少女主人は死に、華のように蘇る
「お嬢様」
呆然と呟いて一歩踏み出すと同時に、倖斗は咄嗟に鼻を覆った。
血臭だ。空間自体に染み付いてしまったように濃いそれを前に、目の奥が痛む。
異常は、それだけではなかった。
(体が、見えない)
本来見えて然るべき矢絣も濃紫も、頭部の向こうにない。あるのは、壁だ。重たい鋼の壁に遮られ、少女の体はチラとも見えなくなっているのだ。
細く白い首が押しつぶされているからそうなっているのだと、一拍置いて気づく。
「お嬢様っ」
鼻を覆うことも忘れ、転がるように駆け寄る。詳細を視認し、倖斗は絶句した。
赤い景色が、そこにはあった。
今朝丁寧に櫛を通した亜麻色の髪が彼岸花の花弁の如く放射状に赤色の水たまりに広がっている。左右対称になるように何度も練習した白いリボンは解けて見る影もない。白くほっそりとした頬はべっとりと冷たい石畳に触れてもぴくりともせず、地面に落ちた小さな頭の自重に任せてひしゃげている。
(え?)
恐る恐る、混乱した思考のままその御首に手を伸ばす。
血の気の失せた顔が持ち上がり、ずるりと赤のまだら模様をつけた亜麻色の髪が追随する。血に塗れてもなお長く美しい御髪に欠けはない。櫛を通した時と違うのは付着した血だけだ。霧がかった頭で、彼女が大切にしている髪が切れていなくてよかったなどという場違いな安堵が過ぎる。
(髪は、無事だ。だけど)
ぼたぼたと滴る未だ温かい血が、手のひらを、シャツを、着物を、袴を汚していく。持ち上げた理恵子の首の先は、ここにはない。
押しつぶされているどころの話ではない。理恵子の体と頭は、鋼の壁に切り離されてしまっていた。
ぐるぐると視界が揺れる。息は浅く細切れに、指先は震えながら冷たく、耳は役目を忘れたようにすべての音が遠くなっていく。
呆然としている場合ではないというのに頭が真っ白になって身じろぎもできないまま、胃の腑の底に鉛のような冷たさが溜まっていく。
「倖斗、何をしている」
理恵子の首を拾い上げたまま呆然とする倖斗の背にかけられたのは、聞き慣れた玲瓏たる声。冷たい風に紛れるような椿のかすかな香りが鼻をくすぐった。
「隆惺、坊ちゃん」
振り返れば、腕の中の少女と同じ顔をした少年が肩で息をしながらそこに立っていた。
隆惺が息を整えるのをぼんやりと眺める。朝から走ったせいか普段よりもいっそう青白くなった顔に、介抱しなければと思いながらも倖斗の足はそこから動けない。
腕の中の理恵子の頭を布地に包んでやることすらできずただ座り込んだままでいる倖斗に、もう一人の主が深く息を吐き出す音がした。ひょい、と倖斗の腕から理恵子の首が取り上げられる。持ち上がった理恵子の髪が揺れるのを視線で追えば、血で汚れるのも厭わず胸の辺りで片割れの首を抱いている隆惺の姿があった。
「あれは防火扉だろう。早く上げてやれ」
主の短い命を受けても、いつもなら犬のように走り出す体はぴくりとも動かない。
血溜まりの様子からして理恵子の体はあの向こうにあるのだろう。それは倖斗にも朧げながらわかっている。それでも、グラグラ揺れる視界が落ち着くことはない。
「坊ちゃん、お嬢様が」
普段は意識して従者らしい淡々とした言動を心がけているが、支えとしているものに何かあるとどうしようもなくなってしまう。こんなことでは主の役に立てない。そう頭ではわかっているというのに、体が言うことを聞いてくれないのだ。
細く喉に息が刺さる。焦るばかりの自分を呪う気持ちがわきあがる。そんな折、ぽすんと頭にあたたかなものが触れた。
「大丈夫だ」
視界の端にかかっていた鈍色の癖毛が優しい手つきで撫でられる。隆惺はいつも通りのやる気のない猫のような顔で告げた。
「理恵はこの程度では、死にやしない。お前も知っているだろう?」
奇妙なその言葉の尾を踏むようにして、もう一つの聞き慣れた声がした。
「そうよ。だから早くどかして頂戴」
声の主が隆惺の腕の中で紫の瞳を緩慢に開く。
「なんだ理恵。起きたのか」
