かと一緒に大学に向かうのが、です」

「ふんむ?」

 疑問符を瞳に浮かべる志乃月に、三並さんは自虐するように、苦笑しながら言葉を続けた。

「私はお世辞にも友達が多いわけでは、いえ、正直一人も居ないと言っていいと思います。だから、誰かと一緒にお話しながら登校するのが、なんだか楽しいというか、嬉しいというか。あはは、すいません、こんな根暗な話」

「そうか」

 友達が居ない。

 常に周りを人に囲まれ、人に揉まれて生きてきた志乃月の様な存在にとって、友達との登校も下校も、当たり前で普通の事だろう。いや、志乃月だけじゃなく、他の一般的な人間にとってそれは大したことではないモノだ。

 だが、三並さんにとってそれは、楽しいと噛み締める事で、嬉しいと心を温めてくれる事なのだろう。

「では、これからは一緒に登校しよう。一緒に大学に行って、時間が合えば昼ごはんも一緒に食べよう。帰り道も、君さえよければ共にして、次の日が休みの時なんかは遊びに行ったりもしようじゃないか」

「わたしと、ですか?」

「そうだよ、前から君とはもっと一緒に過ごしてみたかったんだけど、嫌がられるんじゃないかと思って中々言い出せなくてね」

 志乃月は明るく、優しい声で提案する。その提案は、三並さんにとってどういう想いを抱かせるモノなのだろうか。

 震える声で、三並さんは返す。

「それは、とても嬉しいです。私なんかと、そんな風に接してくれるんですか?」

「なんかとはなんだい! 友達じゃないか、当り前さ」

「とも、だち」

 その言葉をゆっくりと咀嚼して飲み込むように、黒い少女は呟いた。

 少女は笑っていた。黒い少女は、控えめに笑顔の表情を作って、笑っていた。

「だから、だから三並さん」

 対して、明るい少女は。志乃月は、少しずつ顔を強張らせていく。これから、重要な事を告げる為に、彼女は己を形作っていく。

「私の質問に、答えてほしいんだ」

「はい、なんでしょう!」

 心持ちが明るくなったのか、三並さんは今までの雰囲気を覆すような笑顔と、はっきりとした声音で志乃月に返事をする。

 そんな彼女を見て、志乃月は一瞬躊躇いの表情を見せながらも。

 それでも、矢張り問うた。目の前の相手から笑顔を奪い去るであろう、その質問を。



「なんで、塚本君を殺そうとしたんだい?」



 笑顔で止まった。

 三並さんの表情だけでなく、感情も確かに止まったのかと、そう感じる時間。

 先ほどまでの優しい雰囲気は凍り付き、時間は氷点下のまま過ぎていく。

 それでも、動く。しっかりと時は動く。

 黒い少女の口から、言葉が漏れる。かろうじて聞き取れる限界の音量で、言葉が漏れ出す。

「な、にを? なにを、仰って? るんです?」

 いつの間にか、彼女達は人通りの少ない路地に来ていた。三並さんの家から大学までの道、長い長い通学路。徒歩で毎日通うには辛いものがある距離。その通学路の中にある、背の高い壁に左右を阻まれている人通りの少ない路地。

「バカな事をいわないでくだ、さい? 塚本君は、私を殺そうと。彼は、私をメールで脅して、殺そうとして」

 住宅街の中に存在する狭い路地、見通しの悪い地点。

 何かあっても、誰にも気づかれないで事が終わってしまう様な場所。


「そうか、三並さん。塚本君が殺しに来るのか」

「そうで、す! あの人が、私を殺しに!」

「それは丁度、あんな風にかい?」

「え?」

 志乃月は指さす。自分達が入って来た路地。人通りの少ない路地。その前方を、壁に左右を阻まれた先の道に誰かが立っている。

 黒いジャージに身を包んだ人間。帽子を深く被り、マスクをしているから人相は分からない。

 体つきから、男性とみられる姿。

「あ、ああ、ああ」

 そして、右手に持っているものはバットだった。

 金属製のバット。


 正しく使わなければ、人の頭を損壊せしめ殺す事も出来るであろう道具。


「ころしに、きた。本当にき、た?」

 三並さんは呟く。恐怖でひしゃげた様な声で、臓腑から震えが生じた様な声で。

 だが、真実その言葉の奥にある感情は。

「本当に、来たんだっ!」


 歓喜だった。


 男は走る。

 駆け走る。

 一直線に、三並さんの元に走り寄る。

 だが黒の少女は動けない。否、動かない。

 動く必要がないから動かない。

 彼女は自らの肩に下げていた、女性が持つには少し大きめの鞄に素早く手を突っ込む。そして、中から何かを取り出した。

「……!?」

 その物体を見て志乃月は驚く。それはそうだろう、三並さんが手に取ったものは彼女が持つに不釣り合いな、武骨なデザインのサバイバルナイフだった。

 柄が無く、刃先から持ち手の部分まで直線的な造形をしたそれを、彼女は両手で構える。

 そして、気合を込めて何事か叫びながら、向かってくる男と相対する様に、明確な殺意を以って刺し殺そうとした。

 塚本氏を? いいや、違う。


 この(・・)()を(・)だ(・)。


「っるぁぁぁぁっ!!」

 気合を込めて、私はバットを振り被り三並さんの腕に叩きつける。

「っぐぁ!?」

 直撃した鈍器が彼女の手首近くの骨に当り鈍い音がする。骨折するほどのものではないだろうが、細腕に衝撃を喰らった彼女は堪らずナイフを取り落す。その隙に落ちたナイフを蹴り、手の届かない処に飛ばしておく。

