目と観
ねえ、シュレーディンガーの猫って知ってる?
箱の中に猫が入っているとして、その箱を開けない限り、その猫が生きているか死んでいるか、私たちは知ることができない。
つまり、「存在している」とも「存在していない」とも言える。
猫は、生と死のあいだ、存在と不存在のあいだに、同時にいるのだ。
量子も、同じようなものだ。
誰かがそれを「見る」ことで、その状態が定まる。
観測するだけで、世界の在り方は変わってしまうし、
「見ること」そのものが、世界に干渉している。
では――
私が目を閉じた時。
目の前の人を見ず、
周囲の物事を見ず、
社会を、世界を、見なかったその瞬間、
世界は私の想像もつかない仕方で動いているのではないか。
たとえば、私が目を閉じたその瞬間に、世界が一面の荒野になっていたとしたら?
深海の巨大なタコが、今この世界を覆っていて、私が目を開ける瞬間に、その存在が見せたい「現実」を私の目に映しているとしたら?
……もちろん、これは「何か外部の力」が私の視覚に干渉しているという例え話だ。
でももし、「自分自身の観測」が世界を変える外力だとしたら?
目を開けている限り、光は網膜を通して脳に世界を届ける。
だが目を閉じた時、光は皮膚に当たり、
拡散し、その微細なエネルギーが、
バタフライエフェクトのように連鎖して、
何百キロも離れたあなたにくしゃみをさせた――なんて、あり得るかもしれない。
……いや、さすがに馬鹿げていると自分でも思うよ。
でも、「見ること」は、ただの読み取りではない。
コンピュータの読み取り専用のように、静的なものじゃない。
私たちの観測は、世界そのものの編集に関わっているのだ。
だが、ここで一つ、大きな過ちがあるかもしれない。
私たちは観測者として振る舞っているが、同時に「猫」でもあるのではないか。
つまり、観測する者であると同時に、観測される存在でもある。
もし、私たちよりも上位の存在がいて、
その存在がこの地球を「一目見る」だけで、
人類すべてを滅ぼすか、あるいは性格を歪めて世界を狂わせる――
なんてことが起きたら……いや、冗談だよ。ただの妄想さ。
でもさ、もし「誰かに見られる前」で、物の有無が左右されているのだとしたら、
私が目を閉じている間、
私はいったい、どうやって「存在している」と証明できるんだろう?




