第10話「死神と梅雨」
六月。
梅雨の季節がやってきた。
窓の外では、しとしとと雨が降っている。
灰色の空、濡れたアスファルト、軒先から垂れる雫。
「……誠一」
クロハが、窓際に立っている。
銀髪が薄暗い光に照らされて、どこか幻想的だ。
「どうした?」
「これが、雨か」
クロハは窓ガラスに手を当てて、外を見つめている。
紫色の瞳が、落ちてくる雨粒を追っている。
「死神の世界には、雨がないのか?」
「ない。天候という概念自体がない」
「そうか……」
「水が空から落ちてくるというのは、不思議だ」
クロハは真剣な表情で雨を見ている。
子供のような純粋さだ。三千歳とは思えない。
「触ってみたいか?」
「……触れるのか?」
「傘をさして外に出れば、雨の中を歩けるぞ」
クロハの目が、きらりと輝いた。
「行きたい」
「よし、じゃあ散歩でもするか」
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俺たちは傘をさして、外に出た。
雨はしとしとと降り続いている。
傘に当たる雨音が心地いい。
「……」
クロハは立ち止まって、手を傘の外に出した。
雨粒が、白い手のひらに落ちる。
「冷たい」
「まあ、水だからな」
「でも、気持ちいい」
クロハは手のひらに雨を受けながら、少し微笑んだ。
普段は無表情なのに、今日は表情豊かだ。
「傘から出たら全身で浴びられるぞ」
「やってみたい」
「いや、やめとけ。風邪ひくから」
「死神は風邪をひかない」
「人間の体に近い状態なんだろ? ひくかもしれないぞ」
「……そうか」
クロハは残念そうに手を引っ込めた。
その仕草が可愛くて、俺は思わず笑ってしまった。
「何がおかしい」
「いや、クロハが子供みたいだなと思って」
「……失礼だ。私は三千歳だ」
「三千歳の割に、初めてのことには無邪気だよな」
「……」
クロハは少し頬を膨らませた。
照れているのか、怒っているのか、よく分からない表情だ。
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しばらく歩いていると、クロハが足元を見つめ始めた。
「どうした?」
「足が濡れた」
見ると、クロハの靴がびしょ濡れになっている。
普段履いている黒いパンプスは、雨向きじゃない。
「長靴を買おう」
「長靴?」
「雨の日に履く、防水の靴だ」
俺たちは近くのショッピングモールに入った。
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靴売り場で、クロハは目を輝かせていた。
「色々ある……」
赤、青、黄色、緑。
カラフルな長靴が並んでいる。
「どれがいい?」
「……」
クロハは真剣な顔で長靴を見比べている。
普段の買い物では、あまり迷わないのに。
「決められないか?」
「どれも良い。選べない」
「じゃあ、試着してみろよ」
クロハは頷いて、まず赤い長靴を手に取った。
「座って履いてみろ」
クロハがベンチに座る。
俺は彼女の前にしゃがんで、長靴を履かせようとした。
その時――
「あ」
クロハの足が、目の前にあった。
白くて細い足。
華奢な足首。
小さなつま先。
雨で濡れた素足が、妙に色っぽく見える。
足首から、ふくらはぎへ。
そこから上は、スカートで隠れているが――
「……誠一?」
「あ、いや、なんでもない」
俺は慌てて視線を逸らした。
何を見てるんだ、俺は。
「早くしろ」
「お、おう」
俺はクロハの足に長靴を履かせた。
柔らかくて温かい足に触れて、心臓がドキドキする。
……落ち着け。靴を履かせてるだけだろ。
「どうだ?」
「……良い。足にぴったりだ」
クロハは立ち上がって、足元を見た。
赤い長靴がよく似合っている。
「赤が似合うな」
「そうか」
クロハは少し嬉しそうだった。
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長靴を買って、再び外に出た。
クロハは新しい長靴を履いて、嬉しそうに歩いている。
赤い長靴が、灰色の街に映えて可愛らしい。
「あ」
クロハが、道端の水たまりを見つけて立ち止まった。
「誠一」
「なんだ?」
「あれは何だ」
「水たまりだよ。雨水が溜まってるんだ」
「……入っていいか」
「え?」
クロハは俺の返事を待たずに、水たまりに足を踏み入れた。
