説明できないエンジニア|途中であるということ
この物語に、大きな成功は出てきません。
劇的な逆転も、分かりやすい成長もありません。
あるのは、
言いたいことがあるのに言葉にできない時間と、
「分かっているはずなのに伝わらない」もどかしさ、
そして、ほんの一瞬だけ感じる「通じたかもしれない」という感触です。
もしあなたが、
職場で質問されるたびに少し身構えてしまったり、
ちゃんと考えているのに、うまく説明できなかったり、
周りと比べて「自分だけ遅れている気がする」と感じたことがあるなら、
この物語の中に、きっと見覚えのある場面があると思います。
これは、特別な才能を持った人の話ではありません。
「安心」を選び続けてきた一人の、
ごく普通のエンジニアの途中経過の物語です。
答えが出る話ではありません。
ただ、問いを持ったままでも進んでいいのかもしれない、
そんな気配だけを残す物語です。
上司の声は、いつも突然だった。
「で、進捗どうなってる?」
その一言が飛んでくるたびに、牧野は胸の奥を掴まれたような気分になる。
頭の中には、確かに情報がある。
どこまでできていて、どこで詰まっていて、なぜ遅れているのか。
それなのに、それらは一斉に口を塞ぎ、言葉になる前に崩れてしまう。
「えっと……今……その……」
自分の声が、自分でも遠くに聞こえる。
上司の視線が、少しだけ泳ぐ。
その小さな変化が、牧野には痛いほど分かった。
――学生の頃は、こんなことなかったのに。
九州の実家から通えるこの会社に就職したのは、安心したかったからだ。
知らない土地で、知らない生活を始める勇気はなかった。
だが、安心して選んだはずの場所で、
自分がこんなにも「できない側」に回るとは思っていなかった。
先輩に相談しても、同じだった。
「つまり、何が言いたいの?」
責める調子ではない。
むしろ、困ったような、助けようとする声だ。
だからこそ、牧野は何も言えなくなる。
何が分からないのかが、分からない。
それをどう説明すればいいのかも、分からない。
質問しない日が増えた。
分かったふりをする日も増えた。
その分、仕事は確実に遅れていった。
1年目の評価が出た日、
他部署の同期と給料に差がついていることを知った。
十段階ある評価のうち、自分は下から数えたほうが早い。
同期の名前が並ぶ表を、牧野は一度閉じ、それでもまた開いてしまった。
「気にしても仕方ない」
そう思おうとするほど、胸の奥がざらつく。
同じスタートラインに立っていたはずなのに。
何が違ったのか。
それとも、自分が止まっていただけなのか。
2年目の冬。
怒られる回数が、目に見えて増えた。
「このままじゃまずいぞ」
上司のその言葉は、叱責というより心配だった。
それが、なおさら堪えた。
まだ期待してもらえている。
気にかけてくれている。
だからこそ、応えたい。
即戦力になりたい。
役に立ちたい。
夜、
部屋に戻ると、机の上に韓国語のノートが広がっている。
その横で、スマートフォンの画面が淡く光っていた。
流れているのは、よく知っているK-popグループのステージ映像だ。
牧野がK-popを好きになったのは、大学に入った頃だった。
特別な理由があったわけではない。
ただ、講義とアルバイトを往復するだけの毎日の中で、
画面の向こうの彼らは、あまりにも眩しかった。
完璧に揃ったダンス。迷いのない視線。
大勢の前に立ちながら、少しも怯まず、自分の言葉で歌う姿。
——どうして、あんなふうに立てるんだろう。
その頃から、牧野は「安心」を選ぶ癖があった。
地元を出なかったのも、
実家から通える会社を選んだのも、
間違えないように、失敗しないように、
できるだけ波風を立てずに生きたかったからだ。
一方で、画面の中の彼らは違った。
批判も、失敗も、期待も、すべてを背負ったうえで、
それでも前に出て、光の中に立っていた。
——自分は、あそこには立てない。
——でも、憧れはある。
その距離感が、心地よかった。
羨ましさと同時に、「自分とは違う世界」という安心があったからだ。
だが、大学時代の海岸清掃ボランティアで、
韓国人学生とほとんど言葉を交わせなかった日、
その安心は、少しだけ揺らいだ。
「言葉が通じないって、こんなに悔しいんだな」
あのとき、初めて思った。
画面の向こうで輝く世界は、
遠くから眺めるためだけのものじゃないのかもしれない、と。
今の仕事も、同じだった。
安心して選んだはずの場所で、
言葉が出てこない。
伝えたいのに、届かない。
ノートの端に、太字で書いてある一文に目が止まる。
「結論 → 理由 → 補足」
大学時代韓国語の先生が、
何度も繰り返していた言葉だ。
「順番が大事。気持ちがあっても、順番を間違えると伝わらない」
牧野は、しばらくその文字を見つめていた。
——輝いて見えた人たちも、
——きっと、最初から完璧だったわけじゃない。
そう思うと、胸の奥に、小さな熱が灯った。
週末、
韓国人との交流コミュニティに顔を出した。
輪の中に入ると、相変わらず緊張で喉が固くなる。
だが、隣に座った年上の男性が、ゆっくりと話しかけてきた。
일본에서 어떤 일을 하고 있습니까?