 そのままバットも放り投げ、三並さんの腕を後ろ手に持ってきて拘束、抵抗もされるが、膂力も何もないか弱い女性の力などものともせず、動けなくさせる事に成功した。

「た、たすけっ、たすけてくださ」

「三並さん、私です、来住です」

「たすけ……え? 来住、さ、ん?」

 暴れながら大声を上げて叫び出そうとする彼女を、大人しくさせようと言葉を掛ける。

 抵抗が一瞬止まり、その間に己の顔を見えなくしていた帽子とマスクを取り外し、彼女に正体を見せた。

「手荒な真似はご容赦を。必要な事だったもんスから」

「え? 来住、さん、え? どういう、どういう事、で、え?」

 何が何だかわからないという顔で、黒い少女は動揺する。反対に、私と、そして傍に居た志乃月の頭は冷静に、表情は無に近いモノになっていく。

「確信を持ちたくはなかった。今だって、誰かが鼻で笑いながら否定してくれることを期待してるよ」

 志乃月は、呟く。冷たい声音で、彼女は言葉を紡ぐ。

「志乃月、さん? これは、一体?」

「塚本君と昨日話した」

 三並さんの疑問に明確な答えは返さず、少しずつ志乃月は言葉を整える。

「塚本君の家に直接向かって、直接を話を聞いてきた。少々手荒な真似はしたが、彼は素直に全て話してくれたよ」

 手荒な真似と聞いて塚本氏が何をされたのか想像に難くない。最悪、腕か足の骨の一本位折られているかもしれない。南無三。

「な、なにを、聞いたんですか?」

「君への殺意の告白」

 さらりと、志乃月は言った。

「彼は相当に君の事を恨んで、絶対に殺してやると言っていた。だけどね、なんというか私はその言葉に違和感を感じた。どうにも、本気じゃぁないんじゃないかと思ってね」

 志乃月は床に落ちたナイフと、私が放り投げたバットを回収しながらしゃべり続ける。

「事実、関節を極めながら話を聞いてみれば、どうやら単に君に対して嫌がらせをしたかっただけの様だった。殺すと大言壮語する割に、用意していたブツも只のバットだったしね。人は殺せるだろうが、確実性に欠ける手段だ。本当に殺す気なら、もっと別のものがあるだろう。そう、例えば―――」

 そして、拾ったナイフを見遣った後に、三並さんに視線を合わせる。

「こういうものとか、ね?」

「……」

 志乃月の言葉に、三並さんは何も答えない。ただ、先ほどまで困惑しながら興奮していた顔つきは、徐々に蒼褪めていた。

「要するに、私は塚本君が本気で三並さんを殺す気はないだろうと、そう結論付けた。事実、その時の会話を携帯で録音したので、今から警察にでもなんでも届け出てやるぞと嘯いたら、諦めたようだしね」

 本当は録音なんてしてないんだけどね、と志乃月はいたずらっ子の様に舌を出す。ただ、表情の薄い顔でやるものだから、可愛さは感じられなかった。

「だが、彼は妙な事を言っていた。『もうあの女と関わる事は一切しない、大学で見かけても知らない人間のフリをする。だから、あの女にもこちらに関わる事は二度としないでくれと伝えろ』とね」

「……」

 三並さんは志乃月の話を、目を伏せながら押し黙って聞き続ける。

 志乃月はそんな彼女を見遣りながら尚続けた。

「簡単な話だったんだな。凄く、簡単な話だ。全部のお話はひっくり返った裏返しの、詰まらなくて単純な話だったんだ」

 志乃月はため息をつきながら、話の核心を告げる。



「ストーカーは塚本君じゃなくて、三並さんの方だったんだ」



「違うっっっっっ!!」

 怒声が聞こえた。

 声の主は、三並さんだ。大人しい彼女から発せられたとは思えない、煮えたぎる様な怒りの声。

「私と塚本君は確かに付き合っていた! 一緒に出掛けてデートもした! 彼に大切な人だと言われもした! 私たちは付き合ってた!!」

「そうかもしれないね。その認識は正しいんだろう、君の中では」

「っ!!」

 黒い少女の伏せられた目は上げられ、志乃月を射抜くように向けられている。そこに宿っているのは、明確な敵意だった。

「塚本君と付き合っていたつもりだった君は、彼を束縛した。彼の近くに居る女性に数多の嫌がらせをして、彼に関しての謂れの無い噂話なんかをサークル内で広めたりもして。匿名でも一人の人間を貶める方法なんて無数にある、君は思いつく限りの嫌がらせ行為を、彼にしたんだろうね」

