第25話「死神と風邪」
その日、俺は体調を崩していた。
「……うぅ」
頭が重い。体がだるい。喉が痛い。
典型的な風邪の症状だ。
「誠一」
クロハが、心配そうに俺を見つめている。
……心配そう、に見える。無表情だけど。
「どうした。顔が赤い」
「風邪、引いたかもしれない」
「風邪?」
クロハは俺の額に手を当てた。
ひんやりと冷たい手のひらが、気持ちいい。
「……熱がある」
「やっぱりか」
「横になれ」
クロハは俺をベッドに押し戻した。
思ったより強い力だ。
「俺、会社が……」
「休め」
「でも、今日は大事な会議が……」
「死んだら会議も出られないだろう」
「……」
「前にも言った。死んだら何もできない」
俺は観念した。
クロハには逆らえない。
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クロハは慣れない手つきで、看病を始めた。
「まず、水分補給だ」
ペットボトルの水を持ってきた。
「飲め」
「ありがとう」
俺は水を飲んだ。
喉が痛いが、冷たい水が気持ちいい。
「次に、氷枕だ」
クロハは冷凍庫から氷枕を取り出した。
タオルで包んで、俺の頭の下に敷いてくれた。
「ひんやりして気持ちいい……」
「そうか。良かった」
「クロハ、看病上手だな」
「ネットで調べた」
「即席か」
「即席でも効果があればいい」
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昼。
クロハがおかゆを作ってきた。
「食べろ」
「ありがとう……」
俺は起き上がって、おかゆを口に運んだ。
「……美味い」
「本当か」
「ああ、塩加減もちょうどいい」
「塩と砂糖を間違えないように、三回確認した」
「学習したな」
「当然だ」
クロハは満足そうに頷いた。
普段は無表情だが、どこか誇らしげだ。
俺はおかゆを食べながら、ふと思った。
一年前の俺には、こんな日が来るなんて想像もできなかった。
過労で倒れそうになっていた俺。
毎日を生きるのに精一杯だった俺。
そんな俺の前に、突然現れた死神。
あの時は、まさか自分がこんなに幸せになれるなんて思わなかった。
「……どうした。手が止まっている」
「いや、なんでもない」
「美味しくないか」
「美味しいよ。すごく美味しい」
「……そうか」
クロハは少し安心したように、俺の食べる様子を見つめていた。
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午後。
俺はベッドで寝たり起きたりを繰り返していた。
クロハはずっと傍にいた。
本を読んだり、俺の様子を見たり。
時々、窓の外を眺めたり。
静かな午後。
木漏れ日がカーテン越しに差し込んで、部屋を柔らかく照らしている。
俺はぼんやりと、クロハの横顔を見ていた。
銀髪が光に透けて、金色に輝いている。
紫色の瞳が、本の文字を追っている。
時折、俺の方をチラリと見て、すぐに本に戻る。
……綺麗だな。
こうやって、何でもない午後に、クロハと一緒にいる。
それだけで、俺は幸せだと思う。
「クロハ、別のことしててもいいぞ」
「いい。ここにいる」
「暇じゃないか?」
「暇ではない。お前を監視している」
「監視って……」
クロハは俺の額に手を当てた。
「まだ熱がある」
「そうか……」
「氷枕を替える」
クロハは台所に向かった。
しばらくして、新しい氷枕を持ってきた。
「ありがとう」
「当然のことだ」
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夕方。
俺は少し回復してきた気がする。
頭の重さが軽くなって、体のだるさも和らいできた。
「少し楽になった」
「そうか」
「クロハのおかげだな」
「……」
クロハは少し照れたように視線を逸らした。
「私は何もしていない」
「おかゆ作ってくれたじゃないか」
「それくらい当然だ」
「氷枕も替えてくれた」
「それも当然だ」
「ずっと傍にいてくれた」
「……それは」
クロハは言葉に詰まった。
「心配だったのか?」
「……」
「正直に言っていいぞ」
「……少し」
「少し?」
「……かなり」
クロハは俯いた。
「お前が死んだらどうしようかと思った」
「風邪くらいで死なないよ」
「分からないだろう。人間は脆い」
「まあ、確かに」
「だから、心配した」
クロハの声が、少し震えていた。
「お前が死んだら、誰が私の魂を豊かにするのだ」
「……」
「お前が死んだら、誰と花見に行くのだ」
「……」
「お前が死んだら……」
クロハの目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……クロハ」
「死んだらダメだ」
「……」
「約束しろ。死なないと」
「……分かった。約束する」
俺はクロハの手を握った。
冷たい手が、俺の手の中で温まっていく。
「死なないよ。まだまだ長生きする」
「……本当か」
「ああ。クロハと一緒に、季節を過ごすんだろ?」
「……ああ」
「だから、心配するな」
クロハは俺の手をきゅっと握り返した。
「……ありがとう」
「お礼を言うのはこっちだよ。看病してくれてありがとう」
「……当然のことだ」
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数日後。
俺はすっかり回復した。
「もう大丈夫だな」
「ああ。クロハのおかげだ」
「看病は大変だった」
「すまなかったな」
「いい。お前が元気になったから」
クロハは俺を見つめた。
紫色の瞳が、優しく輝いている。
「元気になって良かった」
「ああ」
「また風邪を引いたら、看病する」
「引かないように気をつけるよ」
「引いてもいい。看病するから」
「……ありがとう」
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夜。
「誠一」
「なんだ」
「お前の魂、今、すごく輝いている」
「回復したからか」
「それもあるが、それだけではない」
「じゃあ何だ」
「分からない。でも、病気の時より輝いている」
「そうか」
俺は窓の外を見た。
星が瞬いている。
「クロハ」
「何だ」
「看病してくれて、本当にありがとう」
「何度も言うな。恥ずかしい」
「恥ずかしい?」
「……少し」
クロハは照れたように視線を逸らした。
「まあ、お礼はまた別の形で」
「別の形?」
「次は俺がクロハの面倒を見る番だ」
「私は風邪を引かない」
「他のことでもいいさ」
「……そうか」
クロハは小さく微笑んだ。
「楽しみにしている」
「任せろ」
俺たちは顔を見合わせて、笑った。




