Blue Ligntning, Red Lightning
独特の香りが風に漂う。今年も金木犀がオレンジ色の花をつけた。
ここは山本洋輔の自宅近くにある公園だ。まだ残暑の名残を感じさせる日射しの中、洋輔は公園沿いの道をのろのろと歩いていく。
ここのところ洋輔はろくな休日の過ごし方をしていない。せいぜいコンビニで買った酒を手に野球観戦だ。しかも贔屓のチームは連敗中。いつ最下位に落ちてもおかしくない対戦成績に甘んじており、そろそろ応援する気も失せつつある。
昨夜は仕事の後、男友達の家で飲み明かした。朝帰りどころかすでに正午を過ぎており、洋輔は実に一日半ぶりに自宅へ戻ってきたのだった。
洋輔は、たまたま目があった野良猫に話しかけてみた。
「俺だって、たまには女の子に声をかけてみたい。気持ちだけはあるんだ。なあお前、ちょっと練習台になってくれないか」
猫は「にゃあ」とひとつ鳴き、走り去る。
「無理ってか。ちぇ。イケメンじゃないのは自覚してるが、それなりに愛嬌のある顔だと思うんだがな」
公園に沿って角を曲がると洋輔が住んでいる賃貸アパートが見えてくる。1DKの部屋が一階と二階に三つずつの集合住宅だ。木造、築二五年。洋輔の年齢を二年ほど上回る築年数だが、見る者に古ぼけた印象を与えるにはまだ建造物としての歴史が浅い。ただし、大家がきちんとメンテナンスしていれば、の話である。
洋輔はアパートのそばで立ち止まった。そう言えば、自分のアパートを昼間に見るのは久しぶりである。二階の真ん中にあたる自分の部屋を中心にアパート全体をなんとなく眺め回し、思わずひとりごちる。
「築年数三割増しぐらいのオンボロ加減だぜ。ま、家賃が安いんだら文句ないけど」
しばらくぼんやりしていると、背後からバイクのエンジン音が近づいてきた。洋輔の真横を通り過ぎていく。黒を基調とした車体に、赤くカラーリングされたフレーム。ライダーのバイクスーツも黒と赤で統一されていた。
「お。ホンワのVRZ400。旧型じゃねえか」
そのバイクの型式は三年前に生産終了となったモデルだ。だが洋輔の声には、古いバイクをばかにする響きはない。
バイクは、洋輔が住むアパートの駐車場に入り、停車した。その真横には無人のバイクが鎮座している。アパートの住人――洋輔のものだ。
ライダーは、洋輔のバイクをしげしげと眺めている。無理もない。色違いだが、型式も年式も全く同じバイクなのだ。洋輔のものはブルーメタリックを基調とした車体に、銀色でカラーリングされたフレームがアクセントとなっている。
このアパートへの入居に際し、洋輔は住人達に引っ越しの挨拶をしていない。挨拶するつもりはあったものの住人達はいずれも独身の若者で昼間は留守が多く、気づくとそのまま三年が経過していた。
住人の誰かが中古バイクを買ったのだろうか。それならこれを機会に近所づきあいをしてみよう。うまくいけば一緒にツーリングを楽しめるかも。いや、待てよ。もしかしたらライダーはここの住人ではなく、来客かも知れない。でもそれならそれでいい。偶然同じバイクに乗る者同士、気軽に話しかけてみようじゃないか。
ライダーは洋輔に気づき、振り向いてフルフェイスのヘルメットの正面を向けた。エンジンを切ってバイクから降りる。意外と小柄だ。洋輔は笑顔で話しかけた。
「こんにちは。旧型VRZ仲間ですね」
このときの洋輔は想像もしていなかった。そのVRZ仲間とダウンヒル勝負をすることになろうとは。
夕暮れの山道に高くて軽いエンジン音が響く。標高はさして高くない。適度に蛇行した峠道。次のカーブが事実上のゴール地点だ。
計算され尽くしたライン取り、素早く正確な体重移動。そして心臓に悪い最小限のブレーキング。
黒いVRZの真後ろにぴったりと張り付きながらも、洋輔は相手のテクニックに舌を巻いた。
「地元にもこれほど速いヤツはいない。でもいつまでも前を譲る気はないぜ」
最後のカーブ。
絶対にインを奪う。
洋輔のVRZが青い稲妻と化した。
「このVRZ、あなたの? あたし初めて見た、自分以外の旧型VRZオーナー」
ライダーがヘルメットを脱いだ。肩胛骨まで届く髪。漆黒のストレートロングがさらりと零れ――、洋輔の時間が停止した。
「おーい。もしもーし」
女性ライダーは臆さず洋輔に顔と手を近づけ、彼の目の前で手をひらひらさせる。
細長い眉、わずかに吊り上がった目尻。ほのかに赤みを帯びた頬は程よい丸みを備えていてやわらかそう。全体として、猫族のしなやかさと愛嬌を兼ね備えた女性だ。
「……あ、失礼しました。女性とは気づかなくて」
顔を赤らめ、しどろもどろになる洋輔。生まれてこのかた、女の子に告白はおろか自分から声をかけたことのない洋輔は、次にかけるべき言葉と退散する機会を探して視線を泳がせた。その視線はやがて、女性ライダーが着用しているバイクスーツの胸元に吸い寄せられ――、束の間固定される。
