紅蓮の炎、白銀の炎
理恵子たちが入室してから、十分が経過していた。
(いくらなんでも、もう終わるはずだけれど……?)
ストーブの世話を普段しない令嬢たちにとっては重労働らしく、骸炭をこぼさず焚き口に入れるだけでも相当な時間がかかるのだと知ったのは今回の道中のことだ。なので倖斗にしては悠長に待っていたのだが、どうにも合図がない。
仕方がない。あとでお叱りは受けよう。そう思い鞄をノックしようとした瞬間、内部から絹を裂くような悲鳴が上がった。同時に、煤けたニオイが鼻をつく。
「お嬢様!」
蹴破るように飛び込めば、そこには地獄があった。
先ほどまで微塵もなかった炎が空気を舐め、蛋白質が焼けるにおいと煙が溢れかえっている。
まるで、ストーブが嘆きの声を吐き出したように。
焚き口にかかった鍵棒が床に音を立てて落ちるのと同時に、渦巻く炎が理恵子の華奢な体を飲み込む。
その様は、奇妙に遅く見えた。
同時に、亜麻色の髪は大きくなびいているのがわかって、ストーブと後輩の間にその身を咄嗟に割り込ませたのだと察する。
紫眼がこちらを見たことで、それは確信に変わった。
「お姉様!」
「いけませんっ、下がって!」
庇われた少女が眼前の炎に縋ろうとするのを全身で押し留め、倖斗は燃えていく主人の体を仰ぎ見る。
(どうしよう、どうすれば)
炎に飲み込まれる直前、理恵子は確かにこちらを見た。
その眼差しは後輩である少女を守るように告げていて、それは倖斗に動くなと命じたも同義だった。
助けなければ。火を消さなければ。主人に任された少女を守らなければ甘い匂いが鬱陶しいこの子は手を離したら炎に飛び込んでしまう火を消さなければ離したら命令を守れない助けなくちゃ助けなくちゃ命じられたことを守らなければどうすればどうすればどうしたらいい。
思考がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、引きちぎられていく。耳の奥で心臓が馬鹿みたいにうるさい。
そうしている間にも理恵子の体は燃えていく。
鮮やかな矢絣の袖が焼き千切られて煤けた布切れと化す。
丁寧に櫛を通して編み込んだ腰まである亜麻色の髪が、磨き上げた日焼け知らずの滑らかな肌が、聡明で強く美しい瞳が、赤々とした炎の奥で脂と臭気と熱に分解されていく。
もはや炎に包まれていないのは紫袴の下半分しかない。
人一人をくべられた勢いを未だ落とさぬ火炎を見れば、全身が炎に包まれるのは時間の問題だろう。
倖斗はあまりの光景を前に気を失った腕の中の少女を横にやるのも忘れたまま、火炎にもがく主人を見つめた。
助けなければ。
そう思うのに足が動かない。声すら出ない。自分でできないのならば助けを求めなければいけない。頭は確かにそう判断を下している。だが、体が鎖で縛り付けられたように固まってしまっている。
動かなければ救えない/命令を守らなくてはならない。
肌の表面は主人を焼く炎に照らされ熱いのに、内臓は重く冷えていく。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫だ。お嬢様は復活できる。いや、でも、炎が)
ひゅっ……と、喉が掠れた息を鳴らした。
(炎が、赤いまま?)
眼前で少女が燃えている。
赤い赤い灼熱の炎に抱かれて燃えている。
何度も見た、死の淵から帰還するために身の内から湧き出る不死鳥の銀炎ではない。
今彼女を焼いているのは、現実を焦がし骨まで焼いてしまうだろう紅蓮の業火だ。
骨の髄まで燃え尽きたとして、藤宮理恵子の不死身はそれを超えることができるのだろうか。
心臓が嫌な音を立てて軋む。
「お嬢……様」
やっと紡ぎ出せた言葉は無意味な呼びかけで、うねる炎の前では塵に等しい。
「どうして、」
動かない足を叱咤するために腕を持ち上げることすらできない。金縛りにあったように瞬きすら忘れた倖斗に火の粉が飛んで、眼鏡にぶつかる。
炎がぐらりと頽れ、落ちていた赤い花を踏み散らす。
その瞬間。
「遅くなった。下がっているといい」
玲瓏なる声と共に、墨染の外套が揺れた。
決して逞しいとは言えず覇気もない。だというのに異様な安心感があるその背中を見た途端、金縛りが解けた。湧き上がった安堵に大粒の涙が溢れ出す。
「隆惺坊ちゃん……っ」
やる気のない猫に似たいつもの表情のまま、倖斗のもう一人の主人がそこに立っていた。
「倖斗、お前とそこの娘に怪我はないな」
「は、はいっ」
「ならいい。下がっていろ」
革靴の踵を鳴らし、石造りの床の上でうずくまった理恵子の前に隆惺が立つ。
「理恵。祖の炎は使えないんだな」
返事はない。だが、業火を背負ったままのその姿が何よりの答えだった。
常ならばとうに銀炎で華麗な復活を遂げていてもおかしくないほどの損傷を負っているだろうに、炎は現実を焼き続けるそれのまま轟々と唸り声をあげている。
異常事態だ。だが、隆惺は焦ることもなくただ一歩を踏み出した。
「わかった。今、楽にしてやる」
外套の下から冷たく金属が滑る音がして、はっと息をのむ。
「まってください、まって」
倖斗は、その音を聞いたことがある。警護の訓練の時に聞き分けられるように覚えさせられた音だ。よく研がれた刃が鞘の鯉口を走る、特有のその音は。
(軍刀……!)
墨染の外套の裾から、炎をぬらりと弾く刃の鋒が見える。微かに見える隆惺が何をするつもりか、混乱の淵にある頭であっても生粋の従者である倖斗にはすぐにわかった。
主人の望むものを拾い上げるように最適化に努めてきた思考回路が、迷走すら許さず答えを弾き出す。
隆惺は、理恵子の首を落とすつもりだ。
尊厳ある死と、彼女だけに許された再生を与えるために。
だが、倖斗は愕然とした表情で首を横に振った。外套に指をかけ、縋る。
「坊ちゃん、駄目です。僕が、僕がやりますから、だから」
手は震え、立ち上がることすらおぼつかない。そんな体ではなんの意味もないと知っていても、それでも請わずにはいられない。
理恵子を普通の少女として扱ってきた隆惺に介錯をさせてはならないと、愚かなこの身でもわかりきっている。
だが無情にも、隆惺は外套を優しく引いた。
指が布から離れ、無様に少年は倒れ込む。
「今のお前に介錯を? 却下だ。理恵を無駄に苦しめるつもりはない。……想いだけは受け取ろう」
月のように冴え冴えとした声とともに、白刃が上段に構えられた。
燃える令嬢と同じ顔をした少年は深く息をして、迷いなく軍刀を振り抜く。
虚弱とは思えないほど鋭く、一閃と呼ぶに相応しいその一太刀はするりと少女の胴と頭を切り離し、鋒と石床がぶつかり合って高く澄んだ声を発する。
ごとん、と重たい音が炎熱に落ちた。
紅蓮の炎が、白銀の聖炎へと塗り変わる。
今宵はここまで
次回更新は明日朝です




