直往
街という一文字に重苦しい印象を持つのは俺だけであろうか。
同じ読みで、町という一文字もある。しかし町と街は同じらしいのだ。以前、電子辞書で調べてみたらこの二つは同意だというような一文が書かれていた。つまりは、町は街で、街は町という訳だ。この二つは意味上においてはそれほどの差異は見られない。
だが、街の方が堅苦しいと俺は思う。何故だかわからない。町は田舎のようだとか街は都会のようだとかそういう感じではなく、ただただ、俺はこの街という一文字が重く堅苦しいという印象を持っている。
いつも思うのだ。
もしも今俺の住むこの場所が町だったのなら、こんな現状など到底有りはしないのではないかと。
少しだけ昔話を回想させてほしい。この街が街たる所以の話だ。それ程長い話ではないので、どっしりと構えてお気に入りの曲を聴きながら聞いていてもらって構わない、その程度の話。
昔、この街には王様が居た。王様は捻くれていた。人民や動物を見下す為に雲まで届く塔をつくり、そこに居座る行動を起こしたらしい。県民ならぬ街民はこの行動に呆れた。当然であろう。こんな行動に対して本気で対応するのは、動物かロボット達だけだ。
しかしここで異変が起こったのだ。塔の頂上に座る王様が「星の鳥だ。星の鳥を、私は見たのだ」と泣きながらそう言い、落ちてきていたらしいのだ。
流石の街民達も無視を決め込む訳にはいかず、「王様、王様」と叫んだが、間に合わなかった。
街民達は、間に合わなかった。
けれども、王様を見捨てなかったロボット達が、なんとか着地地点にトランポリンを張り、助けたのだ。それにより王様の価値観は変わった。ロボットの方が自分を慕ってくれているのだと思うようになったのだ。それからというもの、王様は人を更に見下すようになった。中でも特に『不出来な人間』の扱いが酷くなり始めたらしい。奴隷同様の扱いをし、『出来る人間』に対しては生きることの出来るギリギリの生活をしき、反面、ロボットには高待遇を用意した。
王様には妻が既におらず、三人の子供がいた。街民はその三人の子供の内二人がとても頭脳明晰で、かつ街を統治するに値いする素質を持っていることを知っていた。街民は企てた。王様を殺そうと。
だが、それはなかなか実行に移せなかったようだった。強硬なロボットが王様を守っているからだ。街民は、王様に手出しを出来ないでいた。
そうしている内に王様は、ある恐ろしい法案を施行した。
『不出来な人間』と『出来る人間』を区別する、という法案。誰の意見も聞かないまま、王様はロボット達に壁を造らせた。大きな大きな、堅固な壁。
人が持つ力では到底通りぬけることの出来ない壁を。
そして、王様は街の人口を半分に減らした。街を、『出来る人間』だけにしたのだ。
人口の半分は壁の向こうに投げ出された。以後、『不出来な人間』が住むそこを王様は街と呼ぶことを禁じ、『出来る人間』とロボットは『不出来な人間』の未来を知ることが出来ないようになってしまった。
とうとう街民だけでなく、王様の子供達が自分達の父親を殺そうと、他の街に応援を頼んだ。
その街によって作られたのは、毒が入っていないのに食べたら死んでしまうオムライス。それが届くと、子供達は「お父様に食べさせてください」といい、ロボットに渡した。
王様はこうして死んだ。
奇しくも、自分が唯一慕ったロボットという存在によって手渡されたオムライスが理由だった。
王様が死に、子供達は王になった。誰がどんな王になったのかは定かではない。
何故ならこれは、『出来る人間』の街から逃げてきたロボット君による情報だから。
そう。
王様の死から五年。
『不出来な人間』の街に強制的に住まわされた俺達は、今もこうして生きている。
