第二話 異世界
修業で慣れた森へ走りこんだ仁太は父親と顔をあわせる事を避けるために、普段はあまり立ち入らないような森の奥深くへ進んでいた。
さっきはあんな事を言われて腹が立ったけれども、よくよく考えるといつも言われてていつもは気にしてない事だよな。
あの場を飛び出してこんな奥深くまで来たけれども、お腹も空いたし家に帰ろうか。でも今からのこのこと家に帰っても「お腹を減らしたから帰ってきた」と言われて笑われそう、家に帰る理由が無いものかな…。
初めの方こそ腹を立てていたが、一時間も森の中を歩いているうち段々と落ち着きを取り戻し、お腹も空いてきた事もあって家に帰る事を考え出した。
実は結構いい加減なところもあるため、こういった場合にありがちな「絶対に戻らない」と片意地を張るような事はないのである。
しかしあのタイミングでの「ふざけるな」発言で飛び出したとなると、笑われない理由を探して家に帰るのは難しそうだ。
なんであんなに怒っちゃったんだよ、これじゃあ恥ずかしくて戻るに戻れないじゃないか、自分の馬鹿野郎が。
飛び出した状況を冷静に考えれば考えるほど、家に戻れない事に気が付き途方に暮れる。そんな時に昼間の補習中に聞こえた声と同じ声が聞こえた。
「そなたの願い道理の場所へ行こうか」
また聞こえたささやき声に周りを窺うが、誰の姿も見つける事が出来ず只ただ首を傾げる事しかできない。
忍術により人の気配を察知する事も得意であるが、声は聞こえども姿の見えないこの状況に少し恐くなってきた。
なんか恐いし家に帰るかな。
人は自分で説明できないような状況に陥ると恐怖を感じる、それは日頃忍術の修業で鍛えられているはずの仁太でさえ例外ではなかった。自らの恐怖に負け恥ずかしさを我慢し帰宅を決意した仁太は、その場で方向を変えると家へ向け森の中を進み始めた。
仁太は森を戻るうちに不可解な状況にあっていた。もういつもの修行場に出ていてもおかしくない筈だが、いつまで経っても見慣れた光景の場所に辿り着くことが出来ないのだ。
普通であれば「道に迷った」で済ますのであるが、修業を積み道に迷う事は滅多にないし、しかもあまり来ない森の奥深くとはいえ修行場で迷うことなど考えられない。
しかもいつの間にやら、修行場に生えている木の種類と違う木々が周りに生えているのを見て、自分はどこに出てしまったのかと困惑する。
そんな時、遠くで少女の短い悲鳴と男たちの声が仁太の耳に入ってきた。悲鳴が聞こえてきた事で様子を見に行ってみようと、声の下方向へ向かう。
「男二人に追いかけられているのですが、助けてはくださいませんか」
森の中から顔を出すと少女から助けを求められた仁太、しかし状況もわからずとぼけた顔で立ち尽くす。
普通であれば少女から助けを求められれば、助けに入るぐらいの甲斐性のある仁太ではある。しかし、鎧装束で大柄な体格の男とやはり鎧装束で精悍な体付きの男に、長い黒髪で顔も可愛らしく、黄色地にユリの花が書いてある着物姿の少女が追いかけられるという、時代村や時代劇でしか見ないような状況に今回は対応が出来ないのも無理からぬ事ではないのではないだろうか。
鎧装束の男二人に追い詰められていく少女は、とぼけた顔のまま動かない仁太に呼び掛ける事を諦め、ゆっくりと歩み寄り顔と顔が触れ合うのではないかというぐらいに近付けてきた。
仁太は着物姿の少女の顔がすぐ近くにある事に気が付いたが、動くことも出来ずその場に立ち尽くす事しか出来ない。
目の前にとても整った少女の顔がある事でいよいよ混乱の極みに達する。
やっぱりかわいいなとか、こんなところで時代劇の撮影でもやって居るのか。などと現実から顔を逸らしにかかる仁太であったが、少女の次の行動に驚愕する。
少女が目を閉じ仁太の唇に自分の震える唇を押しあて、キスをしてきたのだ。これには仁太も驚き一瞬考えが止まったものの、少女の恐怖を唇を通して感じたからか、冷静に現実を理解することができるようになっていた。
取り合えずこれは時代劇の撮影ではいな、この子も相当怯えているし本当に助けた方が良さそうだ。
そう決めた仁太の動きは速かった。
まず自分にもたれかかる体制の少女を、仁太を挟んで男たちとは反対に移動させると木の上に跳躍した。
そして懐から棒状で先がとがった黒いものを取り出すと、鎧を着けた大柄な体格の男に向け投げる。
この棒状の物体は棒手裏剣と呼ばれるもので、装束の中に嵩張らず収納できるために修業の時にはいつも持っているものである。