 交友関係が希薄な三並さんだからこそ、失うモノはそもそも多くはない。

 常人なら後の事を考えて止まってしまう様な事も、彼女なら出来る。そして、普段から物事を感情を溜め込むような人間は、爆発させたときの威力は並大抵のものではないだろう。

「塚本君の携帯も見せてもらったよ。匿名で大量のフリーメールアドレスからメールが届いていた。内容は、彼が今何をしているのか、誰と居るのか、逐一聞いてくるメッセージだ。着信履歴も尋常じゃない量が、それも非通知やらそれ以外の数多の番号からも掛かって来てた。あげく、ポストの中には脅迫文が大量に投函。きっと塚本君は度重なる嫌がらせに、心が病んでいたんだろう。そしてその嫌がらせの元凶と推測される君に、殺害メールを送ってしまった」

 三並さん自身の口から語られたストーカーメールの詳細。あれは、塚本氏が三並さんに送ったものではなく、その逆だった。思えば、私達は三並さんから塚本氏がストーカーをしているという物的証拠を、何一つ見せられていない。見たのは一つだけ、塚本氏が殺害予告をしてきたメールの一文のみだ。

「だが疑問が残る、何故塚本君がそんな嫌がらせの被害を受けてなお、警察にでも駆け込まなかったのか? だが、これも簡単な話だ。結局、少なからず彼自身の自業自得な要素もあったという事だ」

 これも塚本君自身から聞いた話なんだけどね? と志乃月は前置きをする。

「要するに塚本君は三並さんと少し火遊びがしたかっただけだったんだ。彼は中々の遊び人で、恋人もとっかえひっかえ、二股三股も別段珍しくもない人間だった。そんな中、男性経験どころか、人間関係すら希薄そうな君と出会って、少し遊ぼうと思った」

 典型的な遊び人。

 どこかにでもいる軽い男。塚本氏はそういう男だという事。そして、大人しそうな三並さんは、そんな悪い男に引っかかってしまった。そういう話。

「彼は詳細には話さなかったが、どうやら最終的には三並さんを手酷く突き放したそうだね。それを、君は許せなかった。どうしても、許せなかった」

 同年代の女子なら、飲み下せたのかもしれない。

 男性経験のある女性なら、今までも似た様な男に会ってきて飲み下せたかもしれない。

 友人の居る女性なら、慰めて貰ったり新たな出会いを見つけるきっかけを貰えたりで、飲み下せたかもしれない。

 もし、精神が強い人間なら、こんな事もあると、犬にでも噛まれたと思って忘れようと、飲み下せたのかもしれない。

 だが、三並という女性はそのどれでも無かった。 

 男性経験はなく、そもそも友人と云える存在も居らず、心が強いわけでも無かった。

 だけど、だから、行動した。

 自分を傷付けた人間に、自分と同じ、それ以上の傷を負わせるために。


「そして、殺そうとした」


 短絡的だ。恐ろしい程に、感情でしか動いていない。のちの事を何も考えて居ない。

 やられたから、やりかえす。

 それが正しいのか間違っているのかは分からない。

 行動には千差万別、十人十色の解法があるだろうけど。多くの場合、この世は『目には目を、歯には歯を』が復讐の正当性の限界だ。

 目をやられたからと言って、心臓を抉り出す人間は、過剰であると批難されてしまう。

「私は三並さんにも塚本君にも、人を殺すなんていう物騒な事はしてほしくなかったから、考えを改めて貰おうと思った。塚本君の説得は出来た、そもそも彼は君の嫌がらせに憎悪していたことも在るが、もっと大きい感情としては恐怖だ。殺害の意志も自己防衛の心だ。だから、三並さんが干渉しなければ、もう何もしない。だから、後は三並さんだけだ」

 志乃月は睨みつけてくる三並さんから視線を外さず、近づいていく。

「きっと君は言葉だけでは考えを改めてくれないだろう。だから、一芝居を打った、決定的な状況を作る為に、来住君にも協力してもらった。そして、この場が作れた」

 いいや、違うんだろう志乃月。

 そうじゃないんだろう、志乃月。

 あんたは、最後の最後まで自分が間違ってる可能性を否定しきれなかったんだ。

 もしかしたら、三並さんの塚本氏への殺意は間違いなのかもしれないと思ったんだ。


 志乃月は優しい。

 本当は分かっているのに、結論はとっくに出ているのに、答えを理解できてしまうのに。

 彼女は悩む。答えの道を踏み出す一秒前まで、悩んでしまう。


「君はナイフを構えた。それも、専門店かネット通販でもないと買えない様な本格的な代物を。百均ショップじゃこんなものは買えない。だから、三並さん、君の殺意は本物だ。君は、君を殺しに来る塚本君を殺し返してやろうと、その為の準備をしていた」

 手を伸ばせば届く距離まで近づき、志乃月は無表情で三並さんに告げる。

 溢れ出てしまいそうな感情を、無にすることで耐える様に、彼女は言葉を紡ぐ。

「だから、教えてくれ三並さん。なんで、塚本君を殺そうとしたんだい?」

 分かり切った答えを、それでも彼女は聞いた。

 まだ、志乃月は期待しているんだろうか。三並さんがすべて勘違いだと、何を言っているんだと、荒唐無稽なお話は止めて下さいと。困ったように笑いながら否定してくれることを。