午前四時。こうして何の恥じらいもなしにパジャマ姿で外出している俺以外、全街民のほとんどが寝静まった深夜か早朝かよくわからない時間帯に、俺はのんびりと自動販売機のボタンを見てジュースを買った。金を使わず、更には飲みたいジュースの種類を思い浮かべるだけで、その望んだジュースが自動販売機から出て来るというこの仕組み。かれこれ数十年前に作られたのではなかったか、と年甲斐もなく感慨深くなりつつ、いつの時代でも赤い自動販売機のいつの時代でも取り出し口は下の方と決まっているその場所から冷たいアルミ缶を右手で取り出す。オレンジジュースだ。オレンジの最後とジュースの最初が同じカタカナで書きづらいし読みづらいのではないか、とくだらないことを思いながらも、プルタブを開け中身を飲んで電灯の光りが微かに足元を照らす荒んだ街の真ん中を歩く。
「…………」
その間、俺は無言だった。恐らく第三者が今の俺を見た時の第一声は「なーにあの人無茶苦茶無表情で怖いんだけど」とか「あのお兄ちゃん冷徹だよ、冷徹ー」とかであろう。あまりにも偏った人選で悪いのだけれど、いかんせん今の俺の心の中は風が吹き荒れるこの街と同じように荒んでいる。だから何の気無しに手放しで許して欲しい。
何故俺の心が荒んでいるのか。その理由はあまりにも単純過ぎて口に出すのもはばかれる程くだらないのだが、こうして口に出さずに思うだけならタダであろう。どうせ俺なんかが一人称小説の主人公になんかなる日は絶対に来ないのだろうし、今この場で一人勝手に思わせてもらうことにする。
何故俺の心がこの街と同じように荒んでいるのか。
その理由は、俺の両親とこの街に所以する。
「キャイー」
すると、ニヒルに気取ろうとするこのタイミングを狙ってたのではなかろうかという程のベストタイミングで、俺の後ろをついてまわるロボット君が音を起てた。まあまあに高いであろう俺の身長の半分くらいの大きさで、全身真っ白の超合金素材で出来ているロボット君。便宜上仕方なくロボット君と呼んでいる俺だったが、丸い頭や人間の目に当たる部分から光りを出すロボット君が一体全体何歳なのか――何年前に製造されたのかはわからない。同様に性別も。というよりもまず性別の有無すら確認出来ない。だから本来ならば俺はロボットさんとでも呼ぶべきなのかもしれないし、ロボット様といって敬うべきなのかもしれない。結局のところ、十代後半という濃密な期間をつい先月終わらせたばかりの俺にはよくわからない話だ。
なので俺は一切敬意を払わない。寧ろ友達感覚でいこうそうしようと意気込む。自動販売機でジュースを買えたのはロボット君が放つ目の光りのおかげにも関わらず、「……うるさいな」と惜し気もなくつぶやいた。それに対するロボット君の返答はまたもや「キャイー」。たまに「キャワイイー」と聞こえてしまう俺なのだが、あながちこの意見は少数派ではないと思う。物凄くくだらなくどうでもいいことだけど。多分な話しなのだけれど。
そう。
多分な、話。
「確認しようがないのだ」うっすらと明るい街の上空に浮かぶ曇り空を眺めながら、俺は言う。
確認しようがない。
この街には俺以外、外に出ようと思う人は誰も居ないのだから。
ため息と共にネガティブな呟きを出しそうになってしまうが、寸手のところで留まることに成功した。後ろからまたもや「キャイー」という音が聞こえたのだが、無視することにしよう。いちいちリアクションしてたら日が暮れてしまうし、そもそも俺にはロボット君の発する音にリアクションする義理はない。例え「キャイー」という音以外、今この街には何も音がないとしてもだ。ああ、そうだ。淋しいなんてことはない。この状況に陥ってからかれこれ五年になる。だから、この街全体が廃墟寸前だとしても何も心配はいらない。
――この街。
俺達が生まれ、俺達が育ち、そして俺達の内半分が棄てられた街。
そんな街に、今、俺は住んでいる。
「……どうすればいいのだろうか」
呟きながらも、俺はオレンジジュースを飲みながら街を歩いた。夜のせいで、本来ならば赤い筈の足元のコンクリートが青く見える。両横にはシャッターがおりた店が立ち並び、もし今が昼間だったら誰もがシャッター街だよここと思う背景が広がっている。まあ、一時でも七時でも十九時でも、この街の全ての店のシャッターは常に閉まったままなのだけれど。