首だけになった片割れが喋り出したこと自体には驚くこともなく、隆惺が問う。
「一度起きて、その後また気絶していたみたい。不覚ね。寝起きは悪くないはずなのだけれど」
首、取れたままなのね。と軽い調子で理恵子は自分の血溜まりを見下ろしながら答えた。
どこをどう見ても生首であるが、血まみれであることと血色が悪いところや多少眠そうなところ以外は普段と変わりない。隆惺が小玉スイカほどの大きさのそれををよいせと抱え直したことで、二対の紫色の瞳が揃って倖斗の方を向く。
「ユキ。こちらへおいでなさいな」
「お嬢様……!」
優しく呼びかけられ、倖斗は金縛りが解けたように双子に駆け寄った。こちらもまた驚きはなく、ただ安堵に満ちた笑みを浮かべている。
「ユキ、おまえ本当に慣れないわね。わたくしはこの程度じゃ死なないのよ」
ふふんと今は無い胸を張るように理恵子が笑い、隆惺は呆れた表情を浮かべた。
「と言ってもこのままでは抜け首だぞ。鞍替えするつもりか?」
「そんなつもりはないわ。だから早く扉を上げて頂戴」
「はいっ、今すぐ」
さっと駆け出した倖斗の背を見送ると、隆惺は向かい合うように片割れの頭をくるりと回した。さすがに首がこうも綺麗に切り離されるというのは、いくら理恵子でも珍しく、しげしげと観察してしまう。まるでよく切れる刃物ですっぱりと切られたような輪切りの断面は解体新書でも見ているようだ。
「妙な死に方をしたようだな? 理恵よ」
「本当にね。少し油断しちゃったわ」
肩があればすくめて見せていたに違いない表情で肩をすくめる理恵子の頬を親指で突く。死後硬直が解けたばかりなのか普段より少し硬い。
「何があったか覚えているか?」
「大まかにはね。体を戻したら教えるわ。さすがに冷たいのよ、石畳」
「そうか。……確かに、ひどいな」
親指から伝わる冷たさに隆惺が眉を顰めた。普段は子供体温であることを差し引いても、氷と遜色ないほどに冷え切っている。
そんなことを思っていると、がこんと重々しい音を立てて防火扉が開いた。上部の溝へと鉄の扉が折りたたむように格納されていく。倖斗が開閉レバーのもとにたどり着いたらしい。
扉の向こうに首が取れた状態で倒れている体が見えた。衣服の乱れはなく、ただただ半円状の血溜まりの中に横たわっている。頭がないことに目を瞑れば眠っているようにすら見えた。真っ赤な丸い傷口がこちらに向いているので、到底できない誤認であるが。
「仕事が早いわね。流石だわ」
死なないとはいえ自分の首なし死体がそこに転がっているとは思えない気楽さで、倖斗の仕事の早さを自慢するように理恵子が言う。
「命令待ちさえどうにかなればいいんだがな。どうする? 下ろすか?」
「大丈夫よ。このまま燃えるわ」
ふふんと愛らしく笑うや否や、少女の頭と体がたちまち銀色の炎に包まれた。
この世の輝けるもの全てを集めたような銀炎が、伏していた体を、持ち上げられていた頭部を、その場に撒き散らされていた血の赤を回収するように燃え上がる。
宝石のような少女の全身が一瞬にして灰に還り、あらゆる毀損をなかったことにして蘇り、生まれ直す。
「っと、こんなものかしらね」
ぐっと伸びをして、無惨な傷一つない白い首の上をサッと払えば血の一滴もついていない亜麻色の髪がサラサラと背中へと滑り落ちる。調子を確かめるようにクルンと回って、袖の揺れの重たさに柳眉がもうっと寄った。
「どうして布にしみた血はなくならないのかしらね。また仕立てなくちゃ」
まるで紅茶をこぼして着物をダメにしてしまった、とでもいうような調子でため息をこぼす理恵子に隆惺が眉を顰める。
この瞬間、死の痛みを素知らぬように振る舞う片割れに安堵してしまう自分が嫌いだとでも言うように。
そんな隆惺の表情に気づきながら、理恵子は常と変わらぬ輝かしさで笑う。
「ここに居たのがわたくしでよかったわ。他の子の命は取り返しがつかないもの」
藤宮理恵子。彼女は不死身の乙女である。
本日の投稿はここまでです。次回は明日9時頃




