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第8話「死神と花見」

 春。

 俺たちが一緒に暮らし始めてから、二度目の春が来た。


「……誠一」


 クロハが、窓の外を指差している。

 銀髪が朝日に照らされて、キラキラと輝いている。

 相変わらず、見とれてしまうほど綺麗だ。


「どうした?」

「あれは何だ。木がピンク色になっている」


 俺は窓辺に近づいて、クロハの視線の先を追った。

 近所の公園に植えられた桜が、満開を迎えていた。


「……桜だよ。知ってるだろ?」

「知っている。見たこともある」

「じゃあ、なんで今さら聞くんだ」

「……」


 クロハは少し考えて、答えた。


「以前は気にしていなかった」

「気にしていなかった?」

「ああ。桜が咲いているのは知っていたが、それだけだった。興味がなかった」

「それが今は?」

「今は……違う」


 クロハは窓ガラスに手を当て、じっと桜を見つめている。


「見えるようになってから、色々なものが気になるようになった」

「見えるように……顕現権のことか」

「ああ」


 クロハは頷いた。


「人間に見えるようになってから、感覚が変わった気がする」

「どう変わった?」

「……鋭くなった。敏感になった」

「へえ」

「色が鮮やかに見える。音がはっきり聞こえる。匂いも、味も」

「……」

「風が頬に触れる感覚、日差しの暖かさ。今までは意識したことがなかったものが、全部感じられる」


 クロハの横顔が、なんとも言えず美しくて。

 透き通るような白い肌に、淡いピンク色の光が反射している。


「だから、桜も違って見える。こんなに綺麗だったのかと」

「……そうか」

「お前のおかげだ」

「俺?」

「お前と一緒にいたいと思ったから、顕現権を取った。そうでなければ、私は今でも何も感じないまま生きていただろう」


 クロハが珍しく感情を込めた声で呟いた。


「綺麗……」


 普段は無表情だが、今は紫色の瞳がきらきらと輝いている。


 ――死神も、桜に心を動かされるんだな。


「よし、今日は花見に行こう」

「花見?」

「桜の下で酒を飲んだり、弁当を食べたりするんだ。日本の風習だよ」

「……桜を見ながら飲食するのか。なぜだ」

「なぜって……楽しいからだよ」


 クロハは首を傾げたが、すぐに頷いた。


「分かった。行く」


---


 午後。

 俺たちは公園にやってきた。


 レジャーシートを広げ、コンビニで買ってきた弁当とお酒を並べる。

 クロハは物珍しそうに周囲を見回している。


 満開の桜。

 ひらひらと舞い落ちる花びら。

 春の陽気に包まれた、穏やかな午後。


「……美しい」


 クロハが、見上げながら呟いた。

 銀髪に桜の花びらがひとひら、落ちてきた。


「動くな」


 俺はクロハの髪に手を伸ばし、花びらを取った。

 クロハが少し目を丸くする。


「取れた」

「……ありがとう」


 クロハは珍しく照れたように視線を逸らした。

 頬がほんのりとピンク色になっている。

 桜の光のせいか、それとも……。


「ほら、まずは乾杯しよう」

「乾杯とは何だ」

「グラスをぶつけて、祝うんだ」


 俺は缶ビールを開けて、クロハにも渡した。

 クロハは不思議そうに缶を見つめている。


「これが酒か」

「ビールだよ。飲んだことないだろ?」

「ない。死神に飲酒の習慣はない」


 俺たちは缶をコツンと合わせた。


「乾杯」

「……カンパイ」


 クロハが缶を傾け、一口飲んだ。


 次の瞬間――


「……苦い」


 クロハが眉をひそめた。

 普段は無表情なのに、今は明らかに不満そうな顔をしている。


「なんだこれは。美味しくない」

「ビールは最初苦いんだよ。慣れると美味しくなる」

「慣れる前に寿命が尽きそうだ」

「お前、三千歳だろ」


 俺は笑いながら、クロハにチューハイを渡した。


「こっちの方が甘くて飲みやすいぞ」


 クロハが一口飲んで、目を丸くした。


「……これは美味しい」

「だろ?」

「甘い。果物の味がする」


 クロハは嬉しそうに缶を傾けた。

 普段は節度を持って飲食するクロハが、グイグイと飲んでいく。