結局ここはシャッター街なのだ。
全国ならぬ全街が、シャッター街。
「ん?」そうこう考えている間にオレンジジュースを飲み切っていた。数滴しか残っていないであろうオレンジジュースを名残惜しく思いながらも、俺は空き缶を地面に落とす。カンッ、と小気味よい音を起てた空き缶は数秒転がると、「キャイー」という音をたてるロボット君に押し潰された。二足歩行でも四足歩行でもなく、地面から数センチ浮かんだ状態のまま浮遊するという移動手段を使うロボット君。そのロボット君は、自分が仕える主という奴が自動販売機でジュースを買ったり、自分の下にゴミを感知すると、「キャイー」という音をたてて行動に移す。
自動販売機の時は往年のお財布ケータイのような機能を使い。
ゴミを感知した時はゴミを体の中に回収し、体の中で処理する。塵にもならずに排出されず、ロボット君の動力源として還元されるらしい。しかも還元率百パーセント。改めてこの街の技術の進歩は凄まじいと思わざるを得ない。時に、見ざる聞かざる思わざる昔の言葉の中にあったという話を誰かから聞いた覚えがあるのだが、一体全体どんな猿達なのだろうか。見ようとしないで両手を両目に被せていたり、聞こうとしないで両手を両耳に被せる猿達の姿は、こう、なんであろう、結構癒されるものがあると思う。『思わ猿』という猿に関してだけは、居たら居たで冷徹で淡泊な感性を持った猿になりそうだ。
猿に会ってみたい。いや、猿じゃなくてもいい。とにもかくにも、何でもいいから動物に会ってみたい。ロボット君を毎日見るだけで充分満足なのだが、やはりたまには違う物や者を見てみたい。
この街に住む者全員にロボット君が仕えてるせいで、この街にはゴミが一つもない。
更にそのせいで、野良犬も野良猫も生きられない環境になってしまったのだ。当たり前だ。可燃ゴミも不燃ゴミも何もない状態で野良動物が生きれる訳がない。因みにこの街に、植物はどこにも生えていない。何故ならこの街の技術の進歩のおかげかどうなのか、ロボット君達が植物の働きを補っているからだ。
つまりはというと、この街には緑がない。
それなのに、この街で俺達人間はかろうじて生きていける。
「技術の進歩だというが」
そう呟いて、俺は歩き続ける。技術の進歩。それが良いことなのかそれが悪いことなのか。少なくとも、街の半分の住民達にとってはいいことなのだろう。だが、俺達棄てられた人間にとっては――。
「……っと」そうやってああでもないこうでもないと考えている内にいつの間にか家の前に着いていた。一階建ての一軒家。なんてことない外見。それこそ、最近再放送されていた青いタヌキロボットが住む家と同じといっても遜色ないのかもしれない、そんな我が家。まあ、あちらは二階建てでこちらは一階建てなのだから、あちらの方が裕福といったら裕福なのかもしれない。いくら裕福だといったって、あんな青いタヌキなロボットを養う根性を俺は持ち合わせてないけども。言わずもがな、俺は、ロボット君で満足なのだ。
俺の思いに呼応したかのように「キャイー」と音を出すロボット君。またゴミでも見つけたのかと思ったが、冷静に考えてみたら今の「キャイー」と先刻の「キャイー」は音の高さが違った。前者が少し高く、後者が少し低い。
アラーム機能だ。ロボット君の、三十分毎のアラーム機能。
腕時計を見て、今の時刻を確認する。「今は四時半、か」と何の気無しに呟く俺。呟きを記すネット上のサービスなんかあったら今頃使いまくってるだろうなと意味のないことを思いながら、「ただいま」と言って木製の扉に右の掌を当てた。瞬間、扉が消え、玄関が見える。これも所謂技術の進歩というらしい。テレビに映っていたお偉いさん方は「DTD。……これはですねみなさん、ドアーズスルードアと呼ばれる代物なのです」と大袈裟にフリップを使って説明していた。ドアーズスルードア。略してDTD。何処の学生さんがこんな名称と略し方にしたのだろうか。それとも誰かに入れ知恵されたのか。正直、俺はこのシステムの名称が好きではない。ドアーズスルードアとはどうなのだろうか。もう少しおかたい名称に出来はしなかったのだろうか。どうなのですかこれは、と青ざめた顔でお偉さん方に言いたいところだ。
