名探偵にも千慮一失あり
「倖斗、いい。それを抜くな」
うっすらと潤んだ視界の中、息を切らしている上にいささか顔色の悪い隆惺が懇願するように首を横に振った。
揺れる亜麻色の短髪から清廉な椿のにおいがして、頭をぐらぐらと揺らしていた甘ったるいにおいが上書きされる。
「若様、どうして」
「すまん。俺の落ち度だ」
隆惺がぐっと唇を噛みしめた。まるで言い訳のしようもないとでも言うようにその表情もにおいも後悔に塗れている。
「何を謝るのですか、見落としたのは僕もです」
「それでも、だ。相手が作っていることは頭にあったのだから、四番目が潰れた時点で安心せず新作怪談を警戒する必要があった。それを考えるのは俺の役目だった。これは俺の手落ちに他ならない」
ぷつりと、隆惺の噛み締めすぎた唇から血が滲む。
拭わなくては。震える手で短刀から手を離し、袂から手巾を取り出そうとした時だった。
「貴方、理恵子さんの……」
困惑した声が、二人の横から聞こえた。
見れば、震えあがった令嬢たちを背に庇うようにして洋装の女が一歩前に出ている。見覚えのあるその長身は、飛鳥師範に他ならない。
隆惺がさっと唇を自身の親指で拭った。姿勢を正し、飛鳥に向き直る。
「指南中に失礼を。これは当家の問題ゆえ処理はこちらで。師範は他の子らを宥めていただけますか。できれば箝口令も敷いていただければ助かります」
「お医者様も呼ばなくては駄目でしょう? それに生徒だけに対処させるなんて」
戸惑うように言い募る飛鳥に、キッパリと少年は言い放った。
「お忘れですか。こちらは藤宮ですよ」
不死鳥の末裔。死なず長寿の藤宮。
この國において説明不要のその肩書きの効果は、覿面だった。
大きく目を見開いた飛鳥が何度か頷いて、くるりと怯える令嬢たちの方へと向き直る。
「皆さん! ここを出ましょう。邪魔になってはいけませんからね。大丈夫。理恵子さんは藤宮ですから。きっと無事ですよ」
実際のところは藤宮の者は理恵子であっても必要とあれば医者にも普通にかかる人間なのだが、周囲はうまい具合にそれを忘れてくれるのでこういった場面ではとても役に立つ。
かつて隆惺がそう語っていたことを思い出しながら、ゾロゾロと退室していく令嬢とその従者、そして講師たちを見ていると、不意に甘いにおいがした。
若いというのに随分と手慣れた仕草で誘導をし終えた飛鳥が、そっと隆惺と倖斗の傍に寄ってきたのだ。
体に触れこそしないものの、やけに距離が近い。これまではあまり気づかなかったが、随分と人との間合いが狭いようだ。
外国語の師範だというし、留学でもしていたのだろうか。
そんなことを思っていると、そっと飛鳥が隆惺の手を掬い上げるように握った。
「藤宮の若様、何かお困り事があるならば相談してくださいね。微力ではありますが、貴方は豊葦院の生徒なのですから」
「……覚えておきます」
物憂げなその目線を前に、隆惺がにこりと作った笑みを浮かべた。
そうして藤宮以外の人間が消えたサンルームで、なおも理恵子の喀血する音だけが響いていた。
「血が止まらないな。炎はどうだ」
介抱に専念する円に水を手渡した倖斗は落ち着かない心のまま、半ば叫ぶように答える。
「何度も銀炎は出ています! でも、顔色が良くなってもすぐまた血が!」
「回復しきれていない……いや、治るたびにまた毒が効いてるのか」
けほ、と隆惺も咳をこぼした。すり、と隆惺が喉の違和感を覚えたように自身の喉元を押さえている。
「どうかされましたか?」
難しい顔をした隆惺が、二、三度喉仏のあたりを指でなぞる。
そして、再度咳をしたその唇から、見慣れた銀炎がかすかに溢れた。
「……なるほど。そういうことか」
ひとり、隆惺が納得したように頷く。すっかり違和感がなくなったように喉から手が離れた。その挙動を、倖斗はかつて見たことがある。
(今の、毒の浄化? この一瞬で、坊ちゃんまで?)