 志乃月は、期待しているんだろうか。


「志乃月、さん……」


 でも、当然のことだけど、そんな事は―――


「塚本君を殺したいって思うの、そんなにおかしいですか?」


 ―――ありはしないんだ。



「だって、おかしくないですか? おかしいじゃないですか? 私、あの男と付き合ってたんですよ?」

「そら、私は地味だし面白い女でもないですし、魅力なんてないですよ。だけど、曲がりなりにも交際していたんですよ? それが浮気された末手酷く振られたんですよ?」

「分かります? あの男、私を振る時なんて言ったか? 『おまえ、中々ヤらせてくれねーんだもん。もういいわ。そもそも付き合ってるって思ってるの、お前だけだかんな?』ですよ? 意味わかんないですよ、意味わかんないですよねぇ!? 絶対おかしいですよね!?」

「そもそも、何人もの女性と浮気してる事に気付いて、どういうことかって聞いたらそんな返事ですよ? 私、別に彼が浮気しても許してあげようって、謝ってきたら許してあげようってそう思ってたのに、そんな仕打ちですよ?」

「ふざけるなって話ですよ、なんなんだって話ですよ。だから、ぐちゃぐちゃに全部ぶっ壊してやろうって思ったんです」

「あの男の周り全部全部全部ぶっ壊してぶっ潰してぐちゃぐちゃにしてやろうって! やり方なんて一杯ありますからね、いっつもいっつもそんな事を考えて片隅に抱えて生きてきましたから、後は実行に移すだけでしたからね! 簡単でしたよ、やってみたら簡単でした!」

「そしたらお笑いですよ、塚本君、サークルでの人間関係も滅茶苦茶になって追い出されて、浮気してた女どもも破局して、ネットにもある事無い事連ねた話と一緒に個人情報ぶちまけてやったから、外に出るのも怖くなって下宿先にずーっと引きこもり始めたんですよ! 全く、お笑いですよねぇ!!」


 狂乱と呼ぶにふさわしい大声で、狂喜と呼ぶに正しい表情で、三並さんは全てをぶちまけた。

 志乃月が否定してほしかった事実を、綺麗に正しく美しく、醜い感情のまま全て真実であると証言してくれた。

 感情を破裂させ、吐きだし終わった三並さんは疲れたのか。好き放題吼えたのち、気の抜けた表情と気疲れした平常の声で、続きを喋る。

「まー、アレですね。別にそこで復讐は終わりで良かったんですけど、なんかあいつから殺害メール届いちゃったんで。警察に届け出ようか迷いましたけど、まあ返り討ちにして殺せたらスカッとするかなと。ついでに、殺した時証言が他にもあれば正当防衛とかにし易いかなとか、誰かに同情して貰えたりするかなと思って、志乃月さんに相談とかしてみたりしました」

 それだけの理由で、この女は志乃月を巻き込んだのか。

 それだけの意味で、この女は志乃月に苦悩を押し付けたのか。

「……自分が塚本氏に殺されて死ぬ可能性は考えなかったんスか?」

「あー、確かにその可能性十二分にあったでしょうけど、なんていうか、別に死んだら死んだでいいかなと。このまま生きてても、特に楽しい人生にはなりそうにないしいいかなーって」

 何でもない様に、己の命に、生きる事に興味が持てない様に。

「んー、でも。来住さんに捕まった時、今思えば演技だったのだから在りえないんですけど。殺されるーってすごく怖くなって、正直死にたくないってすごく思ったので、結果的にはこの方法は勇み足だった気がします。反省ですね」

 そんな風に、三並さんは苦笑した。

 テストの答案で、ケアレスミスをした事に気付いて、次からは気を付けなきゃと気恥ずかしそうに笑う、そんな表情だった。

「反対に私からも聞きたいんですけど、私の嘘ってそんなに分かりやすかったですか? これでも物的証拠は残らない様に気を付けたんですけど」

「物的証拠は正直私達で調べられるレベルには、無いと言っていいスね」

 事実彼女の数々の嫌がらせは、足がつくものは全く無かった。メールの数々や嫌がらせの手紙、噂話の流布にネットでの書き込み。そんなものから個人を特定するのは素人の学生には無理だ。反対に、明確な物的証拠として、殺害予告が残っている塚本氏の方が立場は悪いだろう。

「ッスけど、三並さんは明らかに、出会った時から被害者じゃなかったんス」

「そうですか? 自分で云うのもなんですけど、かなりストーカー被害とかにあってそうな地味女ですが」

 なんだか、色々ぶちまけた後だからなのか、三並さんは今までのオドオドした態度が完全に消え去り、不遜な態度に成っていた。

「あのですね、三並さん。まず、貴方が私達と大学の食堂で出会って会話するという、そのシチュエーション自体がおかしいんですよ」

「?」

 だってそうだろう。ストーカーの被害に合い、殺害メールまで受けていて、その相手は同じ大学に居る男だなんて。

「ストーカー被害に合って殺してやると脅迫されてる人が、なんでその元凶たる男の大学に来られるんスか。あと、そもそも私達に相談する前に警察に話を通してからというのが自然なんじゃないですか?」