ロボット君が後ろからついてくるのを確認しながら家に入り、玄関で靴を脱がずにそのまま内部へと進行する。後ろを振り返ると、依然浮かんだまま音もたてずについてくるロボット君の後方に、これまた音もたてないで扉が復活していた。ドアーズスルードア。やはりダサい。あの時のテレビ番組に出ていたお偉いさんに会う機会があったらその時は文句を言ってやろう。まあ、間違いなくそんな機会はこの先一生訪れないだろうけど。
「…………」「…………」
俯きつつ、ギシギシと音がなる木製の床を歩いていると、二人分の沈黙が俺を挟んで聞こえてきた。沈黙が聞こえるといったら表現がおかしいが、しかし実際、この家の住人は沈黙しながら魔物を倒したりカジノで金を荒稼ぎする音が聞こえてくるので、あながちこの表現は間違っていないと思う。沈黙以外の状態、つまり睡眠中の場合は何の音もこの家には響かないから。
何をかいわんや。家の中で魔物退治やカジノなど出来る筈もなく、これまでの話は俺の両親がやっているゲームの話だ。確か題名は『グロリアスレボリューション』。オンラインのネットゲーム、所謂ネトゲというもので、俺を産んでから数年経った後に嵌まってしまったらしい。お蔭様で俺の過去編では、家の中でネトゲに勤しむ両親の後ろ姿を見ながら寂しく涙しているという哀愁漂う物語が形成されることだろう。全編そんな話だ。視聴率や印税は到底見込めない。
――俺が住むこの家の構造は失敗しているといっても過言ではない。何故なら、両親は今、別居中だからだ。
母親である斑鳩海里という四十代後半女性と、父親である斑鳩李句という五十代中盤男性は只今絶賛別居中。理由はあまりにも単純で、簡単に言い表すと、父親の浮気が問題なのだ。ただし、父親は家から出てこない。母親も当然家から出てこない。ならば離婚も別居もあったもんじゃないだろうというような苦情ともいいつかない質問が出るかもしれないが、まあ待って欲しい。これは俺が三年悩まされている問題だ。だからじっくり滑らかに、かつクリアーに語ろうと思う。
そうはいったものの、実のところこの状態に至るまでのくだりがくだらなすぎるのが問題なのだ。
まず、父親が『グロリアスレボリューション』上で同じネトゲプレイヤーをナンパした。長年家に居てしかもずっとネトゲをしていたのだ。溜まっていたものもあったのかもしれない。
だが、そこまでならまだよかった。結局のところネトゲ上の話な訳だし、直接会ってナニをする訳でもない。
本来ならば。
しかし、残念ながらというべきなのか、父親がナンパした相手であるハンドルネーム『リリィ』さんは、あろうことかネトゲ廃人ではなく、単なる出会い系感覚で『グロリアスレボリューション』をプレイしていたのだ。
その後の展開は言うまでも思うまでも回想するまでもない。自身をおじさん好きと父親に公言したリリィさんは、父親がナンパした数週間後、家にやってきて父親と密会した。
で、ナニをした。
そうしているところを、ふいに気になって部屋から何年ぶりかに出た母親に、見られた。
「あんたが浮気するなら別居させてもらいます」
単刀直入に放った言葉だったが、俺は身長が百五十センチを越えて以来、初めて母親のここまでの長文を聞いた。正直、呂律がまわっていなかった。
父親はうろたえていた。反面、リリィさんは堂々とした態度をとっていた。「なぁに奥さん、ボサボサした髪で」と言いながら淡々と服を着て、父親に「ありがと、テラさん。気持ち良かったよ」とか言いながら部屋から出ようとする。ちなみにテラというのは父親のハンドルネームだ。一体全体、李句という本名の何処からこのハンドルネームを持ち出したのやら。ネトゲのネの字も知らないしがない俺には想像も確認もつかないし、しようがない。
