はじめに
「これからよろしくお願いしますね、婚約者殿」
そう言ってにこやかに笑う目の前の男に、私は言葉が出なかった。
何故?どうして?どこで間違えた…?私の心の中には絶望しかなかった。
遡ること10分前。
いつものお茶の時間。私はティーカップを持ち、テラスから何気なく屋敷の唯一の入り口である門に目を向けた。
いつもと違う気がしたのは、空気がバタバタしている気がしたからだろうか…?
門はテラスから良く見えた。特に変わらないじゃない、そう思って視線をティーカップに注がれた紅茶に向け、唇に近づけた時だった。
「お嬢様、ユリウス殿下がいらしております」
聞きたくない名前を聞いてしまったわ。
思わず引きつりそうな表情筋を駆使して、そう伝えてくれた家令のロースタスに了解の意を示した。
本当は行きたくない。行きたくないが、この国の王太子殿下である彼を放っておくわけにはいかない。
不敬罪で我が家が断絶されるなどあってはならないからだ。
私は、ティーカップをテーブルに置いて、メイドに片付けるようお願いした。
ドレスの裾を払って応接室へ向かう私の顔色はとても悪かったと思う。それほど会いたくない男なのだ、殿下は。
「お待たせいたしました」
応接室に着いてノックをすると、中から父の声がし、入室を許可された。
扉を開けると同時に決して待たせてはいないが、社交辞令を口にする。そもそも、今日は面会の予定などなかったのだ。急に押しかけてくる方が悪い。
応接室にある重厚なソファは、大人4人が座ってもゆったりできるサイズのものが、ローテーブルを挟んで向かい合っている。
殿下と同じソファに腰かけていた父は、私を対面のソファに座るように促した。
あまり座りたくなかったが、仕方がない。私は大人しく座って、父の言葉を待った。
「この度、殿下の婚約者が決定した」
あらかじめ打ち合わせてあったのだろう。父が殿下より先に口を開く。
嫌な予感しかしない。今すぐこの場所から逃げたい。そう思っていても、父の話は続く。聞きたくない台詞に向かって。
「お前だ」
そう言った父の目は、私と同様死んだ魚のような、と表現するのが適切なくらい濁っていた。
(何故…?)
ついつい心の中で疑問が浮かぶ。私は良いご令嬢を演じていない。図々しくて、鈍感で、センスのない格好をする性格の悪い令嬢を演じていたはずだ。
殿下に会うときだけでなく、陛下や王妃様にお会いする際も徹底したはずだ。
私の名前など、人々の口に上がるはずがないように画策したのに…。
つい、と視線を殿下に向けると、ばっちり目が会った。まさかコイツ、私の反応をじっくり見ていたのか!?
「まあ!嬉しいですわ、お父様!!私、ユリウス様の奥様になれますのね!」
キャピキャピ喜んでみた。…ダメだ、想像以上にキツイ。
「もう、演技など必要ありませんよ。貴女が聡明なご令嬢ということはわかっています。エリーズ・アルドロワ伯爵令嬢?」
しかも、私が必死で演技したというのに、この男は!!ばっさり切ってくださりやがって。
「何をおっしゃっているのかわかりませんわ。」
とりあえず、猫を被って白を切る。何とかこの婚約をやめてくれないだろうか。切に願うがどうやら決定事項らしい。
殿下はにっこりと笑って、そして、冒頭の言葉に戻る。
私は部屋の中を熊のようにウロウロしていた。
殿下は、今日は報告だけなので…とかなんとか言って王宮に帰って行った。というか、仕事が山積みで中々時間が取れない忙しい殿下のはずなのに、なぜわざわざ我が家までやって来たのだろうか。父に伝えるだけで良いと思うのだが。
「どうやって、解消してもらえば良いのかしら…?」
決定事項だと殿下は言っていた。ということは、陛下も王妃様も了承をしているということだ。
我が家は伯爵。他にもっと良いお話があったはずなのに…。
公爵筋には今、殿下と合うご令嬢はいない。侯爵筋には4人か5人居たはずだ。伯爵では10人、男爵、子爵を入れればそれこそより取り見取り。私が絶世の美女とかならわかるが、そこまで容姿に自信はない。
黒い髪に黒い瞳。外に出ないから日に焼けない真っ白な肌。周りの華やかなご令嬢と比べれば見劣りするような部分しかない。
まあ、そのせいで魔女とか悪女とか言われて放っておかれるから良いのだけれど。