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第29話「死神と喧嘩」

 きっかけは、些細な出来事の積み重ねだった。


 最近、仕事が忙しかった。

 決算期に入り、残業が続いていた。


 俺は帰宅が遅くなる日が増えていた。

 でも、忙しさを言い訳に、連絡を怠っていた。


---


 ある夜、夜十時を過ぎて帰宅した。


「ただいま」

「おかえり」


 クロハの声が、いつもより冷たい。


「ごめん、また遅くなった」

「……」

「仕事が立て込んでて」

「連絡は」

「え?」

「連絡は、なぜくれないのだ」


 クロハが俺を見つめている。

 紫色の瞳が、普段より暗い。


「いや、忙しくて……」

「忙しくても、一言送れるだろう」

「まあ、そうだけど」

「今日も、昨日も、一昨日も。連絡がなかった」

「……」


 俺は言葉に詰まった。

 確かに、ここ数日、帰りが遅くなることを連絡していなかった。


「私は、ずっと待っていた」

「……」

「ご飯を作って、温かいうちに食べてもらおうと思っていた」

「……」

「でも、冷めた。毎日、冷めた」


 クロハの声が震えていた。


「……ごめん」

「謝られても、料理は温まらない」

「だから……」

「なぜ連絡してくれないのだ」


 クロハの声が大きくなった。

 普段は無表情で冷静なのに、今は明らかに動揺している。


「私は、お前を心配しているのだ!」

「……」

「帰りが遅い。連絡がない。事故に遭ったのかと思った。倒れたのかと思った」

「……」

「人間は脆い。突然死ぬ。私はずっと、お前が死んでいないか心配していたのだ!」


 クロハの目に、涙が浮かんでいた。


「……ごめん」

「ごめんだけか」

「いや、本当に悪かったと思ってる」

「思っているだけでは伝わらない」

「だから……」


 俺も少し苛立っていた。

 仕事で疲れていたせいもある。


「俺だって大変なんだよ。仕事で余裕がなくて……」


 クロハが黙った。


「お前だけが待ってるんじゃない。俺も頑張ってるんだ」

「……」

「毎日毎日、遅くまで働いて、疲れて帰ってきて……連絡しろって責められても」

「……」


 言ってから、しまったと思った。

 クロハの顔が、さらに暗くなった。


「そうか。私は、責めているだけか」

「いや、そういうつもりじゃ……」

「分かった」


 クロハは静かに部屋を出ていった。


 バタン。

 自分の部屋のドアが閉まる音。


「……」


 俺は頭を抱えた。

 やってしまった。


---


 クロハは、それから部屋に閉じこもったままだった。


 夕食の時間になっても、出てこない。


「クロハ、ご飯だぞ」

「……」

「出てこないのか」

「……」


 返事がない。


 俺は溜息をついた。


 初めての喧嘩だった。

 同棲二年で、初めて本気で言い合いになった。


 冷静になって考えると、全部俺が悪い。

 連絡しなかったのは俺だ。

 クロハを待たせて、心配させたのも俺だ。

 なのに、逆ギレした。最低だ。


---


 翌朝。


 クロハはまだ部屋から出てこなかった。


「クロハ、朝ごはん……」

「いらない」


 やっと返事があった。

 でも、冷たい声だ。


「……」


 俺は一人で朝食を食べた。

 いつもは二人で食べるのに。

 クロハがいないと、静かすぎる。


---


 仕事中も、クロハのことが気になって仕方なかった。


 俺は悪かったのか。

 隠していたのは事実だ。

 でも、やましいことはしてない。

 仕事の相談に乗っただけだ。


 ……でも、クロハの立場から見たら。


 俺が他の女とランチをして、それを言わなかった。

 不安になるのは当然だ。

 嫉妬しているって分かっていたのに、配慮が足りなかった。


 俺が悪い。

 謝らなきゃ。


---


 帰宅後。


 俺はクロハの部屋のドアの前に立った。


「クロハ」

「……」

「話がある。開けてくれ」

「……」


 返事がない。


「俺が悪かった。隠すつもりはなかったんだ。配慮が足りなかった」

「……」

「信じてくれ。本当に仕事の話だけだったんだ」

「……」

「クロハを裏切るつもりなんてない。お前のことが大切だから」

「……」


 しばらく沈黙が続いた。


 そして、ドアがゆっくりと開いた。


「……」


 クロハが立っていた。

 目が少し赤い。泣いていたのかもしれない。


「クロハ……」

「……嘘じゃないか」

「嘘じゃない」

「本当に、仕事の話だけか」

「本当だ」

「私のことが大切か」

「大切だ」

「……」


 クロハは俺を見つめた。

 紫色の瞳が、潤んでいる。


「私も、悪かった」

「え?」

「疑いすぎた。お前を信じるべきだった」

「……」

「でも、不安だったのだ。お前が私以外の女と楽しそうにしていると思うと……」

「……」

「我慢できなかった」


 俺はクロハを抱きしめた。


「ごめん」

「……私も、ごめん」

「もう隠し事はしない」

「……分かった」

「クロハのことを一番に考える」

「……」


 クロハは俺の胸に顔を埋めた。

 小さな体が、俺の腕の中にすっぽり収まっている。


---


「……誠一」

「なんだ」

「仲直り、したいか」

「もちろん」

「じゃあ、一緒にカレーを作ろう」

「カレー?」

「前に一緒に作った。あれが、私たちの思い出の料理だ」

「……確かに」

「一緒に作れば、仲直りできる気がする」

「……分かった」


---


 俺たちはキッチンに立った。


 玉ねぎを刻む。肉を切る。ルーを入れる。

 二人で協力して、カレーを作っていく。


「クロハ、そっちは俺がやる」

「分かった」

「塩と砂糖、間違えるなよ」

「今日は間違えない」

「頼むぞ」


 久しぶりに、クロハが少し笑った。


「お前も、鍋を見ていろ。焦がすな」

「焦がさないよ」

「前科がある」

「あれはクロハだろ」

「お互い様だ」


 俺たちは顔を見合わせて、少し笑った。


---


 カレーが完成した。


「できた」

「いい匂いだな」

「一緒に作ると、美味しそうに見える」

「そうだな」


 俺たちはテーブルに座って、カレーを食べ始めた。


「……美味しい」

「ああ、美味しい」

「一緒に作ると、特別な味がする」

「仲直りカレーだな」

「……ああ」


 クロハは少し照れたように微笑んだ。


---


 食後。


「誠一」

「なんだ」

「もう喧嘩はしたくない」

「俺もだ」

「でも、また喧嘩するかもしれない」

「……かもしれないな」

「その時は、また仲直りカレーを作ろう」

「……そうだな」

「カレーで仲直りする。それが私たちのルールだ」

「いいルールだな」

「ああ」


 俺たちは並んでソファに座った。

 クロハは俺の肩にもたれかかった。


「……お前の魂、輝いている」

「仲直りしたからな」

「ああ。喧嘩していた時は、曇っていた」

「そうか」

「曇った魂は見たくない。輝いている方がいい」

「そうだな」


 俺はクロハの頭を撫でた。


 初めての喧嘩。

 初めての仲直り。

 俺たちは、また一つ、絆が深まった気がする。

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