母親は当然リリィさんを止めようとした。詰問する為だ。一周間に一回くらいしか風呂に入らないせいでボロボロになっている髪をしていた母親だったが、「ちょっと待ちなさい」と毅然とした態度でいってのける様は結構かっこよかった。比較対象が半裸でうろたえている父親だからというのもあるかもしれないけれど、まあそこは言わぬが花というところだろう。
そんなかっこいい母親だったのだが、いかんせん指先しかほとんど動かさない生活を繰り返していた為、悲しいことに極度の運動不足という問題がこの先の展開を左右してしまった。リリィさんは父親の話を聞いてそれを見越していたのだろう。小柄なリリィさんの両肩を掴む母親の両手の力は、あまりにも弱々しかった。母親の制止を簡単に振り切り、夜の街へと手を振りながらにこやかに去っていくリリィさん。あの姿は清々しさの権化といっても過言ではないだろう。それ程にリリィさんは一貫して、自分が悪い、という態度をとらなかったのだった。
まあ、最終的に悪いのは、母親の前で土下座する半裸の父親なのかもしれないからかもしれない。
「別居も生温いわ。離婚しましょう」
「やめてくれ。せめて別居にしてくれ」
「嫌よ。離婚よ、離婚」
「せめて別居に」
うろたえているのか何なのか、変なところで妥協させようとする父親。どうなのだろう。離婚か別居。どちらも嫌な話だ。二択問題としてこれ程生々しくかつ残念な問題はないと思う。例えば、爆弾処理中で、青か赤どちらのコードを切るかというような、ああいう感じの緊迫感が欲しいところだった。泣きながら母親の足に縋り付き、「別居に」と懇願する父親の姿は、哀れを通り越して滑稽な風に見えた。
「じゃあいいわ。離婚は私も困るから、別居しましょう」
そうして、優位にたっていた母親が降した結論は別居だった。怒りに震えていた母親だったのだが、冷静に考えたのだろう。父親と離婚しては、ローンを全て払いきったこの家から出なければならないと思ったに違いない。そして、家から出たらネトゲが出来なくなる、それはいくらなんでもマズイ、とも思ったに違いなかった。
家を出ない別居というのはつまり、互いに別々にしていた部屋をもっと遠くに配置し、そうして同じ家に住むということらしい。そういう第一認識が俺の母親と父親にはあったのだ。というよりも、家から出るという選択肢が『別居』という二文字の中には含まれていなかったようにも聞こえた。別れて、居住する。この一文の意味をこなす為に、家が二つある必要はないのだろう。「じゃあ貴方はあっち側の部屋に住んで」「わかった」という短い会話の応酬によって、隣合わせの部屋でそれぞれネトゲをしていた父親と母親の部屋の位置関係は少しだけ変わった。
則ち、廊下を挟んで向かい合っている部屋と部屋、という位置関係に落ち着いたのだ。「あまり変わってないんじゃないのか」という指摘には、「俺もそう思う」と苦笑するしか対応のしようがない。
――この別居騒動において、俺は一切二人に関わっていない。
というより、関われなかったと言った方が正しい。
俺は父親と母親にとって、足りなくなった食事を配達したり、一周間に一度という間隔で父親と母親が入る風呂の準備をするだけの、単なるそういう存在でしかなかったのだから。悲しくないといえば嘘になる。だから俺は、父親と母親の後ろで立ち尽くしているロボット君達とたまに遊んでいる。それでも悲しくないといえば、まあ、嘘になるかもしれない。けれども、俺は俺のロボット君を含めた三体のロボット君達と遊ぶのが何よりの楽しみだった。
そうして、現在、俺が歩いている廊下の両横からカタカタカタとネット世界のバーチャル主人公を動かす為に両親それぞれがタイピングする音が聞こえてくる。三つ連なって並ぶ扉達の真ん中に、ロボット君二体が閉め出されていた。俺が帰ってきたのを理解したのか、一瞬こちらを見て「「キャイー」」と音を出してくれる。そのままじっくりこちらを見てくるロボット君達。対して、「俺を見てたらダメだって。父さんと母さんを護ってくれ」と俺は言った。ロボット君達の役目はあくまでも父親もしくは母親のサポートなのだ。ならば、きちんとその任務を全うして欲しい。