(日本で、どんな仕事してるんですか?)
一瞬、頭が白くなる。
それでも牧野は、ノートの一文を思い出した。
전문 기술을 사용해 IT 관련 구조를 생각하고 실제로 만들어가는 일을 하고 있습니다.
(専門技術を使ってIT関連構造を考え、実際に作っていくことをしています。)
文法は、完璧ではなかった。
言葉も、たどたどしい。
それでも、相手は一度も遮らず、最後まで聞いてくれた。
엔지니어의 일입니다. 제대로 전해지고 있어요.
(エンジニアの仕事ですね。ちゃんと伝わってますよ。)
その一言は、思っていた以上に長く胸に残った。
韓国人との交流コミュニティを後にしてからも、
牧野の中で何度も反芻されていた。
完璧じゃなくても。
発音が怪しくても。
順番を意識して、最後まで話せば、
相手はちゃんと受け取ってくれる。
それは、小さな成功体験だった。
誰かに褒められたわけでも、何かを成し遂げたわけでもない。
それでも確かに、「通じた」という手応えがあった。
翌週、
職場で上司から投げかけられる質問に対しても、
牧野は以前ほど身構えなくなっていることに気づいた。
「で、ここはどうなってる?」
一瞬、言葉が詰まりかける。
だが、頭の中で順番を並べる。
「結論から言います。まだ未完了です。理由は二点あって——」
途中で止まらず、最後まで話せた。
上司が途中で口を挟むこともなかった。
「なるほど。じゃあ、次はこうしよう」
そのやり取りのあと、
牧野は席に戻ってから、しばらく画面を見つめていた。
——今の、ちゃんと会話になってたよな。
劇的な変化ではない。
だが、確かに昨日までとは違う感触だった。
その次の日、
牧野は少しだけ浮ついていた。
「通じた」という感触が、
まだ体のどこかに残っていたからだ。
——順番を意識すれば、大丈夫。
——自分も、ちゃんと成長してる。
そんな考えが、胸の奥で勝手に膨らんでいく。
午後、
上司に呼び止められた。
「牧野、この機能の進捗どうなってる?」
来た、と思った。
できる自分を見せたい、と思ってしまった。
「結論から言います。
問題ありません。想定通り進んでいます。」
口から出た言葉に、
自分でも一瞬、引っかかりを覚えた。
本当は、まだ確認しきれていない部分があった。
だが「成長している自分」を見せたかった。
「理由は……テストも順調で……」
言葉が曖昧になっているのが、自分でも分かった。
それでも、止まれなかった。
上司は少し首を傾げたが、深くは追及しなかった。
「分かった。じゃあ、その前提で進めよう」
その日の夕方、
問題は表に出た。
想定していなかった不具合が連鎖し、
他チームの作業まで止めてしまったのだ。
「牧野、これ、どういうことだ?」
上司からの視線は、以前より重かった。
「……確認が、足りていませんでした」
声が、喉の奥で掠れた。
「分かっていないこと”を、
分かっていないまま進めるのが、一番危ない」
上司の声は低かった。
怒鳴ってはいない。
だが、その分だけ、言葉が刺さった。
——成長している“ふり”をした。
——それが、一番やってはいけないことだった。
席に戻ってから、牧野はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
胸の奥に、説明できない重さが残っていた。
数回の「伝わった感覚」で「できる自分を見せたい」とカッコつけた自分が痛々しかった。
別の日、
同じ韓国人との交流コミュニティで、
少し遅れて輪に入ってきた女性がいた。
三十代前半くらいだろうか。
髪はきちんとまとめられているが、
肩にかけたトートバッグの口は開きっぱなしで、
中から教科書の角が覗いていた。
自己紹介の順番が回ってきたとき、牧野は前と同じように話した。
전문 기술을 사용해 IT 관련 구조를 생각하고 실제로 만들어가는 일을 하고 있습니다.
