消えない溝(みぞ)
ブザーが鳴ったのは、駐車場で四十分待ったあとだった。
「順番になりましたらお呼びしますので、お車でお待ちください」と受付で言われてから、キャリーの中のももたんは一度も鳴かなかった。
茶白の丸い背中を網目ごしに眺めながら、私は「今日は爪切りとノミダニのお薬ね」と何度目かの声をかけた。
それに、今日はもうひとつお願いがある。最近ももたんはフローリングで足を滑らせて、そのたびに「あれ?」みたいな顔でこっちを見る。肉球まわりの毛を切ってもらえば、少しは踏ん張れるはずだった。
ブザーを握って待合室に入ると、息が詰まった。
狭い。ベンチは満席で、リードの犬が足元で唸り、どこかでケージの中の猫がか細く鳴いている。私は壁際に空いた隙間に体をねじ込んだ。
キャリーは二つ。左でももたんが丸くなり、右でゆずたんが、いつものようにずっと鳴いている。
そこへ看護師の女性が来て、キャリーの持ち手に手をかけた。
「お預かりしまーす」
ニコリともしない人だった。メガネをかけて、キツく結んだ人で20代ぐらいの小柄の人だった。
目が合わない。私の顔を見る代わりに、キャリーの中をちらっと覗いて、小さくため息をついた。
ももたんとゆずたんが入ったキャリーが、私の手から事務的に抜き取られていく。
「あの、今日はももたんの肉球まわりの毛も、お願いしたくて」
「はい」
面倒くさい、とその一音に書いてあった。彼女はキャリーを雑に持ち上げた。返事はそれだけで、彼女は待合室の奥、重たそうな扉の向こうへ消えた。診察室ではない。手術室だ。そこしか空いていないのだと、知った。
飼い主は入れない。
ももたんも、ゆずたんも大丈夫だ、と思った。何度か嫌な事があっても、暴れない、看護師さんの前では大人しい子だったから。
去年も手術室に連れて行かれた時も「大人しくて良い子でした」と言われるぐらいだった。
十分、十五分。待合室の空気が、人の体温でぬるくなっていく。
しばらくして扉が開き、さっきの看護師が出てきた。キャリーを片手にぶら下げて、まっすぐ私のほうへ歩いてくる。診察室に呼ぶでもなく、ひとこと耳打ちするでもなく、待合室の真ん中で立ち止まった。
「暴れてもう無理なんで、肉球カットはできませんでした」
声が大きかった。周りの人の視線が一気にきた。
「ちゃんとしつけができてないと、こういう処置はできませんから」
時間が止まった。
しつけ。猫に。
頭の中で、言いたいことが一気に噴き上がった。 猫にしつけって何ですか。五年間、一度も暴れたことのない子が初めて暴れたのは、なぜだと思いますか。あなたは何をしたんですか。
だけど、周りの視線が肌に刺さっていた。ここで声を荒らげれば、キャリーの中のももたんにまた怖い思いをさせる。何より、この部屋の空気を一秒でも早く吸わなくて済むようになりたかった。
「ハイハイ」
自分でも驚くほど、乾いた声が出た。
謝るつもりなんて、爪の先ほどもなかった。この人に何を言っても、たぶん何も届かない。相手にする価値もない。そう思ったら、怒りは熱いまま、芯のところだけ急に冷えた。
キャリーを受け取り、会計を済ませ、逃げるようにドアを抜けた。
車に戻ってからも、ハンドルを握る手が少し震えていた。
家に着いてキャリーを開けると、ももたんは自分から出てきて、いつもの場所で丸くなった。ゆずたんは出てこない。奥で小さくなったまま、鳴きもしない。
先にももたんを抱き上げて、首元を撫でた。
指が止まった。
ふんわりした白い毛の真ん中に、線があった。一本のまっすぐな溝。毛がそこだけ割れて、下の皮膚が見えそうなほど深い。誰かが手のひらで、強く、長く押さえつけた跡だった。ブラシをかけても、手ぐしで直しても、元に戻らない。
あの女の手だ、と思った。
「どんだけ強く押さえたの……」
それから、キャリーの奥のゆずたんに手を伸ばした。
「ゆずたんも、おいで」
触れた瞬間、ゆずたんの体がびくんと跳ねた。
ゆずたんは首元を撫でられるのが大好きな子だった。顎を上げて、目を細めて、自分から頭を押しつけてくる。五年間、毎日そうだった。
それなのに、今、この子は私の手を怖がっている。
もう一度、そっと、首の後ろに指を伸ばした。ゆずたんは身を縮めて、後ずさった。
見えた。ももたんよりも、ずっと深い溝だった。黒と白の境目に、えぐれたように毛が割れている。どれだけの力で、どれだけの時間、押さえつけられたのか。
触られるのが、怖いのだ。
家に着いてキャリーを開けると、ももたんは自分から出てきて、いつもの場所で丸くなった。ほっとした。いつものももたんだ。
「怖かったね。ごめんね」
膝に来た二匹の首元を撫でた。
指が止まった。
ふんわりした白い毛の真ん中に、線があった。
一本の、まっすぐな溝。毛がそこだけ割れて、下の皮膚が見えそうなほど深く、くっきりと。誰かが指か手のひらで、強く、長く押さえつけた跡だった。ブラシをかけても、手ぐしで直しても、毛はそこだけ元に戻らない。
次の病院の日が近づくたび、あの待合室の空気と、「しつけ」という言葉が戻ってくる。
別の病院を探さなかったわけじゃない。調べた。あるにはある。田舎だから車で三十分以上かかる。そこで詰まる。
ももたんだけなら、まだいい。だけど、ゆずたんがいる。白黒のあの子は、キャリーに入れた瞬間から鳴き続ける。三十分、助手席で、ずっと。あの声を聞きながらハンドルを握って、私は集中を保てる自信がない。もし事故を起こしたら、キャリーの中の二匹ごと、全部が終わる。
近くにあるのに、行けない。
行ける場所があるのに、行けない。
膝の上のももたんを撫でる。割れた毛の溝を、指でそっとなぞって、直らないと知りながらなでつける。腕の中の小さな体温だけが、確かだった。
あれから三ヶ月が経った。
二匹の毛の割れは、まだ消えない。
毎朝ブラシをかける。毎晩、指でなぞって、なでつける。それでもその線だけは、そこにある。見るたびにあの看護師への怒りがわいてくる。
ゆずたんは、今でも首元に手を伸ばすと、一瞬だけ身を固くする。すぐに力は抜けるけれど、その一瞬が、私には毎回、刺さる。
病院のことを考えるだけで、こめかみが締めつけられる。薬を飲んでも抜けない。




