第18話「死神と温泉」
「温泉?」
クロハが、パンフレットを見ながら首を傾げた。
「ああ。地面から湧き出る熱い水に浸かるんだ」
「なぜそんなことをするのだ」
「気持ちいいからだよ。疲れも取れるし、肌もすべすべになる」
「……効能があるのか」
「まあ、リラックス効果はあるな」
俺は温泉旅行の計画を立てていた。
同棲二年目になったことだし、たまには贅沢してもいいだろう。
「行ってみたい」
「よし、じゃあ今週末行こう」
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週末。
俺たちは山奥の温泉旅館に来ていた。
古びた木造の建物。風情のある庭園。湯気の立つ露天風呂。
クロハは物珍しそうに周囲を見回している。
「……風情がある」
「だろ? 昔ながらの旅館だからな」
「人間は、こういう場所で休むのか」
「たまにはな。非日常を楽しむんだ」
俺たちは部屋に通された。
畳の香り、障子越しの柔らかい光、窓から見える山々。
「……落ち着く」
クロハは畳の上に座って、窓の外を眺めている。
銀髪が夕日に照らされて、金色に輝いている。
「風呂に入ろうか」
「ああ」
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俺は男湯へ、クロハは女湯へ。
……のはずだった。
「誠一」
風呂場の入り口で、クロハが俺を呼び止めた。
「どうした?」
「混浴はないのか」
「こ、混浴?」
「一緒に入りたい」
俺は固まった。
「い、いや、それは……」
「なぜだ? 同じ湯に浸かる方が効率的だろう」
「効率の問題じゃなくて……」
クロハは不思議そうに首を傾げている。
死神には、人間の羞恥心という概念がないのか。
「と、とにかく、男女別だから! 後でロビーで合流しよう!」
「……分かった」
クロハは少し残念そうな顔をしたが、女湯に向かっていった。
俺は深呼吸した。
危なかった。混浴なんかしたら、俺の理性が持たない。
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風呂から上がって、部屋に戻った。
クロハはすでに浴衣に着替えていた。
「……」
俺は思わず見とれてしまった。
紺色の浴衣を着たクロハ。
銀髪を結い上げて、うなじが見えている。
白い肌に浴衣がよく映えて、色っぽい。
浴衣の襟元が少し開いていて、鎖骨が覗いている。
帯の位置が高くて、胸元のラインが強調されている。
湯上がりで頬がピンク色になっていて、艶っぽい。
「……どうした」
「い、いや、なんでもない」
「顔が赤いが」
「湯あたりだ」
「そうか。気をつけろ」
クロハは心配そうに俺を見た。
その表情が可愛くて、余計に心臓がバクバクする。
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夕食後。
夜の露天風呂に入ることにした。
「クロハ、夜の露天風呂も行くか?」
「行く」
「じゃあ、また後で……」
「誠一」
「なんだ」
「貸切風呂がある」
「え?」
クロハがパンフレットを見せてきた。
確かに、貸切露天風呂のサービスがあると書いてある。
「二人で入れる」
「い、いや、それは……」
「効率的だ」
「だから効率の問題じゃなくて……」
「嫌なのか」
クロハが上目遣いで俺を見た。
紫色の瞳が、少し潤んでいる。
「……嫌じゃないけど」
「じゃあ入ろう」
「いや、でも……」
「入ろう」
クロハは俺の手を取って、貸切風呂に向かった。
俺の理性が、悲鳴を上げている。
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貸切露天風呂。
山の中の開放的な空間。
湯気が立ち上り、星空が見える。
「……先に入っていてくれ。俺は後から……」
「一緒に入るのだろう」
「いや、でも……」
「タオルを巻けば問題ない」
クロハはあっさりと浴衣を脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと待て!」
俺は慌てて後ろを向いた。
背後で、衣擦れの音がする。
浴衣が床に落ちる音。
クロハが服を脱いでいる音。
想像してしまう。
あの白い肌が、露わになっている。
華奢な体が、湯気の中で浮かび上がっている。
「……入っていいぞ」
クロハの声がした。
俺は恐る恐る振り返った。
クロハは湯船に浸かっていた。
肩から上だけが見えている。
白い肩。細い首筋。濡れた銀髪。
……タオルは巻いているようだ。でも、見えない。