「あっ」

 本当に、今気づいたと言ったように三並さんはハッとした顔をする。

 事実、実際に嫌がらせを受け続けていた塚本氏は、大学に暫く来ることが出来ていないようだった。

 心当たりは多かっただろうが、それでも直近で関わった三並さんが犯人であるとは気づいていたんだろう。そりゃ、気の小さい男なら、怖くて何をしてくるか分からない奴が居る人間と同じ大学に通うのは難しい。

 己がそもそもの発端という事もあって、誰かに相談する事も警察に駆け込む事も難しかったのだろう。

「それと、もう一つ重要な事なんですがね。普通、ストーカー被害に合った女性というのは、そのストーカー相手の話をするだけでも、とても辛いものなんです。精神的に色々参ってしまうものなんです。貴方みたいな気弱そうな女性は特になんスけどね」

 だが、三並さんは違った。

 彼女は塚本氏との馴れ初めを話すとき、どんな表情をしていた?

「貴方、塚本氏との出会いの話をする時、大切な思い出を思い返すように、幸せそうに笑ってましたよね」

「……ははっ、そういう事ですか。納得しました」

 それはおかしいんだ。その記憶は、もっと沈痛な表情で語られるべきものなのだ。

 だから、私も、きっと志乃月もずっと違和感を抱えていた。様々な部分や箇所でズレを感じていた。

 彼女は明らかに、被害者ではなかった。そういう立場の人間が持つ感情が無かった。

 きっと、彼女がもっと人と関わって居れば、感情の機微を理解していればそこは修正できたのだろう。私達も三並さんの思惑に気付かなかったかもしれない。

 だが、三並さんはおかしかった。違和感だらけだった。


 人の心が分からないから、三並さんは気付けない。


 そういう事だ。


「んじゃ、ま、お互い全部納得完了という事で。どうします? 正直もう塚本君の事は私の中では復讐完了してどうでもいいですし。お互い不干渉って事で終わるなら、もう何もしないですし、元の生活に戻るだけですけど?」

 他人に傷付けられて、他人を傷つけ返すどころか壊し、あまつさえ殺してやろうとまでした彼女は、あっけらかんとそんな事を言う。

「……もとより、三並さんの力になりたくて受けた話だ。君がもう大丈夫というのなら、私はこの後特に何かするつもりはないよ」

 暫く私と三並さんの会話を黙して聞いていた志乃月は、その美貌を無表情のまま暗く翳りさせながら言う。

 普段の彼女しか知らぬ人間がみたら驚くかもしれない顔つきで、だが深く関わって来た人間から見たら、二度とこんな顔はさせまいと、させたくなかったと悔恨を思わせるような表情で。

「くひっ、そ、そうですか、そうですかそうですか」

 そんな志乃月を、何を思ってか三並さんは口を半月に歪めながら笑った。

「凄いですよね、志乃月さん。いや、正直ホント尊敬してます。全部はじめから分かってたんでしょ? それなのにこんな茶番に付き合ってくれたんですよね? それで最後にはそんな言葉も吐けちゃうんだ。優しいですねぇ、凄いですよねぇ」

 三並さんは志乃月を言葉で賞賛しながら、嘲笑する表情で続ける。

「今までも色んな人に囲まれて、誰かに思われて愛されて。幸せに生きてきたから、自分も誰かを想って生きていけてるんでしょうねぇ。素敵ですよねぇ」

 志乃月は答えない、ただ黙って三並さんを見ている。

「私は今まで誰にも思われず、誰からも好かれず、誰からも愛されず生きてきました。分かりますか? 私が誰かを想っても、誰かを好いても、誰かを愛しても。『きもちがわるい』と否定されてきたんです。おかしいですよねぇ、なんでなんですかねぇ。私が美しく無くて、地味で暗くて、誰かと関係を持つのが苦手で、生きるのが下手だからなんですかね」

 笑いながら。嗤いながら。嘲笑いながら。でも、きっと心の中では嬉の感情なぞこれっぽっちも無い、ドロドロの黒の感情を持った少女が言う。

 志乃月は、そんな彼女を見続け、見据えて、黙っていた口を開いて答える。

「そんな事無いよ。君を想って、好いて、愛して、恋をしている人間は居るよ」

「どこにいるんですか。そんなやつ、そんなひと、何処に居るって言うんですか」

 志乃月の言葉に、黒い少女は静かに怒る。

 自らに価値がないと悟り、誰にも想われないと確信する彼女。

 そんな彼女に、志乃月は続ける。彼女の確信を砕くために。


「私は、三並さんに恋をしているよ」


 止まる。凍る。

 頭がショートしたように、三並さんは怒りの形相のまま静止する。

「そもそも私が三並さんの力になりたいと思ったのは、単純に君に恋をしていたからであって、別に友人を助けたいとかそういう考えばかりではないよ。此処でカッコいい所をみせておけば、恋人になってくれる可能性が高くなるかもと、そう思っただけだからね」

