極私的俳句論、super private haiku poem theory その10. 俳句の遊行と三昧。
始めに俳句とは
あまりにも短文すぎますから
説明や解説的には作れないものなのですね。
たった17文字でどう説明できますか?
だから俳句は説明文ではありえません。
じゃあ?
じゃあなんなのか?
わかりやすく言えばそれは
独断と偏見ですね。
短く言い切ってしまうのです。
そして誰が何と言おうと
それを押し通すんですね。
だからつまり、、
俳句とは独断と偏見?です。
実際名句といわれるもので
こりゃあいったい何を言いたいのか?
と、
首をかしげる句が多いですね。
たとえば
「この秋はなんで年よる雲に鳥」芭蕉
この句を説明はできないでしょう?
はっきり言ってこの句は意味不明ですよね?
でも?
名句?ですよね。
つまり俳句とは
誤解を恐れずに言えば、、
意味を必要としないのです、
意味なんかなくっていいんですよ。
ここまで言うと極論すぎますが
そもそも
俳句とはあまりに短い詩形ゆえに
説明的であったり
解説的には作れない仕組みになってるんですね。
こまごま説明したりこれはこうであってこうなんだよとは
解説的には俳句なるものは
作れないのです。
だから、、
言い切るしかないのです。
言い切るということは
つまり、、
独断です
独断はその人だけの?
偏見でしょう?
だから俳句とは独断と偏見の塊です。
でも、
そんな独断と偏見に
時として人々が
「ああ俺もこんな独断と偏見をもってるなあ」と、
賛同した時、、
その句は名句となるのです。
つまり、、
俳句とは仏教用語でいえば
「拈華微笑」であり
「教外別伝」であり、、
「直指人心」です。
つまりは
俳句とは
月を指す指であり
戸を叩く瓦片です。
大きな無辺自然世界へ通じるための
姑息な手段?が俳句なのですね。
指はどうでもいいのです指差された月が大事?です。
戸を叩くことが重要なのであって瓦はたまたまそこにあったから利用しただけです。
まあ
俳句とはそんなものです。
だから
俳句で凡庸に自然や風物を説明したり
俳句にありきたりの意味を持たせたりしたら最悪なのですよ。
そんなことしちゃあだめなんですよ。
そんなもん不要なんです。
「この秋はなんで年よる雲に鳥」芭蕉
この芭蕉のような独断と偏見?に満ちた句こそ
名句です。
それ以外にはありえないのです。
生活日記的な俳句、、、
女心を切々と読んだ俳句、、
山岳俳句
農夫俳句
トレンディ若者俳句
育児俳句
サラリーマン俳句
愚痴ぼやき俳句
身辺雑事俳句
すべてダメです。
俳句じゃあありえません。
こんなのは俳句ではありません。
俳句とは説明したらダメなのです。
俳句で解説したら最悪です。
俳句には通常的なわかりやすいような「意味」は不要です。
「無意味」でよいのです。
だから
俳句とは
独断と偏見のかたまりなのですね。
ということは
本当の俳句とは、、
わからない?
理解できない?
俳句ばかりということでもあるでしょう。
だからまあ
はっきり言えば
わかる人は分かればいいし
わからない人にはわからなくて結構という世界ですね。
ということは相当
自分の作る俳句に自信がないと
すぐ挫折です。
何しろ誰もわかってくれないんですから、、。
相当きついです。
だから俳人たるものは
何が一番重要かといえば
「自恃」です。
自らを恃むことです。
自分の俳句世界を信じ切ることです。
「誰もわかってくれないがおれの俳句世界を本当に判ったらすごいぞ、」
という自恃です。
それがなかったら俳句なんてやめるべきです。
身辺雑事日常茶飯事俳句でお茶をにごすようあ愚行は即刻やめたほうがいいでしょう。
第一そんなものは俳句ではないからですよ。
そうした俳句の高み?を目指さなくては俳句をやる意味がないでしょう?