「おい、クロハ、そんなペースで飲んで大丈夫か?」

「問題ない。死神は酔わない」


 クロハは自信満々に言った。


 ……三十分後。


「せいいちー……」


 クロハは俺の膝の上に頭を乗せ、完全に酔っ払っていた。


「酔わないって言ってたよな」

「……酔っていない。これは、その、体が温まっているだけだ」

「それを酔ってると言うんだよ」


 クロハの顔は真っ赤だ。

 紫色の瞳はとろんとしていて、普段の鋭さがない。

 ぽわんとした表情は、なんだかとても可愛らしい。


「さくら……」


 クロハが、寝転んだまま桜を見上げている。

 銀髪がレジャーシートの上に広がっている。

 白い肌に、桜の影がちらちらと落ちている。


「きれいだ……」


 クロハが呟く。

 その声が、いつもより柔らかい。


「死神を三千年やっているが、こんなものを見たのは初めてだ」

「桜は毎年咲くぞ」

「知っている。だが、見る機会がなかった」


 クロハの手が、ゆっくりと空に伸びた。

 舞い落ちる花びらを掴もうとして、失敗する。


「……取れない」

「風で動いてるからな」

「もう一回」


 また手を伸ばす。また失敗する。

 クロハは起き上がって、立ち上がった。


「クロハ?」

「待て。今度こそ取る」


 クロハは両手を広げて、舞い落ちる花びらを追いかけ始めた。

 ふらふらと歩き回り、手を伸ばしては失敗する。


「……っ」

「無理だって、酔ってるんだから」

「酔っていない」


 クロハは意地になって花びらを追いかけている。

 銀髪が揺れる。スカートがふわりと舞い上がる。

 白い太ももが、チラチラと見え隠れする。


「……」


 俺は慌てて視線を逸らした。

 ……いや、見てないぞ。見てない。


---


 クロハはついに一枚の花びらをキャッチした。


「取った!」


 満面の笑。

 無表情なクロハが、こんなに嬉しそうな顔をするのは珍しい。


 俺はその姿を見て、ふと思った。


 三千歳の死神。

 長い年月を生きてきた存在。

 でも、こうやって花びらを追いかけ回している姿は、まるで子どものようだ。


「……」


 考えてみれば、年齢は関係ないのかもしれない。

 人間だって、大人になっても子どもみたいな心は残っている。

 むしろ、そういう心があった方が、毎日を楽しく過ごせる。


 クロハがまさに、そうなんだろう。

 三千年の人生で初めて、自分の感情を大切にし始めた。

 だから今、子どものように無邪気に楽しんでいる。


「……悪くないな」


 俺の呟きに、クロハが振り向いた。


「何がだ」

「いや、お前が楽しそうで、いいなと思って」

「……」


 クロハは少し照れたように視線を逸らした。


---


 クロハはまた俺の膝に戻ってきた。

 ……というか、倒れ込んできた。


「おっと」

「……疲れた」

「そりゃ、酔っ払いが走り回ったら疲れるよ」

「酔っていない」

「はいはい」


 クロハの頭が、俺の膝の上に収まる。

 銀髪が太ももの上に広がる。


 ……と、その時。


 クロハのスカートが、少しめくれていることに気づいた。

 白い太ももが、眩しいくらいに露出している。

 その奥に見える、淡いピンク色の布地——


「っ」


 俺は慌てて目を逸らした。


「……誠一、どうした。顔が赤いぞ」

「いや、何でもない」

「嘘だ。何を見ていた」

「桜を見てた」

「……私は上を向いていたから、お前がどこを見ていたか分かる」

「……」


 バレた。


「……直してやる」


 俺はできるだけ目を合わせないようにしながら、クロハのスカートの裾を整えた。

 指が太ももに触れる。柔らかくて、温かい。


「……っ」


 クロハの体が、ピクリと震えた。


「……触るな」

「直してやったんだよ」

「……」

「感謝しろよ」

「……ありがとう」


 クロハは頬を赤らめて、ぷいと横を向いた。


「……変態」

「俺のせいじゃないだろ」

「見たのはお前だ」

「いや、視界に入っただけで……」

「言い訳だ」

「……悪かったよ」


 俺たちはしばらく、気まずい沈黙に包まれた。

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