「え、ぁぁ、へ? は?」

 志乃月が並び立てる理屈に、三並さんは動揺の為巧く言葉を返せず、しどろもどろになっている。

 だが、そんな彼女を無視して、尚志乃月は続ける。

「私は聖人君子じゃないから、最終的に問題を全てさっぱりさせて、最後の最後に君に告白する機会でも来ればと自己中心的な事を思った。そして、今がその時かなーと思ったので告白するよ。三並さん、初めて会った時から君の事が好きでした、今回の一件を差し引いてもやっぱり好きです、どうか付き合ってください」

 無表情のまま、無欠の美貌を以って志乃月はそう言った。

 溢れ出そうな感情を、全て無表情に押し込めて、彼女は告白した。

「……は、はは、ははは」

 当惑していた三並さんも、徐々に状況を理解したのか、乾いた笑いを漏らす。

 表情は何とも言えない複雑なモノになっていた。だけど、私は分かる。この後この表情が何に固定されるのか、どういう感情に染められるのか。今までの経験から分かる。

「私の事がですか? 女性の、私を? 女性の貴方が? 女が、女を、ですか?」

 ああ、良くない流れだ。いつもの、見た事のある流れだ。この後の言葉も全部。いつも通りの。

「はははは、そうですか、志乃月さんは、私の事が好きなんですか。付き合いたいんですか、そうですか」

 笑いながら、表情が定まっていく。複雑なモノから、極めてシンプルなものに。

 負の感情。

 人間が、理解できないモノに向ける感情。理解したくもないものに向ける感情。

 それは、つまり―――、


「きもちわるい」


 ―――嫌悪だった。



 §



 『その想いは迷惑だし、吐き気がしそうになるので止めてください。二度と私に関わらないでください、私も関わりません。キャンパス内で見かけても声を掛けるのは止めてください。塚本君とも、もう一切関わりませんし、貴方とも関わりません。さようなら』 

 そう告げて、三並さんは逃げる様に去っていった。

 方向は大学に向けてだったので、恐らくあのまま一限にあるという講義を受けるのだろう。

 とんでもなく不快感を持った表情をしていたので、内心はぐちゃぐちゃなんだろうから休むかと思ったが、意外にそういう処は真面目なようだ。

 いや、真面目というよりは、孤独だから頼れる人が居ないだけかもしれない。

「ん、ぐぅ、ぐぐぁぁぁぁぁうぁぁぁ」

 まあ、それはそれとして。

 問題は、この状況を如何とするかだ。

「振られたァああああああああああああああ!! また、まただよ! また振られたよ、ぐぁぁぁんぐがぁぁかふぁがががががががあぁぁぁ!!」

「志乃月五月蠅い。ほんと五月蠅いから。まだ朝だから、近所迷惑スから」

「だっでぇえええええええ!! き゛す゛み゛ぐぅううううんんんんん!!」

「マジでうるせぇ! 抱き付くな、涙を服で拭うな、鼻水を垂らすな!!」

 志乃月もぐちゃぐちゃになっていた。

 先ほどまでの無表情は粉々に崩れ、今は情けないったらない表情をしている。涙と鼻水で顔面はべちゃべちゃだし、子供の様に私の腰にしがみついている様はもう酷いものだ。

「てか、あのタイミングでなんで告白したんスか……。フラれるに決まってるでしょ」

「だっでぇ、この前買った恋愛本に、『女を落とす時は、怒ってる時なんかが実はチャンスだ。すかさず滑り込みシュート! 超エキサイティンな結果をゲッツ&リターン!』って書いてあったんだもん!」

 その恋愛本の作者は恋愛したこと無いか、アホなノリの恋しかしたこと無いんだなという印象の指南だった。そしてそれを信じる志乃月もアホ丸出しである。

「うぅうぅぅう、今回はイケると思ったのに。三並さんの大人しめな微笑とか好きだったのにぃ」

「よくあの狂乱ぶりをみてからそんなセリフが吐けるもんスね。感心しますよホント」

 腰に纏わりつく彼女を引きはがして、しゃんと立たせながらため息をつく。

「良いじゃないか! 自分に正直なのは良い事だ。正直、若干頭おかしいのかなこの子? と思ったけど、私の定規で計り切れる様な人もそれはそれで退屈かもしれないからな。寧ろ好感度アップしてた」

「……あなたもやっぱり、大分頭のネジが吹っ飛んでますね」

 ぐちゃぐちゃになった顔面を、ティッシュを渡して拭いて貰いながら、再度深く深くため息をつく。

 彼女が持ち込んでくるトラブルは大抵こういうオチがつく。

 志乃月は可愛らしい容姿と紳士の様な語り口調から誤解されやすいが、本来は性欲塗れの男子高校生みたいな性格をしている。

 トラブルに顔を突っ込むときは、大抵好みの女性を助けようとした時。そこでカッコよく解決して、告白してOKを貰おうとするという、本当に欲望に直結した生き方をしている訳だ。

 そして失敗する。

 ことごとく失敗する。

「はぁ、何が悪かったんだろうか」

「まず相手が悪いッス。普通に犯罪の領域にまで手を染めてましたからね、あの人」

「……たとえ捕まったとしても、獄中の彼女を愛し続けて律儀に会いに来る恋人って健気に見えない?」

「頭の悪い妄想スね」

 見られたもんじゃなかった志乃月の顔面を、なんとか元の綺麗な顔に近付ける程度には修正できた。だが、どうしたって泣きはらした瞳やらなんやらの痕は残る。しかしながら顔が良いものだから、傷心の美女といった風で謎の色気があった。