たとえば、、、
子育てを俳句にするなんて無駄です
育児日記で済むはずです。
何も好んで俳句形式にする用もないでしょう。
日々日常の身辺雑事をとどめたいというなら
日記でもブログで書いてりゃあすむでしょう。
何もあえて俳句形式にする意味がないですよ。
仮にも
俳句形式で表現したいならば
もっと高みを目指すべきでしょうね。
自らを恃み
独断と偏見で
自分の世界観を
思い切って言い切るべきです。
そして決して揺るがないことです。
それが俳句です。
それしかありません。
それだけが俳句の高みに達する唯一の方法です。
それ以外はすべて捨象すべきです。
命の瞬きである。
言葉本来のパワー(言霊信仰)
水。風。花。木。空。大地。鳥、虫。森羅万象世界での遊行三昧である。
タイトル俳句?は俳句ではない。
つまり、原爆忌俳句、大震災俳句。催事俳句などは、これは俳句でありようはずがない。
本当の俳句とは自意識で作るものではない、もらってくるものである。どこから?日本的風土から。
「ゴビ砂漠俳句」?は俳句でありえない。
俳句は解説文・説明文ではない、直観。啓示?である。
神。鬼、夢。闇、夜。あやかし。物の怪、花の精、、
そういう意識の泥流?から発する物でもある。
つまり、、俳句は合理主義ではない、神秘主義である。
俳句は散文ではない、だから当然リズムと音感がなければならないだろう。
俳句とは玄初の神からもらってくるもの、いただいてくるものですから、
当然それは単なる写生ではありません、
というかある意味?俳句はフィクションです。虚構です。
俳句にサハラ砂漠やモンマルトルやシカゴをうたったものは存立し得ません。
非情に日本的なもの、、、俳句とはそれしかないです。
(中国、西域、インドまではぎりぎりは許容?範囲でしょうか)
モダンな個性的な俳句?そんなものは嘘っぱちです。
それは俳句ではなくて現代詩3行詩です。
薄っぺらな個性なんて詰まらんものですよ。
そんなもの時代の腐食作用ですぐ古臭く成り果てるだけです。
掘り下げてゆけば、モダンな仮面?のそのすぐ下に泥臭い日本の原風景が渦巻いてるんですよ。
そこから俳句をもらってくるんですよ。それしかないんですよ。
それは泥臭くて、おおらかで、つまりは「大いなる平凡」さですよ。
なんだか意味はよくわからないけど心に響く、、
そういう句が本当の俳句です。
俳句は意味ではないからです。
俳句に人生を賭ける?ある意味こんなバカはいませんよね?でもあえてそれをする。
それこそ遊行三昧境でしょうね。
体も健康、心も健康、スポーツ万能、そんな人が小器用にうまーく作った俳句?
それはダメです、俳句はもっと闇が深いですし、そのかなたにあるものです。
究極の俳句とは
自分の個性なんて言う薄っぺらな自意識を脱落させて
自然体で
言霊神から言葉をいただいてきて
それを恭しく碑に刻み付けることでしょう
具体的には、、
自然の懐に深く沈潜するというか
よーく見つめる
ずっと何時間も、、
そしてそこから言葉を
言の葉をもらってくるというのが本当の俳句でしょうね。
本当の俳句とは実は平凡なものです。
ですがその平凡さとはきらびやかな奇妙奇天烈な果てに
それらをつっこした果てに見える平凡さです。
カルチャーセンター俳句?に堕落してはいけない。
もっと大きな三昧境、遊行、、脱落から作句するのでなければ
良い?俳句なんてできませんよ。
花の季節に出会えば花を愛で
月の夜は名月を愛でる
そして自然と?俳句が生まれる。
別に利害得失で、俳句を作るのでもない。
それで作った俳句が有名になろうがなるまいがしょせんはどうでもよいことだ。
人生の中でその大いなる言霊に触れさせていただいて
遊行三昧境に生かされる、
そして俳句がいただける。
それ以上の何がお望みですか?
俳句で有名人になるとか
弟子がたくさんできたとか
しょせんはどうでもいいことでしょ?
自然体の俳句、、、つまりいただいてきた俳句は
自然とかるい?ものです。
かるみというか大いなる平凡さというか、、。
反対に小細工を弄して拵え上げた俳句は
重くて、ざらついて、後味が悪いものしかありませんね。
小賢しく言葉をちりばめる。
これが俳句における最悪ののシナリオですね。
もっと無心になれ
というか俳句浄土まで駆け上れということでしょうね。
俳句という極めて日本的な心性吐露装置に
何を盛り付けるか?
それに縛られてしまうのか
それともそれを突き抜けて
天界浄土まで行ってしまうのか
それはあなたの器量、、
キャパシティ次第です。
「五月雨や大河を前に家二軒」 蕪村
「この秋はなんで年よる雲に鳥」 芭蕉
、
蕪村は画家的ですし
芭蕉は哲人の感がありますね?
いずれも遊芸境
遊行俳人
最も高尚な?
遊びの世界に人生を賭けた人ですね。
最近の俳句ブーム?
まさにこれも遊芸?には違いありませんが
老人のゲートボールと俳句教室と同列ですね。
まあどっちも遊び半分暇つぶし?には違いありませんからいいんでしょうがね。
まあこういう老人たちの作る俳句は
孫俳句
ぼやき俳句
古い感傷俳句
平凡な諷詠俳句
月並み俳句ばかりですから、
まあしょせんどうでもいいってことですよね?
悪い意味での
いわゆる公民館俳句?
カルチャーセンター俳句?ですよ
そこに真剣な遊行三昧境なんて、、、ましてや、、
突き抜けて俳句浄土?に到達した俳句なんて皆無です。
またそういう境地を公民館俳句に期待するほうが愚かでしょうしね。
現代俳句
現在の俳句
俳句の現状
どうだい、うまく言いくるめた?だろう?というような俳句
現実にべったりの俳句
小器用な言い回しの俳句
生活日記?俳句
言い回しがうまいだけの俳句
現代の流行を取り入れて小器用に言いまわした俳句
結局はこんな俳句が
入選
入賞
するのが現代の俳句の現状です。
それではだめでしょう?
もっと魂から絞り出したというか
言霊神から押し頂いたというか
自然と一体化したというか
八百万の神々を賛美したというか
そういう俳句でなければ
ダメでしょう?
うまく
当意即妙に
才気煥発に、
言い回しが上手なだけの俳句では
ダメでしょう?
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