次第に、ロボット君達は扉の方を向いてじっとした。それでいい。そんなにしょっちゅう俺と遊んでいたら、ロボット君がロボットである存在意義が失われてしまう。だから、それでいいんだ。
前を見据える。右奥には、五年という期間中、一度も家族同時に居たことがないリビングがあった。左奥には手洗い場や洗濯機が含まれる風呂場。風呂場だけ、外国や、ホテルのような構造になっている。浴槽にカーテンがかかっているこれこそ洋式というべきなのだろうと俺は思う。しかしながらこの家に住み始めてから十年経ち、同様にこの風呂場も十年使っているが、全く慣れなかった。やはり俺のような生粋の街人は和風がいいのだ。和風の『和』の意味はよくわからないけれど。
家の構造はこんなところだ。最低限な施設しかないにも関わらず、押し入れくらいにしか使わない部屋が三つもある、明らかに間違った構造をした家。それが俺と父親と母親とロボット君達三体が住む場所だった。
それも当然至極、本来ならこの家にはもう二人、住んでいる筈の人間がいた。
俺の兄と姉。
二人はもう、この家には――この街にはいない。
否、それは違う。
この街には居る。確かに二人とも存在しているし、この街全体から見れば居ることは居るのだ。けれども、この街の半分――棄てられた街の中には、居ない。二人共、選ばれた。棄てない人間の中に、選ばれたのだった。
逆に。
俺達は棄てられる人間の中に選ばれた。
「…………」沈黙の状態のままギシギシと音のなる廊下を歩き、玄関からみて三つ目の部屋、つまり母親がネトゲをする部屋の隣の部屋に扉を開けて入る。これもドアーズスルードアだ。技術の進歩にものをいわすのもいいことだが、こう、なんだろう、不必要な部分を特化しても仕方がないと俺は思う。結局のところ、こんな二十代前半男にこんな装置は要らない、という話に行き着くのは仕方のない話の流れなのだと勝手に自己完結するが、どうなのだろう。
部屋の中には、かけ布団や敷き布団がくしゃくしゃになったままのベッドや、夜中にむしゃくしゃしてやけ食いしたポテチなる略称の食べ物の臭い。茶色のカーペットが床に敷かれ、左には液晶テレビ、右には本が完全に入り切った木製の本棚がある。
見てくれが新品同様なのは一重にロボット君だけのおかげだ。ゴミを捨てたり埃が舞ったりすると、直ぐさまロボット君が「キャイー」と動いてくれる。ロボット君が居なかったら、ここは既にゴミ屋敷となっていたところだ。技術の進歩。こういうところに使うのはいいことだと思う。
「ハァ」溜息をつくと、俺はベッドに飛び掛かって寝転んだ。「疲れた」
疲れている。だが寝れない。疲れが精神的なものだから。肉体的な疲れは全くない。精神的な疲れしかないから、寝れない。
頭を枕の上に置いて、天井を見上げた。木の色、霞がかかった茶色。技術の進歩が全く行き届いていない様子を視界に捉えた俺。だからといって何をする訳でもない俺。深夜四時、早朝四時に溜息をつく。何もない。この家には何もない。このままこの家で、この街で生活していても何もないのは目に見えている。
だからといって。
何をする訳でもない、俺。
「いいのか、これで」それでもやはり不満はあった。「本当にこれでいいのか」
言うが、天井に向けているので誰も反応してくれない。しかし俺は、それでも言った。言うしかなかった。「いいのか、これで」
何故だろう。ふいに、今までの生活が頭の中に浮かぶ。今日に限ってだ。今までにこんなことはなかった。何故なのだ。わからない。今日、何か起きるのか。
わからない。
それが予兆だったのか、前フリだったのか、わからない。
――しかし俺はこの日、あることを決意することになる。
「すいませんごめんなさいすいません!」
天井をぶち壊しながらやってきた、一人の女によって。