(専門技術を使ってIT関連構造を考え、実際に作っていくことをしています。)
女性は一度、ゆっくり頷いたあと、少しだけ首を傾げた。
「意味は分かりましたけど……」
牧野は、思わず背筋を正した。
「正直に言うと、遠回りです。『エンジニアです』で伝わるじゃないですか。」
責めるような口調ではなかった。
むしろ、言葉を選びながら話しているのが分かる。
それでも、胸の奥がひくりとした。
——通じた、と思っていた。
——でも、“完璧”ではなかったのか。
「私も、前は同じような言い方してました」
女性は、少し照れたように笑った。
「できないって言うのが怖くて。
でも、回りくどくなると、
結局、余計に分からなくさせちゃうんですよね」
その言い方には、どこか自分自身に向けた棘が混じっていた。
「韓国語、上手くなりたいなら、
きれいに話そうとしないほうがいいですよ。
……私も、まだ全然ですけど」
最後の一言が、ほんの少し小さくなる。
牧野は、返事ができなかった。
正論だった。
でもそれ以上に、
彼女自身も同じところでつまずいてきたのだと、
何となく伝わってきたからだ。
夜、
部屋に戻り、
いつものように韓国語ノートを開く。
語学のメモと、仕事の構成メモが、もう違和感なく隣り合っている。
「結論 → 理由 → 補足」
「前提条件」
「相手が知りたいこと」
ページをめくる指が、ふと止まった。
同期の名前が並ぶ、
あの評価表のことを思い出したからだ。
——あいつ、もうサブリーダーだって言ってたな。
——海外案件も、普通に任されてるらしい。
胸の奥に、小さく、ざらりとした感情が浮かぶ。
羨ましい。
そう思った瞬間、すぐに別の声が被さる。
——比べても仕方ない。
——自分は自分だ。
いつもの癖だ。
羨ましさを感じたこと自体を、なかったことにしようとする。
だが、今日は少しだけ違った。
——……まだ、比べてるな。
否定もしない。
正当化もしない。
ただ、そう認める。
胸の奥に残った感情は、
名前のつかないまま、
そこにあった。
消えもしないし、無理に追い出す必要もない気がした。
ふと、思う。
——韓国語を勉強してなかったら、
——今の自分は、ここまで考えてただろうか。
だが同時に、迷いもあった。
韓国が好き。
K-popが好き。
言葉が通じたときの喜びも知っている。
でも、それを仕事に結びつけるなんて、
自分には大それたことじゃないか。
——海外案件なんて、できるほど優秀じゃない。
——語学も、まだまだだ。
——そもそも、エンジニアとしても発展途上だ。
「安心」を選んできた自分が、また顔を出す。
無理に目指さなくていい。
今の場所で、無難にやっていけばいい。
そう思おうとする一方で、
胸の奥に、あのK-popのステージが浮かぶ。
批判も、失敗も、期待も背負って、それでも前に立つ人たち。
——あの人たちも、最初は“途中”だったはずだ。
牧野は、ノートの余白に、小さく書き込んだ。
「韓国 × エンジニア?」
疑問符付きの、その一行は、
まだ夢とも目標とも言えなかった。
ただの思いつき。
でも、消さずに残しておきたい言葉だった。
翌日から、牧野の仕事の取り組み方は、少し変わった。
聞かれたことを答えるだけでなく、
「この説明、どう伝えればいいか」を先に考える。
資料も、「結論」を最初に置くようにした。
分からないところは、放置せず、
「何が分からないか」を言葉にしてから聞きに行った。
韓国語の勉強も、続けている。
いつか使うか分からない。
でも、やめる理由も、もうなかった。
後輩が入ってくる四月は、もうすぐだ。
不安は、相変わらずある。
自分が教える側に立てるのか、分からない。
それでも、逃げたいとは思わなくなっていた。
夜、
ノートを閉じる前、牧野は例の一行を見つめる。
「韓国 × エンジニア?」
まだ答えは出ていない。
でも、問いを持ったまま進むことは、悪くない気がしていた。
画面の向こうで、
システムは今日も静かに動いている。
それを支える一人として、
そして、
いつか全てを背負って、人前に立つ立場になるかもしれない存在として。
牧野は、キーボードに手を置いた。
——順番を整えながら、前に出る。
——安心だけじゃなく、少しの挑戦も抱えて。
そうやって進む自分を、初めて、悪くないと思えた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
牧野は、この物語の中で
「できる人」になったわけではありません。
語学が完璧になったわけでも、
仕事で一気に評価されたわけでもありません。
それでも彼は、
分かったふりをすることや、
成長している“ふり”をすることの危うさに気づき、
「分からないことを、分からないと言う」地点に立ちました。
それは、とても地味で、
成果としては見えにくい変化です。
でも、現実の仕事や人生では、
実は一番大切な一歩なのかもしれません。
「韓国 × エンジニア?」
という問いも、まだ答えにはなっていません。
夢とも目標とも言えない、
ただ消さずに残しておきたい言葉です。
きっと誰にでも、
そういう問いが一つや二つあるのではないでしょうか。
今すぐ形にできないけれど、
なかったことにはしたくない問い。
もしこの物語を読み終えたあと、
あなた自身のノートの余白に、
小さな疑問符付きの言葉が浮かんだなら、
それだけで、この物語は十分に役目を果たしたのだと思います。
答えは、急がなくていい。
順番を整えながら、
ときどき立ち止まりながら、
それでも前に出る選択肢があることを、
この物語がそっと思い出させてくれたなら幸いです。




