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怪人と狛犬、あるいは

 橋の上、瓦斯灯の光を浴びながら宗次郎と肩を並べる。


 ひょろりとした彼の影は落陽の中で倖斗よりも随分長くなって、橋の向こう側にまで届いてしまいそうだ。


 もういつから続いているかもわからない夕景の中での語らいは、倖斗にとって得難い時間だった。この時間がなければ倖斗という生き物は今この形にはなっていなかっただろう。

 そのくらいには、大切な時間だった。


「随分ひどい顔をしてるな。眠れていないのか?」


 宗次郎が優しげな笑みを浮かべて倖斗の顔を覗き込む。


 甘ったるいタレ目とまなじりのホクロは穏やかな物言いをさらに強調している。女給たちがこの男に熱を上げるのはこういうところなのだろうかと考えようとして、やめた。現実逃避にもならない。


 常ならば心和み、肩の力が抜ける時間であるというのに、宗次郎がこちらを気に掛ければ気にかけるほど心に鉛でできた矢尻が食い込んでしまったように痛む。


 網膜に白刃と銀炎の眩さが張り付いて、消えない。


 己の未熟が主人たちに不要な苦しみを与えた。その事実が膿んだように痛い。

 あの美しい双子主人は倖斗を責めなかった。倖斗の情けなさを許した。直属の上司である虎堂や使用人仲間たちも、双子の保護者である兄君までもが、倖斗を慰めた。


 優しい人たちだ。それを噛み締めるほど、倖斗は自分を許せない。


 だからもう間違えてはいけない。気づいてしまったことから、目を逸らすことはできない。

 毒のような優しさに溺れる時間は終わりだ。

 血の気のひいた冷たい指先を握りしめて、口を開く。


 【神社姫】の予言はきっと、この瞬間を示していた。



「宗次郎。お嬢様を殺したのは、お前だな」



 宗次郎は……【怪人】は、いつも通りの微笑を浮かべたまま、頷いた。


「ご名答」


 瓦斯灯に蛾がぶつかって、ジジッと音を立てた。宗次郎の顔を陰影が滑り落ちるのと同時に、倖斗は小さく肩を跳ねさせた。


 優しげな笑みが一寸も歪むことなく、こちらを見ている。仮面のように完璧な、計算されきった角度で構成されたそれを前にして、倖斗の頬を冷や汗が流れ落ちた。肩が触れるほどのこの距離においても、未だ彼からは生物らしい匂いが一つもしない。


(心地よさに、鼻が鈍っていたのか)


 常に一切合切変わることなく、同じ笑みを同じ感情で浮かべ続けることができるというのは、異常だ。


 宗次郎といた間、感情による分泌変化まで嗅ぎ分ける倖斗がそれに振り回されずにいられた。それは、彼がどんな凄惨な事件の話を聞いても、内心を変化させることがなかったことを意味している。


 生物には多かれ少なかれ感情の波がある。努めて穏やかな側面を見せようとするものはいても、内心の変化まで抑えることはそうない。


 変化しないものがいるとすれば、意図的にそれを抑える訓練を受けたものか、生来感情を持たない存在だけだろう。


「宗次郎……お前、【何】だ?」


 親友であったはずの者が探し続けた【怪人】であることを認めてなお、そう問わずにはいられないほどに、彼は異質だった。


「藤宮の坊主の入れ知恵かい? 倖斗に言わせるなんて、よい趣味をしているなぁ」


 笑みはそのままに、男が口を開いた。声自体は変わらないのに、どこかこれまでにない酷薄な色が滲んでいる。


「違う。僕の判断だ。お二人は止めてくださった。そんな言い方はやめろ」


「へえ、獅子吼の鬼子が、随分と人らしい口を聞くようになったもんだ」


 純粋に驚いた、といわんばかりに男が言う。そして倖斗もまた、息を呑んだ。


「どうして、知っている」


 獅子吼の鬼子。それは倖斗を保護した藤宮の人間を除けば、生家である獅子吼家以外は知り得ない呼称だ。


 倖斗が倖斗になる前の、名前がなかった時代の蔑称。獅子吼の誰かが教えたのか? と脳裏に掠め、否定する。鬼子は生家にとって消したい汚点そのものだ。生まれた記録すらないだろう。彼らにとっては口にすることもない、ただ見つけたら痛めつけて殺すだけの対象が鬼子だ。