「確かに女性ですね……。……え、あ。あっ、しまった! その……すっすみまっ」
「ぷっ」
「へ?」
女性ライダーは身を捩り声を立てて笑い出すと、上手く身体を支えきれなくなったのか前傾姿勢で洋輔の肩に手を置き、それでもまだしばらく笑い続けた。
「あ……あのっ」
「あはは……。ごめんなさい、笑いすぎたわね。わっかりやすい人だわ、あなた」
洋輔は口をぱくぱくさせ、何かを言おうとしたが、結局「すみません」と謝った。
「あ、あたしレイカ。麗しい花って書くの。昨日、ここの二〇一号室に引っ越してきたばかり。よろしく」
そう言って右手を差し出すレイカにつられて洋輔も下の名前だけを名乗り、この時点ですでにじっとりと汗ばんでいた掌をあわてて服にこすりつけた。
その様子を苦笑混じりに見つめたレイカは自分も右手のグローブを外し、左手に抱えるヘルメットの中に突っ込んでから握手を交わした。
後で聞いたのだが、彼女は自分の姓があまり好きではないとのことだった。一番合戦と言うのがレイカの姓なのだ。
数時間後、ふたつのVRZは山頂付近に並んで停まっていた。
まだ山の木々は圧倒的に緑色が多い。道路脇にはリンドウが多く自生しているので、紫色もそれなりに目立つ。
「ちょっとヨースケ、絶景じゃない! 嬉しい。引っ越してきてすぐ、地元の人しか知らないような絶景ポイントに来られるなんて」
「これが絶景? 大袈裟だな、レイカは」
実際、さして高くない山から見下ろす景色と言えば寂れた片田舎の町並みが広がる程度で、特に珍しいものもない。
「だって嬉しいんだもん。あたしの周り、女の子どころか男の子でさえバイク乗る人いなくって、誰かと一緒にツーリングなんて夢のまた夢だったのよ」
「へえ。あ、そういえばレイカって、歳いくつだっけ? ちなみに、俺は先月二三になったとこ」
「ヨースケ。ふつう、女性に歳を聞く?」
「あっごご、ごめんっ」
レイカはあわてて謝る洋輔に近づくと、またしても彼の肩に手を置いて大笑いした。
「な、なんだよ」
「ごめんごめん、う・そ。はたち……、そう言えるのもあとひと月で終わりだけど。バイク好きが高じてホンワで働いてるんだけど、成人式の翌日にね。親に言ったの」
レイカは笑顔のままでそう言うが、語尾に含むものを感じた洋輔は姿勢を正し、次の言葉を待った。
「あたしの夢。バイクレーサーになりたいって」
「おお、かっこいい。で、親御さんは何て?」
「うふ。勘当されたわ」
「…………」
押し黙る洋輔の肩を、レイカはばんばんと叩く。
「やあね。あたしが笑ってんのになんて顔してんのよ、もう」
そのまま首筋に抱きつき、「ありがと」と囁いた後、身体を離したレイカは苦笑した。
洋輔は顔を真っ赤に染めていた。しかも、まるで棒を呑み込んだかのような“気をつけ”の姿勢で立っている。
「なーに固まってんのよ」
「う……うん。女の子に抱きつかれたの、これが初めてなんだ……」
レイカはひとしきり笑った後、洋輔に指を突き付けて言った。
「じゃ、次はヨースケの番」
「…………」
「なによ。年上には敬称つけて敬語で話せとか言っちゃう人なわけ?」
ひとつ息を吸い込むと、洋輔は言った。
「麓まで勝負だ。勝負につきあってくれたら話すよ、俺のこと」
レイカはわずかに眉を吊り上げる。
「あたし、負けず嫌いなの。なにが“勝負につきあってくれたら”、よ」
「……わかった。じゃ、勝ったら話す」
「俺、バイクショップで働いてるんだ」
エンジンを切って話し始めた洋輔を一瞥し、レイカは大きめの声で遮った。
「あたし負けたんだから、話さなくていいのよ」
「ははは、負けず嫌いなんだな、レイカ。その性格ならあっという間に、今よりもっともっと速くなれるぜ。もちろん、俺なんかより」
疑わしそうな目を向けるレイカに近づくと、洋輔は告げた。
「俺言ったよな。“勝ったら話す”って。勝ったぜ。だから、話したいんだ」
レイカはようやくエンジンを切り、バイクから降りた。
「速くなろうぜ、一緒にさ」
「……?」
洋輔の夢は、レーサーメカニック。労働時間に比して収入が少なく、将来性もない。彼もまた、親から勘当された身だった。
「やるからにはてっぺんを目指したい。バイクショップで働きながら、一級整備士の勉強してんだ。……面倒見るぜ」
「……え」
「レイカのバイク。次は公道じゃなくて、サーキットで――」
レイカは洋輔に飛びつくように抱きついた。やはり真っ赤になる洋輔だったが、今度はぎこちなくもゆっくりと、レイカの腰に手を回した。
「……よ」
レイカの囁き声を聞き逃し、洋輔は聞き返した。
「次は負けないわよ、青い稲妻さん。今度はあたしが、赤い稲妻になるんだから」
洋輔は苦笑しつつも、大きくうなずいた。
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