棒手裏剣が男の得物を持った方の手に刺さる。間を置かずに仁太はもう一方の男にも棒手裏剣を投げ、またもや得物を持っている方の手に命中させた。
男たちは棒手裏剣が手に刺さり、たまらず得物を字面に落とす。
次に仁太は懐から素早く煙玉を取り出すと、少女と男たちの間をめがけ投げる。地面に叩きつけられた煙玉は大量の煙を吐き出し、男たちから少女が見えなくなった。
木の上から降りて来ると、耳元で「声を出さないよう」に少女に注意し自らの腕に横抱きにした。いきなり横抱き(いわゆるお姫様抱っこ)をされ少女は驚き声を上げそうになったが、抱き上げられる前に声を出さないように注意されたのを思い出し、急いで自らの口を手で塞ぐ。
着物少女を抱き上げ全力でその場を逃げ出す仁太。
忍者とはいかにして素早く逃げ切るかという事も大事なのだ。
15分ほど離れた場所で追っ手が無いことを確認し少女を下ろし、初めての実戦で緊張のしっぱなしであった仁太はその場に座り込んだ。
いつも修行をしていても慣れないの事をしたのでいつも以上に疲れたのである。
そんな時、少女はまっすぐに仁太の方を向いたかと思うと、いきなり地面に屈みこんだ。そして体を前に倒し手を地面につける。
「先ほどは危ないところを助けていただきありがとうございました。そして、はしたない真似を致しまして申し訳ございません」
謝罪の言葉を口にする時の少女は首先まで真っ赤になり、今にも湯気が噴出すのではないかというほどであった。少女の言葉を受け、自分がこの少女にキスをされたということを思い出した仁太も顔を赤くする。実は彼にとって初キスであったため特に気恥ずかしい。
「いやぁ、気にしないで…」
「そうは参りません、あなたは私の命の恩人でございます」
そう言うとまた深く頭を下げる少女。
「私は綾と申します。あなたのお名前はなんとおっしゃるのでしょうか?」
「綾さんね、僕は服部仁太といいます」
仁太の名前を聞き、右手を口元に添え軽く驚いてみせる綾。
そんなちょっとした仕草が可愛くもあり、またあの口でキスをされたのだなと思うとまたもや恥ずかしくなる仁太。そんな仁太に対して綾の質問は続く。
「服部さんというのですか、姓名が付いているということはどこかの武将のご子息ですか?」
「特に武将の子供という訳では…、私がいた所では姓名が付いているのが当たり前なんですよ」
「そうなのですか、この国では一般の方々の何は姓名がないのが一般的なので、高名な武将のご子息かと思ってしまいました」
綾の質問に答えつつ自らの疑問も聞いてみる事にした仁太。
「綾さんもあの男たちから追われている時に『佐津の国の綾姫』と呼ばれていましたがどういう事なのですか、あの言葉が本当であればあなたはお姫様ということになるよね?」
「そのことですか、あなたには聞こえていないと思い隠そうと思っていたのですが…」
「無理にとは言わないよ、ちょっと気になっただけで…」
仁太の質問に少し困った顔をする綾。そんな綾を見てまずい質問をしてしまったかと申し訳ないような心境になる仁太。その言葉と態度を見て、綾は慌てて先の発言について謝罪と説明をしてくれた。
実はかつて佐津という国がありそこの殿様であった大河内家の一人娘が自分であること。そして三年前に隣国であった川津の国に攻められて佐津の国は滅びたのだが、自分は家臣夫婦に連れられて命からがら逃げ延びて山中で静かに隠れ住んでいるという事であった。
後になってキスをしてきたのかをたずねたところ「私が知らない殿方にキスをする所を見せて、姫では無いと証明しようとしたのですが」と顔を真っ赤にしながら答えてくれた。しかしあの行動は特に男たちに無意味であった様に思う仁太である。
「そうだったのか、それで追われていたんだね。ならさっきの男たちは川津の国の家来と見て間違いがないね」
「はい、その見立てで間違いないと思います。多分私が復讐をすると思っているのではないでしょうか」
綾は復讐をしようと考えたことはあるが、最近は静かに山中で生きていくことに幸せを感じており復讐心はないと言うことを穏やかな顔で語る。その顔を見て仁太は胸がぎゅっと締め付けられるような切なさと、とても暖かな気持ちを感じて戸惑っていた。
そんな仁太の変化にも気付かず、綾が自分が今暮らしている家に来ないかと提案した。仁太も自信が今どこにいるのかわからない状況であり、綾の家へ行くことにした。