「はぁ。これから三並さんとキャンパス内で会う度に、どんな顔をすればいいんだろう」

「関わるなって言われたんですし、ノーリアクションで良いんじゃないスか?」

「そうだよなぁ。折角友達までになったのに、恋はかくも儚いものなのか」

 儚いというか、自分で盛大にぶち壊しに行った様にも思える。もっと言えば、元から相手が盛大にぶっ壊れていたというか。

 なにはともあれ。

「ひとまず問題事は片付いたじゃないスか。大団円ですよ」

「何も大団円じゃないよ! 私に彼女が出来るというその要素が無い時点でもう何も丸く収まってないよ!!」

 志乃月はそう叫びながら、嘆く。

 だが、それまで激しく騒いでいた彼女は、そこでふと静かになる。そして、ぽつりとつぶやいた。

「誰かに思われて愛されて、幸せに生きてきた……か」

 小さな声で、三並さんに投げつけられた言葉を口に出す。

 こちらに聞かせようと思ったのではないだろう小さな声で、無意識に口から出た言葉なのか。それでも、私の耳にはしっかりと残ってしまった。彼女の、今までの想いを詰め込んだような、その言葉が。


「私に恋をしてくれる人なんて、いるのかな」




 §




「以上が事の顛末となります」

「興味ない聞いてない」

「この前同様冷たい反応ッスね、機嫌悪いんスか?」

「この前同様、いつも通りに上機嫌だよ」

 大学のサークル棟の一室、【エコ会】に私は訪れていた。

 訪問理由は事の顛末の報告と、お礼を言いに来たからなのだが、萩原先輩は椅子に座り本に目線を下ろしており、ノックして入ってから一度もこちらを見向きさえもしなかった。

 部屋には萩原先輩しかおらず、他のメンバーは今日も居ない様だ。まあ、正直先輩しか居ないであろう時間帯を狙って訪ねたので、予想通りと云えば予想通りだが。

「ま、あれから少しばかり落ち込みモードだった志乃月も、一週間経った今日は元通りやかましいですし、大丈夫だとは思います」

「だから聞いてないと言うとろーが」

 勝手にベラベラと喋り続けた私に呆れてか、先輩はため息を一つ吐いて本を閉じて顔を上げてくれる。

「結局いつも通りという事じゃないか。志乃月は性欲に従ってトラブルに首を突っ込み最後は盛大にやらかし爆散。お前はそのフォローをした。全く円満な解決ではないが、主問題は解決。同じような事でぐるぐると、よく飽きないなお前らは」

「いやぁ、私は正直飽きてるというか、毎回勘弁してほしいと思ってるんスけどね」

「じゃあもっと手綱を握っておけという話だ。あと、事あるごとに私に相談を持ち掛けてくるな」

 ただでさえクールな面持ちの彼女から、責める様な凍てつく視線で睨まれる。普通に怖い。

 適当に笑ってその視線を誤魔化しておいた。

「……それで? その三並と塚本の間のトラブルは、本当になくなったのか?」

「ああ、それはもう大丈夫ですよ」

 実際その後の二人が気になって、少しばかり様子を見ていたが、特に問題は無かった。

 勿論、全て元通りという訳ではなく、寧ろ何もかも台無し状態ではあったが……。

 塚本氏は引きこもり状態から大学に通う様になり、授業を受けているのも確認している。

 対して、三並さんも大学に普通に通い、普通に授業を受け、普通に下校している。

 二人ともその後接触はしていないし、すれ違った場面も見たがお互い見ないふりをしてやり過ごしていた。

 共通しているのは、二人ともキャンパス内での行動は常に一人であるという事だ。

 三並さんは元から交友関係が希薄だから代わり映えしないかもしれないが、塚本氏はサークルにはもう戻れず、友人関係も破綻し切っている為、常に一人だ。恐らく今までは誰かと一緒に居る事が多かっただろうに、その部分は全く元通りにはなっていなかった。

 だが、二人とも孤独だからこそ、安定していて、安寧を手に入れているようにも見える。今後どうなるかは分からないが、少なくとも私が関与する事も無いだろう。

 それに正直、今後彼等がどうなるかについて、私はどうでもいいという思いもある。

 薄情かもしれないが、私は彼等の友人でもなんでもないのだから。

「志乃月も、今じゃ次の恋を見つけるぞ~とか言って、すっかり立ち直ってるみたいスから、ほんと問題はないですね」

「そうか、切り替えが早い娘で良かったな」

 先輩はそう言って、また本を広げて視線を落としてしまった。ついでに、シッシッと追い出すジェスチャーもまじえてくる。

 私は先輩のそんな態度に思わず苦笑しながら、相談に乗ってくれた礼を言って出て行こうとする。

「聞き忘れていた」

 と、背中を向けた私に先輩が声を掛けてきた。振り返ると、視線は本に落としたまま言葉を続けてきた。

「来住。いつまで付き合うんだ、その厄介事に」

 質問、詰問。

 厄介事とは何を指すのだろうか。少なくとも、三並さんと塚本氏の厄介事は解決した。だから、その事ではない。

 ならなんだろうか?