混乱する倖斗をよそに、隆惺が視線がぐるりとサンルームを見回した。ゆらりと紫眼が炎熱を帯びる。
「倖斗、外に連れ出すぞ。円、手当が終わったら屋敷に戻るから連絡を入れてきてくれ」
「はい!」
「わかりました!」
円からぐったりと力の抜けた少女主人を受け取り、隆惺の指示のもとサンルームの横にある使用人控室へと移る。
「理恵。もう一度炎を」
隆惺がソファに横たえた理恵子の肩を叩き、再度促すように声をかけた。
青ざめた顔が頷いて、理恵子の体から銀炎が滲みだす。
これまでのように全身を包み込み蘇るために火葬する盛大な炎とは違う、先ほど流星の唇から溢れたものと同じ、柔らかな光を帯びた治癒の炎だ。
内部だけを順に焼き清めているのだろうそれを二、三度繰り返し、ようやく炎が消える。
血の気が引いていた理恵子の頬に赤みが戻ったのを見て、倖斗はほっと胸を撫で下ろした。
「お嬢様、おかしなところは? 医者はいりますか?」
理恵子の脈をとり、下瞼の粘膜などを確認しながらいつもの通り忠犬よろしく尋ねる。
先ほどまでの目に見えた異常は全て解消されているようだが、これまでにない状態になったのだから油断はできない。
「いらないわ。あとで頼子に診せるから」
「丑前田さんは女中頭であってお医者様ではありません」
「あら、そうだったかしら」
ころころと理恵子が笑う。今にも死んでしまいそうだった状態はどこへやらといった様子だ。
そんな理恵子とは正反対に、隆惺が脱力するように、行儀悪くもずるりと床に座り込んだ。安堵と自己嫌悪の混ざり合ったにおいが、その外套の隅にまで染み付いているように重い。
「……すまない、理恵」
うなだれた頭に、理恵子の手が触れた。少女らしい白く小さな手が、自分と同色の頭をするりと撫でる。
その爪の色がわずかに濁って震えているのに倖斗が気づくと同時に、隆惺が緩く顔を上げた。
見るからに落ち込んでいるその表情に、理恵子が困ったように笑う。
「何に謝っているのよ。あなたがわたくしにあと二回は死ねと言ったんじゃない。むしろ、完全には死なずに済んだのだから謝る事なんてないでしょう」
字面こそ凄まじいが、気遣いのにおいがするあたりこれは理恵子なりの慰めなのだろう。
それは隆惺もわかっているのだろう、うなだれていた姿勢をゆるりと正し、ふんっと形だけでも強気な態度が戻る。
「今回のことは俺の慮外だ。信頼を裏切ったことへの謝罪だ。受け取れ」
「謝っている態度じゃないのよ」
くすくすと、からかうような笑いが零雨のようだ。
「だいたいね、隆惺。前にも言ったかもしれないれど、あなたは神様じゃないし【予言獣】でもない。全部見通せるわけがないんだから、その後悔は不遜というものよ」
「すまな……わかった」
謝罪を飲み込んだ隆惺が立ち上がった。
「では、円が戻るまで建設的な話をしよう。まずは」
「今回の物語についてね」
隆惺の言葉の端を取り上げた理恵子が、すこし困ったように眉をひそめた。
「……正直、これが来るとは思っていなかったわ」
言葉の意味を掴み損ねた隆惺と倖斗の怪訝な表情に、そんな顔をしないでと言わんばかりに理恵子がひらりと手を振った。
大きなため息がひとつ、薄赤い唇からこぼれ落ちる。
「【サンルームの乙女心中】……これは、つい最近流行り出した噂でね。わたくしも怪談扱いされていると聞いたのは、ついさっきだったのよ」
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