 困惑が頭のうちを占める。【怪人】とはいかなる情報も知ることができるのだろうか。


 倖斗の戸惑いに男が笑う。親友と同じ顔をして笑う。


「俺は物知りお兄さんだからな。大体のことは知っているさ、もちろん名探偵と名高い藤宮の坊主にはかなわんがね。あれは化け物だ」


 敬愛すべき主人を茶化されたことに頭が煮えつきかけたのを理性でねじ伏せ、問う。


「お前、本当に何者なんだ」


「ただの雇われだよ。お前とそう変わらんさ。一つに付き従っているか、金さえ積まれりゃなんでもするかの違いだけだ」


「なんでもとは大きくでたな。名を騙っていたのも金のためだと?」


 午頭宗次郎という名は、偽りだった。


 (うま)の一族にいないのはもちろん、藤宮のツテで戸籍から通称まで探そうと見つかるのは同名他者ばかり。目の前の甘やかな目元の男は影も形もなかった。


 倖斗の日常に紛れ込んできた親友は、どこにも記録されていない男だった。


 男の顔の表層を、空行く烏の影が撫でる。


「これも知られているのか。頑張ったじゃないか。偉い偉い」


「再度問う。お前は【何】だ」


 様々なことを請け負う【怪人】。それはわかっている。だが、それ以上が出てこない。

 集団なのか、個人なのか。一体何者なのか。眼前の一人を捕らえれば終わる話なのか。確かな答えなど返ってこないだろうと思いながらも、問う。


 いつも通りの笑みが人好きのする顔面に浮かんだ。


「ふふ。ま、いいか。それが知られたところで、依頼とは何も関係はない」


 男がすとんと表情の一切を落とした。


 はじめて見るそれこそが、男の素顔だった。


「俺は【怪人】。一族の名は無い。個人の名も持たない。顔も無い。この倭の國の影に住む腐れ外道の一匹。人の命を人の依頼で狩って飯を食っている化け物。人にもなりきれず、さりとて獣にもなれない、誰の記憶にも残らない俺を憐れんでくれるなら、お前の人皮で俺をあたためて、お前が四番目の怪談になってくれ」


 誇る響きはなく、ただ淡々と与えられた題目を読み上げるようなその声に聞こえた言葉に、倖斗は瞠目した。


「そうか、お前が【歩く人体模型】か!」


「あははは。ダセェ呼び名だよなあ。深夜に仕込んでたら広まっちまったみたいでさ。なんとも皮肉な話だぜ。誰にも知られないで死んでいくのが、俺だったんだがな」


 笑い声こそあげているが変わらない表情とその物言いに、違和感を覚えた。


「お前が怪談を使う手段を思いついたんじゃないのか」


 男が肩をすくめる。甘やかな形の目元に温度はない。


「依頼主サマのご意向だよ。俺の趣味じゃない」


「依頼主は誰だ。他にお嬢様を狙っている仲間がいるのか」


「言えない。仲間はいない。親友なら目の前にいるけどな」


 見慣れた笑みが倖斗に向く。ヘラリとして緊張感のない、朝風のような青年の笑みだ。


「戯言を」


 奥歯を噛み締め、倖斗が吐き捨てる。ごうっと吹いた風に飛ばされかけた帽子を抑えながら、男がわずかに目を伏せた。


「本気だったよ。お前との時間は楽しかった」


「なら依頼主について話せ」


 誤魔化せると思ったのか。そう言外に問うも、男は笑ったまま何も語ることはない。


「聞き方を変える。【くだん】の紋、あれはなんだ」


 こいつが【くだん】でないにしろ、理恵子の殺害現場を作った張本人である以上、あれをわざわざ署名のように残していく意図は掴んでいるのではないか。答えが帰ってこないにしろ、何か手掛かりは嗅ぎ取れるのではないか。

 そう思っての問いだ。


 しかし、男は誤魔化す笑みでもなければ無回答でもなく、ただ眉を顰めた。


「なんだそれ」


 それまで無臭だった男から間違いようのない困惑と動揺、そして小さな苛立ちのようなにおいが一瞬たちのぼる。


 たちどころに掻き消えたものの、それは誤魔化しようがないにおいだった。


 あの紋を置いたのは、この男ではない。


「知らないんだな、あれのこと」


「……おっと口が滑ったな。ま、親友へのヒントってことにしよう。せいぜい頑張れよ」


 ヘラリと笑って、欄干に男が右足をかけた。飛び降りようとしたその足に鉤縄が絡まる。


「逃がさない」


 縄は倖斗の手の内に続き、ギラリと薄氷色の目が宵に光った。


「熱烈だな。嬉しいぜ。全力で抵抗するけど」


 優男風の痩躯から、ドロリとした殺意が滲んだ。同時に、目の前にいるはずの見慣れた顔が途端に認識できなくなったような錯覚。相貌の輪郭が解けて笑った口元だけが嫌に目について、それ以外の全ての名残が消えていく。