「早く入れ。湯が冷める」
「お、おう……」
俺も浴衣を脱いだ。
……待て。タオルは湯船に入れたらマナー違反だ。
「クロハ、タオルは湯船に入れちゃダメだぞ」
「なぜだ」
「マナー違反だ。清潔に保つため」
「……ではどうするのだ」
「湯船の外に置くか、頭に乗せるんだ」
俺はタオルを頭に乗せて、湯船に入った。
クロハも見よう見まねでタオルを頭に乗せている。
……問題は、これで互いの体が丸見えだということだ。
「俺は後ろを向いてるから、クロハもあっち向いてくれ」
「なぜだ」
「だから……見えるだろ、色々」
「……?」
クロハは本気で分からないという顔をしている。
死神には羞恥心がないのか。
「いいから! 背中合わせで入ろう!」
「……分かった」
俺たちは背中合わせで湯船に浸かった。
これなら、お互いの体は見えない。
……はずだ。
でも、背中の温もりは感じる。
クロハの背中が、俺の背中に触れそうな距離。
柔らかい感触が、かすかに伝わってくる。
「……良い湯だな」
「ああ」
気まずい沈黙が流れた。
俺は視線のやり場に困っていた。
クロハの方を見ると、肩から上が見える。
白い肌が湯に濡れて、艶やかに光っている。
鎖骨のライン。細い首筋。濡れた銀髪。
視線を逸らしても、気になってしまう。
「誠一」
「な、なんだ」
「背中を流してくれないか」
「え!?」
「前回も頼んだが、断られた」
「そりゃ、あの時は……」
「今なら良いだろう。同じ湯に入っているのだから」
「い、いや、でも……」
クロハが俺に背を向けた。
タオルを巻いているが、背中は見えている。
白い背中。華奢な肩甲骨。くびれた腰のライン。
銀髪が濡れて、背中に張り付いている。
「……頼む」
クロハが振り返った。
上目遣いの紫色の瞳。濡れた髪が頬に張り付いている。
……反則だ。
「わ、分かった」
俺は観念して、クロハの背中に近づいた。
手ぬぐいを手に取り、クロハの背中を流し始める。
白い肌が、手ぬぐい越しに伝わってくる。
柔らかくて、滑らかで、温かい。
「……気持ちいい」
クロハが小さく呟いた。
俺は無心で背中を流し続けた。
煩悩退散。煩悩退散。
肩甲骨から、腰にかけて。
くびれたウエストライン。
細い腰。
手ぬぐいが、クロハの体のラインをなぞっていく。
「……誠一」
「な、なんだ」
「手が震えている」
「き、気のせいだ」
「力を入れすぎだ。もっと優しく」
「す、すまん」
俺は深呼吸して、力を抜いた。
優しく、丁寧に、クロハの背中を流す。
「……ありがとう」
「ど、どういたしまして」
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背中を流し終えて、俺たちは湯船に戻った。
並んで座り、星空を見上げる。
満天の星。静かな夜。湯気の向こうに見える山々。
「……綺麗だ」
クロハが呟いた。
「星か?」
「ああ。死神の世界には、星がない」
「そうなのか」
「何もない世界だ。ただ、魂だけがある」
「寂しい世界だな」
「……そうかもしれない」
クロハは俺の方に少し近づいた。
肩が触れる距離。
「でも、人間界には色々なものがある。星も、温泉も、お前も」
「俺も数に入るのか」
「入る」
クロハは俺を見上げた。
紫色の瞳が、星明かりを映している。
「お前がいるから、人間界は楽しい」
「……」
「ありがとう」
俺は照れくさくなって、視線を逸らした。
「俺の方こそ、ありがとう」
「なぜお前が礼を言う」
「クロハがいてくれて、楽しいからだ」
「……そうか」
俺たちは肩を触れ合わせながら、しばらく星空を眺めていた。
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部屋に戻った。
布団が二組、並べて敷かれている。
「……隣で寝るのか」
「旅館だからな」
「……そうか」
クロハは布団に入った。
俺も隣の布団に入る。
電気を消すと、月明かりだけが部屋を照らしていた。
「誠一」
「なんだ」
「今日は楽しかった」
「そうか」
「また来よう」
「ああ、また来よう」
クロハの声が、闘の中で聞こえる。
すぐ隣にいるのに、なんだかドキドキする。
「……誠一」
「なんだ」
「お前の魂、今、すごく輝いている」
「……そうか」
「温泉の効能か」
「……多分、違うと思う」
「……何が原因だ」
「さあ」
俺はとぼけた。
本当の原因は、言わなくても分かっているだろう。
「……おやすみ」
「おやすみ」
クロハの寝息が聞こえてくる。
静かな夜。
幸せな時間。
俺は今日一日を思い返しながら、眠りについた。