 何を厄介だと言っているのだろう。

 誰に付き合っていると言っているんだろう。

「私は」

 質問の意味は分かっている。

 質問の意図も分かっている。

 だから、すぐに答えられなかった。即答は、出来なかった。

 だけど、答えは出せる。遅くとも、遅れても、間に合わなくても、答えは出せる。


「志乃月が納得するまで、付き合います」


 志乃月が、幸せの答えを出せるその時まで。

 不機嫌な表情の先輩は、私のその返事を聞いて、顔つきをもっと不機嫌にさせていく。

 それはきっと、どうしようもないものを嘆くような、傷付けられている人を想う様な。そういう表情。

 だから、萩原先輩は本を読みながら、文字を追ってはいないだろう視線を下に向けながら、悲しい声音で言葉を発した。



「大変だな、頑張れ」



 §



 構内に幾つか存在する喫煙所の一つで、私は煙草を吸いながら人を待つ。

 近々、大学の禁煙活動だか美化運動だかの働きかけで、喫煙スポットが数か所消えるらしい。愛煙者からすればなんともふざけた話だが、マイノリティはマジョリティに淘汰されるのは世の常だ。大学という小さな、だが確かに存在する社会の枠組みに対して嘆く以外に、我々に手段など無いだろう。

 そんな事を想いながらタバコの二本目に火をつけようとした所、横からひょいと飛び出た手に愛する煙発生器を掻っ攫われてしまった。

 そのタバコ泥棒の方に視線を向けると、待ち人たる志乃月が、奪い取った新品のタバコを吸い柄の受け皿に棄てながら、頬を膨らませているのが目に入る。

「健康に悪い。早死にするからやめろといっつも言ってるだろ? 君は私に余り心配を掛けさせるもんじゃない」

 普段あれだけこっちに心労を掛けさせておいてどの口が、と返しそうになったが堪える。ああ、勿体ない、まだ火すらつけてないのにゴミ扱いだ。

「いつも言ってますが、煙草が健康に悪いんじゃぁねえっスよ」

「いいや、悪いよ、少なくとも私が君の肺器官への心配で健康を害する!」

「……割と滅茶苦茶な事を言いますね」

 授業も終わり、夕方も近い。今日は一緒に帰るついでに遊んでいこうと、こうして志乃月と待ち合わせた訳だ。

「まあ、いいです。それで? どっか行きたい場所とかあるんスか?」

「本屋だな!」

 またか。

「ちょっと欲しい恋愛指南書があってね!」

 またか。

「いい加減懲りてくださいよ。金の無駄だと思うんスけど」

「そんな事ない! 前回の三並さんの失敗を教訓に、次は思わず熱い思いを滾らせ過ぎて犯罪に走ってしまう女性を口説くテクニックを学ぼうと思っている!」

「なんかもう、恋愛指南書より、犯罪心理学書とかを買った方が良くないスかそれ」

 前回の反省点を明後日な方向の糧にする志乃月。なんとも見当違いの方に走り出してしまう彼女を、だがしかし私は止めようとも思わない。

 そうだ、私は本気で止めはしない、邪魔をしたりはしない。

 それが間違っていようと、正しかろうと。志乃月が自分自身で考えて選んだ答えなら。

 彼女が何もかもを納得した上で、幸せを手に入れることが出来るなら、私は止める事はしない。

「さ、来住君行こうじゃないか! 因みにこの前約束した通り今日の夕飯は私が奢るぞ!」

「ほぉ、有難い話で」

「あと、今週末提出期限のレポートの資料集めの協力、よろしく頼むよ!」

「一週間前なのにまだ資料も集めてないんすか……。遊んでる場合じゃないッスよそれ」


 自分に恋をしてくれる人なんて、居るのだろうかと、志乃月はそうあの日に呟いた。

 それはきっと、彼女が同性を愛するが故に、自らが恋してきた人間に悉く拒否されてきたから、拒絶されてきたからが故の言葉だろう。

 だからきっと彼女は、自分は誰にも恋しく思われず、愛されもしないとそう思っているんだろう。

 きっと、誰も自分に振り向いてくれないと、そう思っているんだろう。


 でも、違う。

 違うよ、志乃月。本当に振り向いていないのは、見向きもしていないのは君の方だ。


「まあ、大丈夫だよ! 来住君がいてくれれば何とかなる!」

「何ともならないものは何ともなりませんよ」

「そんな事言わずに、いつも通り頼りにしてるよ親友!!」


 はにかんだ笑顔で。

 屈託のない表情で。

 志乃月は私に笑いかけてくる。だから、私も応えるしかない。

 仕方ないと、仕様がないと。だって、私と志乃月は。


「……ま、親友ですからね。仕方ないか」




 君は見ていない。君は私を見ていない。

 私を親友としてしかみていない。

 私が君を本当はどう思っているのか気付かず、私が本当は君に何を求めているかも考えず。

 君は私に振り向かず、俺の想いに気付くことはない。



 だから、志乃月は私に恋をしない。


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