ばしゃん。
水しぶきが上がった。
クロハの赤い長靴が、水たまりの中でぴちゃぴちゃと跳ねる。
「っ……!」
クロハの顔が、ぱあっと明るくなった。
普段の無表情はどこへやら、子供のような笑顔だ。
「楽しい」
「……」
俺は呆気に取られて、その姿を見ていた。
三千歳の死神が、水たまりで遊んでいる。
銀髪を揺らしながら、ぴちゃぴちゃと足を踏み鳴らしている。
スカートの裾が濡れているのも気にせず、夢中になっている。
……可愛い。
反則的に可愛い。
「誠一も来い」
「え、いや、俺は……」
「来い」
クロハが俺の手を掴んで、水たまりに引っ張り込んだ。
ばしゃん。
「うわっ!」
「ほら、楽しいだろう」
「靴が濡れた……」
「長靴を履いていないお前が悪い」
「お前が引っ張ったんだろ!」
俺たちは二人で水たまりの中に立って、顔を見合わせた。
そして、なぜか笑ってしまった。
「あはは」
「……ふふ」
何がおかしいのか分からないけど、なんだか楽しかった。
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帰宅後。
「クロハ、着替えろ。濡れたままじゃ風邪ひくぞ」
「分かった」
クロハは素直に頷いて、自分の部屋に向かった。
……しかし、すぐに戻ってきた。
「誠一」
「どうした?」
「服がない」
「は?」
「洗濯中だ。着替えがない」
俺は頭を抱えた。
そういえば、昨日洗濯機を回して、まだ乾いていなかった。
「俺の服で良ければ貸すけど……」
「頼む」
俺は自分のクローゼットから、Tシャツとスウェットを取り出した。
「これでいいか?」
「ありがとう」
クロハはそれを受け取って――
その場で着替え始めた。
「ちょ、ちょっと待て!」
「何だ」
「なんでここで着替えるんだよ!」
「着替える場所がないだろう」
「洗面所でも風呂場でも、どこでもいいから!」
「面倒だ」
クロハはさっさと濡れた服を脱ぎ始めた。
俺は慌てて後ろを向いた。
背後で、衣擦れの音がする。
布が肌から離れる音。
クロハが服を脱いでいる音。
想像してしまう。
あの白い肌が、露わになっている。
華奢な体が、無防備に晒されている。
濡れた髪が、背中に張り付いている。
「……」
俺は必死で雑念を払った。
煩悩退散。煩悩退散。
「着替え終わった」
クロハの声で、俺は振り返った。
そして、固まった。
「……」
クロハは俺のTシャツを着ていた。
当然だがサイズが大きくて、Tシャツがワンピースのようになっている。
裾は膝上まであって、太ももが丸見えだ。
白い太もも。
すべすべしていそうな肌。
細い足首から太ももにかけてのライン。
そして、Tシャツの下は――
「お、お前、下は……」
「パンツは履いている」
「いや、そうじゃなくて……」
「何が問題だ?」
クロハは首を傾げた。
本気で分かっていない顔だ。
俺は深呼吸した。
「い、いいから、スウェットも履け」
「暑い」
「履け!」
「……分かった」
クロハは渋々スウェットを履いた。
それでも、ぶかぶかの服を着たクロハは、なんとも言えず可愛らしかった。
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「誠一」
「なんだ」
「今日は楽しかった」
クロハが、ソファに座りながら言った。
俺の服を着て、なんだか幼く見える。
「雨は良いものだな。水たまりも、長靴も」
「そうか」
「また雨の日に散歩をしよう」
「ああ、また行こう」
クロハは小さく微笑んだ。
「……誠一」
「なんだ」
「お前の魂、今、輝いている」
「え?」
「私と一緒にいると、どんどん輝きが増していく。良い傾向だ」
俺は苦笑いした。
輝いている理由は、多分クロハが思っているのとは違う。
でも、それは言わないでおこう。
「……クロハ」
「何だ」
「お前も楽しそうで、よかったよ」
「……そうか」
クロハは少し照れたように視線を逸らした。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
しとしとと、静かな雨音。
灰色の空と、濡れた街並み。
でも、俺たちの部屋は温かい。
梅雨は嫌いだったはずなのに。
クロハと一緒だと、悪くないかもしれない。
俺はそう思いながら、隣でうとうとし始めたクロハを見つめていた。