 優しい顔をしていたはずだ。

 穏やかな顔をしていたはずだ。


 だが、面影は影のまま、掴むことはできない。


 黄昏時を凝縮したらこうなるのだと思うほどに、眼前の男は無貌であった。


 せせら笑う声がする。


「賊退治はまだしたことがないんだろ? 手取り足取り、教えてやるよ」


「減らず口を」


「試してみるか?」


 ひうん、と耳元で音が鳴る。それが鋼糸の音だと気づいたのは頬を伝う血の匂いがしてからだった。手応えがなくなり、縄を切られたと悟る。


 脳裏に、ここに来る直前告げられた隆惺の言葉が響く。


『【怪人】はおそらく鋼糸を凶器に使う。本来は暗器として展開した場所に人を追い込んで使うものだがこれまでの現場を鑑みるに、やつは手足の如くこれを使うはずだ』


 裏庭で倒れ伏した理恵子の首を、骨ごと大した時間もかからず切り離した手腕、路地裏で自身の頭より遥かに高い位置にある垂氷を真っ直ぐ落下させるよう切り落とした技量。

 これまで観測されたそのどちらともが、【怪人】の力量を物語っている。気づけば目の前の男は両の手に皮手袋をはめている。鋼の糸で己の手を切らないための装備であろうことは、語られずとも知れた。


(集中しろ。きっとこいつは、僕より強い)


 切り落とされた鉤縄を捨て、次の得物に切り替える。


 倖斗は双子に引き取られてからずっと虎堂たちに鍛えられてきたものの、実戦経験に乏しい。いざ緊急事態になれば守るべき主人から守られてしまうほどに、技術はあってもそれを発揮する舞台からは縁遠く、心も未熟極まりない。


 どれだけ成長を誓おうと、物語のように突然強くなったりはできない。


(でももう、それを言い訳にはしない。ここでこいつを取り逃がせば、またお嬢様が狙われる)


 依頼人は別にいるといえど、少なくとも第一と第二はこの男の超絶技能あってこその連続殺人だった。眼前の脅威は依然として理恵子を狙う目下最大の敵である。


 心臓が早鐘を打つ。眼前の情報を取り逃さぬよう瞠った目がズキズキ痛む。息が浅くなる。けれどもそのすべての変調は武器に伝わる前に捻り潰した。


(違和感はいくらでもあった。それを見逃した責任を今果たせ。成長するならば、今しろ)


 劇的でなくていい。確かな一歩を踏み出せ。


 昨日の自分に謝って、明日の自分に背を向けることはもう諦めろ。


 それを重ねて初めて、成長という長い道程を歩み出すことができるはずなのだから。


 細く、長く、息を吐く。

 自責と情に肺腑を焼かれてなすべきことを見失わないように。


 倖斗は仏頂面こそ目立つものの、生来情が深い。それは世話になった記憶があればあるほど無碍にはできなくなる、美点にして欠点に繋がっている。


 目の前にいるのはたとえ正体不明の化け物だろうと親友だった男だ。真綿のような慈しみを向けられた日々は、確かに倖斗にとって枷となるほど重い。これまでならば、刃を向けるどころか敵意を向けることすら難しかっただろう。


 あるいはそれこそが、【午頭宗次郎】を名乗ったこの男の狙いだったのかもしれない。


 堅牢な藤宮の盾を唯一綻ばせる隙こそが自分であり、そのための縁だった。

 獅子吼のことすら知っている男だ。倖斗がいかに気を配っていたとはいえど、雑談から理恵子の思考傾向を理解された可能性は高い。


(愚か者だ。僕は)


 倖斗は取りこぼした。

 秤にかけるまでもない倖斗の太陽だと主人のことを語っておきながら、行動が伴っていなかった。甘やかす毒のような平穏に蕩され、聖域たる双子を危機に晒した。己の甘さが事態を悪化させていた。


 はらわたが煮えくりかえる。


 叶うならば己も目の前の男も、諸共に殺してやりたい。だが、それは同じ外道に落ちるということだ。


 仇討ちとも言えるこの対峙で人を殺せば、きっとあの人たちはまた重荷を背負うのだ。


(もう二度と、坊ちゃんにもお嬢様にも、あんな思いはさせない)


 浮かぶのは、炎を弾く白刃と銀炎に塗りつぶされてゆく灼熱。

 返すべき恩はもはや、今生のみでは返し尽くせぬほどに積み上がり、命じられるに応えるだけでは応えきれない。


「……恨むなら、僕だけを恨めよ。これは、僕の意思なのだから」


 放置すればその心身が危うくなるとわかっていてなお、従者の心を慮ってくれた双子の優しさを振り払い、倖斗はここに来た。彼らに恨みを持つことは許さない。


 男は悟ったような顔で、「わかったよ」と親友みたいに手を振った。


 昨夜降ったらしい雨で増水した川が、足元で轟々と鳴る。

 水のにおいが強い、緩んで溢れ出した泥や苔のにおいもあちこちにある。

 だが、不足はない。


 新たに取り出した得物である縄鏢の鋒を、友の顔をした怪人に向ける。


 真っ直ぐに刃物を向けられても、男は微笑んだままだ。


「投降するつもりは?」


「ない」


「だろうな」


 倖斗は相手の出方を待たず、駆け出した。

次回更新は21時くらい。

バトル回分割悩みすぎてるのでちょっと連投するかもしれません

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